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2. 先生

「おはよう」  起床後に顔を洗い洗面所を出ると、当たり前のように天使がソファに鎮座している。彼は、温かみもなにもない挨拶を投げかけながら胡桃色の髪を揺らしてこちらを見た。  よほど引きつった顔をしていたのか、天使は一目見るなりひどい顔だよと真顔で窘めたが、その言葉は藍春の顔をより一層歪ませるだけだった。  藍春は挨拶を返すことなく、冷蔵庫のペットボトルを取り出し水をごくごくと飲みくだした。 「随分と長い睡眠時間だな」  天使が朝の7時を示す時計に目をやりながら再び藍春に声をかける。 「……まぁ、夢じゃないよね」 「もういい加減諦めてくれないか」  飄々とした態度の天使に思わず大きなため息が漏れた。  藍春の生活は、基本的にこの部屋内で営まれている。  外に出られるのは仕事の時だけだ。  生活、といってもできることは非常に限られているのだが。  藍春は「よし」と気合いを入れ、本棚の前に立つ。その真横で天使が本棚に並ぶ本の数々を見て目を瞬かせていた。   天井まで高さがある本棚には隙間なく本が敷き詰められている。二割が医学書。物理学、心理学が一割。日本国内の地図が一割。毒や兵器についての解説書が数冊ずつ。宗教に関する本が一冊。  そして──本棚の半分以上を占めるのは、数学書であった。 「規模の割にはなんとも偏ったラインナップだな……数学が好きなのか?」  藍春は一瞬、ハヤテの質問に目を留めたあと、驚いたように目を大きくし、少し顔を赤らめながら答える。 「え? あ、うん……。僕には、数学しかないから……」  そう答える声は些か弱々しく聞こえた。  本棚の前でしばらく指を迷わせた後、一冊の数学書を引き抜く。  すると、藍春の身体が我慢ならなくなったかのようにふるふると震え出した。  そして——数学書を抱きしめながら天使に満面の笑みを向け、勢いよく言葉を紡ぐ。 「数学って、すっごく面白いんだよ!」  呆気にとられた天使を気にすることなく、藍春は堰を切ったように語り始めた。 「問題が解けた瞬間のあの快感! 本っ当にたまらない……!」 「……は?」  我を忘れて本を抱きしめながらしなをつくる藍春に、天使は思わず目を細めて少しばかり後ずさった。  藍春はそんな天使には目もくれず、さらに早口で続ける。 「もちろん解けた瞬間だけじゃないよ? 最初は複雑そうな問題に見えても、一つ一つ論理を組み立て徐々に紐解かれていく過程も気持ちよくて大好き! 最終的に全ての要素が綺麗に噛み合っていくその様がもう……嬉しくて嬉しくて。こんなにも厳密で美しい学問は他にないんじゃないかな?」  藍春は目をキラキラさせて、手を振りながら語り続ける。その勢いに天使はついていけず、目を見開いてぽかんとした。  その後も藍春の言葉の嵐は止まらない。抑圧されていたものが解放されたかのように、次々とテーマが移り、語り尽くしている。天使はその熱量に圧倒されるしかなかった。少し引き気味に立ち尽くし、心の中で呆れと驚きを交えた感情を抱えたまま、何とか言葉を絞り出した。 「……君がどれだけ数学が好きかは、よくわかった」  今まで溜め込んでいた情熱を吐き出せた藍春はすっきりとした顔をしていた。 「君の情熱はすごいけど、ちょっとついていけないな」  感心より呆れの方が強く混じる天使の言葉に、藍春は恥ずかしさと寂しさを感じ目を逸らす。 「ま、君たちには必要のないものなんだろうね」  理解してもらおうとは思わない。聞かれたから口が勝手に動いただけだ。  藍春は熱が落ち着いたのか、机の上に先程の数学書とノートを広げ席に着く。 「最初から好きだったわけじゃない。ただの暇つぶしだよ。先生が与えてくれた唯一のね」  仕事以外の時間、ひたすらに無聊を託つ藍春は、数字と向き合うことしか許されていなかった。  