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1. 出会い

 深い夜を歩く少年の耳朶を刺激するのは、街灯の安定器が発する振動音と自身の浅い呼吸音だけだった。  12月の深夜はとにかく冷える。日中帯がどうだったか少年には知る術もないが、ここ数日で急激に気温が下がったのは事実だ。一仕事終えてきた己の体温の高さと凍える程の外気との温度差に、少年の頭は締め付けられるようにキリキリと痛み出してきた。同時に来たる一月、二月への絶望が全身をさらに強張らせる。  それに加えて、少年はワイシャツにスラックスという極々シンプルな、言い換えれば非常に寒々しい格好をしている。上着を着用していないのは別に好きでそうしているわけでも命じられてそうしているわけではない。仕事の最中の記憶がいつも曖昧──それも、仕事先へ向かうところからだ──で、気がつくと帰路に立たされているからだった。  最近こそほんの僅かだが断片的な記憶が残っているものの、やはり大部分が抜けてしまっていては安心できない。  仕事中の記憶が曖昧というのは酷く恐ろしい。結果をどれだけ念入りに確認しようと過程で何らかの問題がないとは言えない。それが、どれだけの不安を生み出していることか。  今まで主人からは特にどやされたことはないので、上手くやれてはいるのだろう。だが、今回はどうだ? 今までうまくやれていたからといって、今回もそうだという保証はない。  少年は、彼であり彼ではない彼のミスによりいつ罰を受けることになるのかという恐怖に苛まれながらこの仕事を受けていた。  仕事の往還は、基本的に車移動である。だが今夜に限っては都合が悪く、駐車場所まではかなりの距離を歩く羽目になった。  少年は疲労と緊張で今にも縺れそうな足を、なんとか動かし続けている。  右肩に結んだ黒髪を揺らしながら、静まり返った森の中を駆けていた。  道は一応舗装されていて、ところどころに街灯が灯っている。いつも通される明かりひとつない獣道に比べれば、まだマシな方だった。  「……わ」  ふと、木々の密度が途切れた場所に出た。  その隙間から、山の麓に広がる街が見える。夜中だというのに、光の海が煌めいていた。  少年は一瞬その光景に見惚れる。けれどすぐに頭を振り、足を再び前へと動かした。  とにかく早く安心で満たされている揺籃の中に戻りたい。  焦燥感で内臓を煮えたぎらせながらも、体内にある濁り淀んだ地下の空気を吐き捨て、次いつ吸えるかわからない澄んだ空気を目いっぱい吸い込み肺を満たした。  瞬間、不思議な音が鼓膜を震わせた。  小さな硝子の破片がこすれたような音だった。聞いたことはないが、自然音でないことも確かだ。歩みを止めるには十分なほど異質な音であった。  気配を感じないことに違和感と恐怖を覚え、キョロキョロと息を殺してあたりを見回す。しかし、そこに人はいなかった。  不安が胸をざわつかせる中後ろを振り向いた時、思わず息が詰まった。  その違和感は、先程追い越したばかりの電柱が放っている。少年の目線の少し上……あまりにも異様なものだというのは、気配を感じられない時点でわかった。  視界に入れるのが怖い。しかし、乱れる呼吸を押し殺し、ゆっくりと視線を上げていく。  ——顔もある。手足もある。胴体もある。  少年と同じ人間の姿で、真っ白い絹のようなキトンを身にまとい、肩口まで伸びた胡桃色の絹糸を揺らしながら、"それ"は電柱に立っていた。  いや、立っているという説明は不適切だろう。電柱に触れているのはつま先のみで、ほぼ浮いている。  その浮力に説得力を持たせるのは、人間ではありえない背中に生えた大きな翼……。  "それ"が人間ではないことは、火を見るより明らかだった。  呼吸をすることも忘れ“それ”に視界のピントを合わせる。あちらもまた、見たことのない鮮やかな水色の瞳をこちらに向け、驚いたように目を丸くしてこちらを凝視していた。  