むしろ数学を好きになれたのは運がいいことなのかもしれない。  そう思いながら開いたノートには、びっしりと数字やら記号が羅列されている。 「なんで数学なんだ?」 「うーん。なんでだろうね。消去法じゃない? ──先生、僕に外の世界への興味を持って欲しくないみたい」  なので外の世界に関するもの、純文学や、歴史、哲学、社会、政治……そういった類のものは一切目を触れさせないようにされている。  といっても、藍春自身はそれらの存在すらほとんど知らないので、主人の思惑通り好奇心が湧くこともあまりなかった。  もちろん今まで一度もないわけではなかったが、知りたいと思う心は“ここに来る前に”とうに折れていた。  それに、世界から隔離されているこの状況が生まれてからずっととなると、もう観念せざるを得なくなっている。 「……つまり君は、この部屋に監禁されていて、自由に出歩くことはもちろん、興味を持つことさえも許されていないのか?」  無表情な天使の顔からは感情は見られないが、声音には多少の驚きの色が乗っていた。 「別にいいんだ。先生から、外には恐ろしいものがたくさんいるって言われた。先生の言いつけを守っていれば、怖いものはこないって」 「そんなの、ただの洗脳だよ」  その言葉を口にした途端、天使は慌てて口を押さえていた。どうやら失言だったらしいが、藍春の顔色が変わることはない。 「わかってるよ。でも僕は、普通の人間じゃない。今更外に出たとしても、僕が生きていける術を知らない。生きられるかもわからない。今より苦しむだけだって。だったら、例え鳥籠だとしても僕はここで先生からの愛情を受けていた方がいい。僕にとって、先生が世界の全てだ。先生を愛して、先生に愛されるだけで僕はめいっぱい幸せなんだ」  その言葉を聞いた天使は、口を噤んだ。また失言をしてしまうからだろうか。  あまり自分のことを考えたくなかった藍春は、ふと目についた言葉について天使に訊ねる。 「天使って、フェルマーの最終定理とかわかるの?」 「……神様にきけば」  そう答える天使に、藍春は「それってわからないってことだよね」とケラケラ笑った。    天使の仕事の9割は“ある瞬間”が訪れるまで、ひたすら見張っているだけの単純な仕事だ。単純ゆえに、ひどく退屈な仕事でもある。  しかしその感覚は人間だけのもので、基本的に天使は退屈さゆえの苦痛というものを感じないようになっていた。  なので、天使は数学に勤しむ藍春を何時間でもモニタリングすることは出来るのだが── 「なぁ、次のページを捲ってくれないか」  暇つぶしの道具があれば興味もわく。天使は藍春に頼んで部屋に唯一あった宗教の本を閲読していた。  何故宗教の本があるのかと藍春は主人に尋ねたことがあるが、「宗派によって最終的な行動原理が異なっており、理解することでその行動を予測することができる」という理由らしい。一応目は通したがその知識が役に立ったことは今まで一度もない。  藍春は天使のお願いに従わず、握っているペンを今にも折ってしまいそうな力で手を震わせていた。 「あのさぁ! いい加減自分で捲ってくれないかなぁ!」  堪え切れず机を叩き、大声をあげながら立ち上がる。  ──もう少しで、今の問題が解けそうだったのに!  しかしそんな藍春の姿に臆するどころか、キョトンとしながら天使は小首を傾げた。 「最初に言っただろう。僕はこの世の物質には干渉することが出来ないからものを動かしたり触ったりすることが出来ないと」  もちろん仕事内容によってはそれも可能なのだが、今の天使にはその能力を与えられていない。物質を動かしたことによって運命が変わってしまうことを防ぐためだった。 「だから君が捲ってくれないと僕はこの本を読み終えることができない。人間界ではこんな出鱈目な話が当たり前のように遍満しているなんてね。とんだお笑い種だ」  そういう天使の顔は相変わらずの能面顔で一ミリも笑っていないが、彼にとっては本当に面白いのだろう。藍春の怒りを買ってでも続きを読みたいと思う程度には。  藍春がその宗教を広めたわけではないし、話を考えたわけでもないが、天使が人間を馬鹿にしているという一点に於いて今の藍春の堪忍袋の緒を切れさせるには十分すぎる言葉だった。 「絶対手伝わない! うざい! ばーか!」  怒りに任せて声を出したものの、出てくる言葉はただただ幼稚なもので自分で言ってて情けないほどだった。  しかし、こんなふうに人に暴言を吐くのは藍春にとっては初めての経験だ。その新鮮さゆえに別の意味ですっきりはしていた。 「急に口が悪いな」  諦めた天使は藍春の後ろにまわり数学書に目を落とすが、やはりそこには意味不明な記号や数字の羅列ばかりでとても楽しめそうなものではなかった。  耳元で文句を垂れる天使と言い合いしているうちに、一日は過ぎていった。     ————  誰かと同じ空間で、時間を共有し続けるということ。  それがどういう意味か、藍春はこの夜思い知ることになった。    ふと目にしたデジタル時計の数字は21:03を示していた。 「……そろそろシャワー浴びないと」  ぐっと身体を伸ばしたあと、ノートを閉じ本を片付ける。  浴室に向かった藍春は、シャワーを浴びる前に用意された着替えに手を伸ばし、そして──手を止めた。  その瞬間、サーッと血の気が引いていく感覚が耳の奥で響いた。  ベビードール。黒いレースとフリルがこれでもかとあしらわれた、少女趣味の極致のような装いがそこにある。 「ああ……今日だった……」  自分がどれほど注意力を欠いていたかを思い知る。  天使という異質な存在のせいで、完全に意識の外に追いやっていた。  普段はこんなものを恥ずかしいなどと感じたことはない。着替えも準備も、いつも一人きりの空間で淡々と行っていたから。  だが、今日は違う。部屋には第三者──しかも、なぜか何も感じていない風の天使が居座っている。  藍春は唇を噛み、ゆっくりと着替えに手を伸ばす。  シャワーを浴び終えた頃には、羞恥と緊張でどこか体がこわばっていた。  浴室の扉を開けて出てくると、案の定、天使がこちらを見て目をぱちくりさせる。 「変わった趣味だね」 「僕の趣味じゃない……」  語気はいつもより弱々しい。  風通しがよすぎる下着のせいで、肌が過敏に反応しているのを感じながら、藍春は部屋の片隅で身じろぎをした。  レースの下着は“それ用”のもの。前を辛うじてベビードールが覆っているが、動けばすぐに覗いてしまいそうだ。  恥ずかしい。ただただ恥ずかしい。  自分の身体が見られることが恥なのではない。  この格好を、出会って間もない、素性の知れない存在に晒すという、その行為が耐え難かった。  本来であれば、髪を梳かす時間は藍春にとって数少ない癒しの時間だ。  丁寧にブラシを入れ、クリームで肌を整えながら、今夜はどんな風にされるのかと想像を膨らませる──そんな甘い期待を抱く時間だったはずなのに。 「……はあ」  深くため息をつきながら、何ひとつ気持ちが乗らない支度を黙々と進めていく。  天使がいなければ、もっとマシな気分だったはずだ。 「ねぇ、相談なんだけど……」  意を決して口を開くと、天使は相変わらずの無表情のままソファに座り、ベッドで身支度を整えている藍春を見ていた。 「しばらく席を外してくれないかな」 「それは無理だ」  藍春のわずかな期待は即座に打ち砕かれる。  だが、天使は少し考える素振りを見せた後、意外な提案を口にした。 「だが、姿を消すことならできる」  なんでも、波長を微調整することで、“見える人間”にすら自分の姿を見えなくさせることができるらしい。 「……本当に?」  その言葉どおり、藍春が瞬きをすると、天使の姿は部屋から消えていた。  