まるで自分が見えている少年の存在が信じられないかのように。 『藍春?』  右耳から聞こえる声に一瞬で現実に引き戻され、呼吸を思い出す。同時に瞬きをすると"それ"は視界から忽然と消えていた。  "幻視は後頭葉を中心とした病変により起こる症状である"  部屋にある医学書に書かれていた一文を思い出し、少年──藍春は口角を引き攣りながらも、疲労で縺れそうな足に鞭を打ち、出来うる限りのスピードで夜の森を駆け抜けていった。  木々の群れから解き放たれ、広い道路の路肩に停めてある真っ黒いセダンの助手席へ飛び乗ると、反射的に安堵で大きな溜め息が口から漏れだした。  運転席には、寝癖のままの蓬髪とだらしない無精髭が生えた男が座っていた。その相貌に似合わない長い足の上で叩いてたノートパソコンを閉じて後部座席に放り投げると、早々に車にエンジンをかける。 「何かあったのか」  咥えているタバコから煙を燻らせながら運転手がアクセルを踏み込んだ。いつもなら副流煙に顔を顰めるが、今日はそんなことを気にしていられない。 「いえ…………」 「なんかあったろ」  藍春は手元に用意してあったペットボトルの水に口をつける。口の中の異物感を洗い流すと、自然と喉の滑りまでよくなってくる。 「冬馬さんは、幻覚って見た事ありますか?」 「幻覚?」  こちらを一瞥し、なんてことない風に彼は答える。 「流石に、ないな」 「ですよね」 「どんなものだ」  藍春は先程起こった出来事を男──冬馬に話した。 「それ、しばらくアイツには黙ってた方がいいかもな」  聞くまでもなく彼もまた"それ"を幻覚として捉えている。たった一瞬の出来事で今以上に検査が増えるのは煩わしいのでもちろん藍春もそのつもりではあった。  先ほどのたった一瞬の出来事で済めば、の話だが。 「十四歳にしてせん妄って。お前も大変だな」  冬馬の茶々に反応できないほど恐怖している藍春は、項垂れたまま動かなかった。 「ま、仕事は上手くやったんだろ?」  あまりにも不安そうな顔をしていたのか、ワントーン明るい声で話題を変えてくる。 「えぇ、まぁ」  上手くやってなかったらこんな話は出来ないどころかここに存在すらしてないので愚問といえば愚問だ。 「お疲れ。まあ、ゆっくり休め」  その心地よい一言で一気に緊張がほぐれ、ドア側に凭れ掛かる。  藍春はそのまま気絶するように眠りに落ちていった。 ────  仕事を終えた後の匂いも大概だが、部屋に向かうまでの道のりである旧地下水路もなかなかのものだった。  今はもう使われておらず、申し訳程度に滲み出ている水がぴたぴたと足音を響かせている。 「さっきのは夢、夢、幻覚……」 そう譫言のように呟きながら、本当に水の中を歩くような重い足取りで自分の住処へ向かっている最中だった。 「やっぱり君にも見えてたんだ」  突然耳元で声が聞こえた。  一瞬思考が止まり、反射的に腰に手が伸びる。  振り向くと同時に包丁の刃先を向けると、その僅か5mm先に、先ほど電柱の上に見えた“幻覚”の鼻先があった。  雪のような白い肌。胡桃色の髪。水色の瞳。そして、およそ現代人のものとは思えない絹のキトンと妙な煌めきを放ちながら浮遊する装飾品を身に纏っている。骨格と若干低めの声からして藍春と同年代の男だろう。  間違いない、先程見たものと同じだ。違うのは大きな翼が無いことだけだった。  脳が拒んでいるのを無理やり認識させるかのように、彼の青い瞳は藍春の視線を縫い付けて離さなかった。  二人の視線がかち合ったまま、空気が凍ったかのような瞬間を経て、ようやく藍春は声帯を震わせる。 「だ、誰!?」 「まさか本当に僕を視認できる存在がいるとは……」 「誰なんだよ!?」 「御父様曰くほぼゼロに等しい確率ではあるけども、波長が合う人間が出てくることは不思議では無いらしい」 「な、なんなんだよ波長って……」 「前例はあるものの、御父様にとっては初めてのケースらしいから実験的にこのまま業務に取り掛かることになった」  一体何を話しているのだろう。  