まるで最初からいなかったかのように、部屋は静まり返っている。 「……うん、これなら……少しはマシかも」 「そうか」  無の空間から声だけが響いてくる。不思議な感覚だ。 「っていうか、一生それでいなよ」 「それは無理だ」  あっさりと返され、肩を落としかけたそのとき。内扉から、控えめなノック音が響く。  藍春は天使がいないことを再度確認し、呼吸を整えて扉へ向かう。  扉を開けた瞬間、そこに立っていたのは、白衣を羽織った長身の男だった。  三十代半ば。やや長めの白髪。シャープなパーツが印象的な端正な顔立ちに、洗練されたスーツがよく映えている。  あまりに整いすぎたその容姿に、藍春の胸が一瞬で高鳴った。 「せ、先生……こんばんは」  頬に紅葉を散らせながら主人を見上げる藍春の声音は、どこか震えていた。  天使に向ける感情とはまるで違う、混じりけのあるそれ。  それは、愛慕にも似た、けれどもっと屈折した熱を孕んでいる。 「失礼するよ」  低く響くバリトンボイスに、藍春の体が小さく震える。  たったそれだけで、全身がほのかに疼くのを自覚した。  主人はベッドに直行することなく、まず藍春の両肩をそっと掴んだ。 「昨日はお疲れ様。何の問題もなかったよ。……さすが、私の子だ」 「っ……ありがとうございます。……よかった……」  安堵で崩れそうになる表情。  そんな藍春の頬を両手で包み、主人は繰り返しキスを落とす。  一つ一つが軽くて柔らかいのに、心の奥まで火がつくようだった。 「今日も可愛いね。似合ってるよ」  繰り返されるキスと甘い言葉が、現実を霞ませていく。  羞恥も戸惑いも、すべて麻薬のように薄れていった。 (どうせすぐ脱がされるくせに)  そう思っても、もう口には出せなかった。というか、何も言えなくなっていた。  主人の腕に抱かれ、ベッドへ向かうその途中——  視界の隅で、確かに“何か”がちらりと動いた。  目を向けると、ソファに、あの天使がいた。  さっきまで消えていたはずのその姿が、無表情のまま、こちらを見ていた。  そして──無言のまま、親指をぐっと立ててみせた。 「……っ!」 (あいつ……っ!)  羞恥と怒りで全身に血が巡る。  息が詰まりそうになるその熱を、主人は別の感情だと勘違いしたようで、少し意地悪そうに笑う。  その瞬間、藍春の心に、黒い感情が芽生えた。 (──殺してやる)  それは、藍春が生まれて初めて、明確に人に対して抱いた殺意だった。   ————    情事が終わったあと、主人はいつものように、乱れた衣服を丁寧に直しながら、スーツと白衣を重ねて着た。  その背中は、まるで最初から何もなかったかのように凛としていて、藍春をふと現実に引き戻す。  シーツの上に取り残された藍春は、いつもなら満たされているはずの余韻の中で、小さく震えていた。  うまくいかなかった。それが悔しくて、情けなくて、目元にじわりと涙が滲んだ。  主人はそんな藍春の姿に気づいていたが、決して責めたりはしなかった。  藍春の肩に掛けられたタオルをそっと整え、柔らかな声を投げかける。 「そういう日もあるよ。気にしないで」  その一言に、また涙がこぼれそうになる。  だから、藍春はただ頷くだけにとどめた。  退室の前にもう一度口付けられた額が、ぽうっと熱くなる。頭の奥が、ほんの少しだけぽやっとして、視界が霞んだ。  ──だが。  ハッとして、ソファの方へと目をやる。  案の定、そこにはあの天使がいつの間にか戻ってきていた。  涼しげな顔で膝に両手を置いて、まるで何事もなかったかのように佇んでいる。  ぐつぐつと腹の底から煮え立つような感情がこみ上げる。  羞恥と怒りと、そしてよくわからない何かが混ざり合って、藍春はベッドから勢いよく飛び出した。  身に纏ったガウンが着崩れるのも気にせず、大股でソファへと詰め寄り、華奢な肩を力任せに掴んで揺さぶる。 「お前……っ! 見たのか!? 見てたのか!? ずっと!!」  天使は微動だにせず、ただ瞬きもせずに言う。 「当たり前だろう。それが僕に与えられた仕事なんだから」 「この、変態っ!! お前ら天使は全員そうなのか!? 人の……その……っ、あれを監視するのが仕事だなんて!」 「人聞きが悪いな。それだけが仕事なわけではない。監視は仕事の一環に過ぎない」 「お前のせいでっ……! お前のせいで上手く出来なかったじゃないか!!」  叫びながら、再び肩をガクガクと揺さぶる。  力任せに揺さぶっても、天使は相変わらず表情を崩さなかった。 「まぁまぁ、主人も気にするなって言ってたじゃないか」 「何が『まぁまぁ』だ!! 余計なことをするからだろう!! あの、親指とか、あれとかっ……!」  言いながら、顔が真っ赤になる。  怒っているはずなのに、口にするたび羞恥が上塗りされていく。  ──先程まで、天使に対して横柄な態度をとっていたのが全て裏目に出てしまった。  とんでもなく弱い部分を全て曝け出した気分だ。弱みを握られたようだと言ってもいい。  今後、同じようなことが起きた場合の対処法を考えなければいけない。  ──が、冷静になれない今はやめておこう。  この存在を消す方法しか、考えられなさそうだ。    もう何もかもがどうでもよくなって、藍春は天使の向かいにあるソファへ、どさりと腰を下ろした。  天使はそれを咎めるでもなく、目を閉じて、静かにその場に座っている。 「別に、人間の性行為なんて腐るほど見てきたし、同性同士だって珍しくもない。毎日やってる人間もいたし、日常生活の一部だろう」  あまりにドライな返答に、肩透かしを食った気がした。  散々意識して、気を張って、ぐちゃぐちゃになっていたのが馬鹿みたいに思える。  それと同時に、どこか少し安心した気もした。  ──自分のしていることは、他人にとっても当たり前の行為だった、ということが。 「……他の人も似たようなことしてるんだね」  気まずい沈黙に耐えかねて、得られた安心感をなんとなしに口から溢してみた。  口にすると同時に、新たな好奇心が沸いてくる。 「ねぇねぇ、普通の人は好きな人同士で他になにかしてることある?」  主人ともっといろんなことをしたいと思うが、いかんせん彼と一緒にいられる時間は仕事の話の時か、今回のように仕事の後に褒美をくれる時だけだ。  それ以上のわがままは言わないようにしているが、例えば、ご褒美に別のことをしたいと言えば、願いを叶えてくれるのではないだろうか。  今は無理でも、将来的に出来ることが増えれば出来るかもしれない。  赤くなる頬を手で抑えながら尋ねると、答えではない言葉が返ってきた。 「君は、本当にあの男のことが好きなんだな」  突然の問いかけに、藍春は一瞬だけ瞬きをした。返答を求める口調ではなかったが、その言葉が不意に胸の奥を突いた。  一緒にいたいと思うこの気持ちは、確かに好意に他ならない。自分でも、否定する理由はどこにも見当たらなかった。だから藍春は、素直に頷いた。 「え? う、うん。好きだよ。もっと一緒にいたいと思うし、いろんなことしてみたいよ」  頬が少しだけ熱を持つ。声に出して認めることで、自分の気持ちが確かなものだと理解できた。  ただ、それは決して一方通行ではない――そう信じている。  主人もまた、藍春の“とある病気”を治すため、研究に心血を注いでいるのだ。  今の暮らしは限られているけれど、もし治る日が来れば、もっと自由な時間が手に入るかもしれない。  外に出ることだって、きっと許される。一緒に出かけて、普通の人間みたいに過ごすことも——。  だからこそ、限られた時間を最大限研究に費やすために、会える時間も絞られている。それでも「もう少しだけ待ってほしい」と主人は何度も言ってくれた。その言葉を信じて、藍春は今日も待ち続けている。 