というか、誰に話しているのだろう。  会話が1ミリも合わない。内容も理解できない。  動揺で刃先がぶれる。  御父様? 波長? 業務?  そもそもなんでこいつは今の今まで気配を消して真後ろに居られたんだ?  初めて遭遇した場所から車で数十分の距離だがどうやって追いかけてきた?  この地下通路にはどうやって入ってきた?  疑念が尽きず、何から聞けば分からない。  そもそも、こいつは本当に……。 「人間、なの……?」  震える唇で訊ねると、謎の生物は能面のような顔のまま、あろう事か向けられている包丁を素手で握った。  それもかなりの力だ、反射的にこちらも力むが到底かなわない。そして、それだけ力を入れているはずなのに彼の手には一切傷が付かない。 「試してみるかい?」  握ったまま、刃先は彼の心臓部に触れる。 「それともこっちの方が確実かな?」  抵抗出来ない力で包丁は心臓部から首の頸動脈へ移動する。確かに、ここが確実だ。 「っっ……ああああ!!!」  震える手で、勢い任せに包丁を引いた。  幸いここはもう既にこちらのテリトリーの中だ。死体の処理なんていくらでもできる。  ——問題は、藍春が人に手を下すのが初めてだということだ。  しかし、得られたのは肉を断つようなものでは断じてなく、柔らかい何か……粘土のようなものに刃を通したような感触のみだった。  包丁を引き抜いた後、シャワーのように吹き出るはずの血飛沫は一滴も視界に現れない。それどころか首元に傷一つついていない。  刃を通した痕跡といえば、"それ"の肩でわずかに揺れる胡桃色の髪の毛のみだった。  静止して三秒経つが、全く理解が追いつかない。 「そういうことだから」  涼しげに彼が言った後、藍春は瞬時に彼に背を向けて自分の部屋へと向かっていった。  藍春の部屋は先程通っていた旧地下水路よりさらに下ったところにある。  素人には見破れない仕掛けが施してある入口は、藍春と彼の主人しか開け方を知らない。  走って距離を広げたおかげで、この入口を解錠する時に"あれ"の姿は見当たらなかった。  下り階段を挟み、二度扉を開閉する動作すら煩わしい。ようやく自分の部屋に足を踏み入れることができた。  疲れ切っている中、さらに全速力で駆け抜けたため、ドアを閉めた状態で暫く肩で大きな呼吸をする。しばらくして落ち着くと、思わず全身の力が抜けへたり込んでしまった。  顔をあげ、見慣れた自室を見回す。  そこは三十畳ほどの広く明るい部屋だった。  左手にはカーテンで仕切られたバスルーム。その手前に簡素なキッチンと冷蔵庫が備え付けられており、すぐ側には白い二人がけのソファがテーブルを挟んで置かれている。  右手の壁一面には本棚が並んでおり、本棚の前には簡素な机と椅子が静かに佇んでいる。  そして、自身の目の前には大きなベッドが綺麗にメイキングされた状態で置かれていた。  全ての家具が真っ白で目が眩むほどだった。逆にそれが刺激となり、程なく現実に戻ってきたような感覚を覚え、安堵のため息が漏れる。  やはり、よほど疲れていたのだ。  そう自分に言い聞かせ、部屋の左側に設置されているバスルームへ向かい、汚れまみれの服を脱ぎ捨て浴室に向かう。  シャワーで身体を流した後、たっぷりと湯が張られている浴室に身を沈め、心身の汚れをゆっくりと外へ逃していく。  日常生活の中で数少ない癒される瞬間なのだが、今日はどうしても胸のざわめきが邪魔をするため早々にお湯からあがった。  タオルで髪を拭きながら恐る恐るシャワー室から出ると、すぐそこのソファに"あれ"が腰掛けているのが目に入った。  三度目ともなるともはや驚きよりも諦念の方が大きい。優雅に足を組んで目を閉じている姿を見て大きなため息が出た。 