「だからね、将来一緒にしたいことを今から考えるために、他の人が何してるのか知りたいんだ」  天使はその言葉に、まるで観察するかのような目を向けてきた。無表情の奥にある感情を読み取るのは難しいが、どこか言いたげに、しかし躊躇うように目を細める。  恋という感情は、天使にとって不可解なものなのかもしれない。  やがて、天使は小さく息を吸い、再び口を開いた。 「天使の多くは恋愛成就の手伝い……所謂恋のキューピッドという仕事を経験している者が多い。それがこの世で最も数を必要とされている仕事だからだ。君が期待していたやつだな。かくいう僕もその仕事を担ったことはあるけど、生憎遥か昔の話で……。少し待ってくれないか」  そう言うと天使は目を閉じ、まるで瞑想でも始めるように静かになった。瞼の裏で、過去の記憶を必死に探っているのだろう。藍春は静かに待った。  やがて天使はゆっくりと目を開き、淡々と告げた。 「的を射た答えかはわからないが、恋仲の人間達はとりあえず二人で外出する、所謂“デート”というものを行っている」 「デート?」  聞いたことのない言葉に、藍春はきょとんと目を見開いた。 「へぇ、外出ってどんなところに行くの?」  興味津々で問いかける藍春に、天使は再び眉間に指をあて、記憶の奥底にある情報を引っ張り出そうとする。瞑想が長引き、藍春はついしびれを切らしかける。 「ねぇ、まだ?」と口にしかけた時、天使がふと目を開いた。 「…………水族館、とか」 「す……すいぞくかん?」  再び、藍春の耳には聞き慣れない響きが届く。 「確か、直近でその現場に当たった時の場所はそうだった」 「すいぞくかんってなに? どんなところ?」  藍春は身を乗り出し、興味の波を隠しきれない。天使は少し考え込みながら答える。 「海洋生物が展示されている施設だな。要するに魚がたくさんいる場所だ」 「魚……」  魚という単語には聞き覚えがあった。仕事先で見かけた水槽の中に泳いでいた、それらしい生き物の姿が頭の中を過る。  あれは、虫のようなものが水の中を上下左右に動いていた光景だった——たぶん、それが魚。 「どんな魚がいるの?」 「どんなって、小さかったり、大きかったり」 「えー! わからないよ! ねぇねぇ、ちょっとさ、絵で描いてみてよ」  藍春は瞳をきらきらさせながら期待の眼差しを向けた。天使は僅かに困った顔で首を傾げる。 「……絵なんて描いたことない」  だが次の瞬間、彼の瞳に微かな光が宿る。  藍春の期待に応えたい気持ちと、未知の能力への探究心が交差する。  意気揚々とノートを取りに行こうとする藍春を片手で制し、天使は静かに手元の空間に指を滑らせ線を創造する。  細くてしなやかな指から生まれたそれを見た藍春は──思わず吹き出し、腹を抱えて笑い出した。 「あははは! なにこれ? 本当にこれが魚!?」  歪な楕円形に歪な三角形がくっついているだけの、ただの歪な記号にしか見えなかった。申し訳程度にちょんと付いてる点を目だと主張すれば、生物に見えないことは無い。  ただ、魚をちゃんと見たことの無い藍春にとっては、本当にこんな生物が存在するのかと疑問に思うほどの出来栄えであった。  確かに写実的とまではいかないが、そんなに酷い絵なのかと僅かに顔を顰めながら天使は自分で描いた絵を見つめていた。 「見たことないくせによくそんなに大笑いできるな」 「だって! こんな生き物いたら絶対おかしいもん!」  笑い疲れた藍春は呼吸を整えながらベッドの上で大の字になっているのを正座しながら見下ろしていた天使は、少しだけ頬が緩む。 「じゃあ、将来水族館に行った時に答え合わせね」  その言葉に天使は今し方湧き出てきた感情を抑え、静かに頷いた。    その日から、忘れかけていた藍春の好奇心が少しずつ呼び戻されるのであった。

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