「なんでいるんだ」 「汚れが落ちると見栄えが変わるな」 「なんでいるんだ!」  今まで出したことの無いような大声を向けても、"それ"が動じる様子は無い。 「僕らはこの世界の物質に干渉せずに移動できる。つまり壁なんて擦り抜け放題ってわけなんだ」  ……あまりにも現実離れした話である。  会話ができるのか甚だ疑問ではあるが、埒が明かないのでローテーブルを挟んだ向かい側のソファへと着座する。  一息つき、改めてコミュニケーションを図ってみた。 「……君は一体何者なの?」 「知りたいかい?」  涼しい真顔で聞かれると、好奇心より苛立ちの方が勝ってしまい無言で拳を握る。  流石に良くないと思ったのか、表情は崩さないが勝手に話し始めた。 「すまない。人間とコミュニケーションを取るのは初めてで慣れていないんだ。何者か、という質問についてだな」  素直に謝られるとそれはそれで動揺してしまう。  そういう藍春もコミュニケーションに慣れているという訳では決してないのだが。  謎の生物は人間のように咳払いをし、胸に手を当てる。 「僕の名前はハヤハテネル・ペネム。人間では無い。もっと言えば、この世界……この次元の存在では無い。君たち人間で言うところの、確か、天使というものに近い」 「天、使……」  天の使い。  本当にそんなものが存在し得るのだろうか。  頭を抱えながらやっぱり夢なんだと呟いていると、彼はそのまま話を続ける。 「悪いけど夢では無いんだ。三度目だろう? まぁそう思うのは勝手だが。どうだ、もう一度触ってみるか?」  天使はソファからすっくと立ち上がると、向かい側のソファから藍春のそばまで歩いて近づき、両手を広げてみせる。  藍春は一度躊躇うが、至近距離に現れた身体を上から下まで舐めるように観察した後、猛獣を触るような手つきで天使の二の腕当たりに手を触れた。  人間の肌質と異なった、粘土のような、作り物の感触だ。体温もまるで感じない。  その不思議な触り心地に好奇心が沸いた藍春は、その手を様々なところに伸ばし始めた。  服——は、柔らかくてすべすべしていて気持ちいいが、布以外の何物でもない。腰つきはしっかりしている。胸も平らだったのでやはり男性だろう。胡桃色の髪の毛は一本一本が艶めいており、作り物のような美しさがあった。 「……随分と手つきが破廉恥ではないか」 「は!?」  夢中で身体をまさぐっていると、上から呆れたような声が降ってきて我に返る。  そんな気持ちはミリもない。完全なる言いがかりだ。  手を離し、ソファ上で数歩後ずさりして必要以上に距離を取った。 「ま、まぁ。君が幻でないことはわかったよ」  誤魔化すように視線を逸らし、それ以上突っ込ませないように牽制する。天使は表情を変えないまま向かいのソファに戻っていった。 「それで……ここでいう天使だって言われても、この世界の天使の定義なんて曖昧だよ。神様のお告げを伝えに来たり、魂を導いたり、そんな感じが多いイメージだけど……君の目的は一体なんなんだ?」  部屋に一冊だけあった宗教の本ではそのようなことが書いてあった。 「まさか、お迎えだったりして……」  顔から血の気がさーっとひいていく。それを聞いた天使は分かりやすくため息をつき、どこか小馬鹿にした雰囲気でこちらを目だけで見下した。 「人間はいつだって短絡的な発想しかしないな。君たちの天使の認識はいくつになっても赤子の頃に読み聞かせられたフランダースの犬に出てくるものが万国共通の常識だと思っている」  概ね人間が抱いている天使像が同じようなことに呆れているようだが、藍春の場合は知識を得た先が違う。フランダースの犬だなんて聞いたことのないものを引き合いに出されて罵られても気分が悪いだけだ。 「天使というのは、君たちの思っている以上にたくさんの仕事があるんだ。もちろん生死に関わることを専門にしてる天使は多数存在する。ただ仕事はそれだけじゃない。生まれる前の人間のDNAや染色体を操ったり、暴かれるべき悪事が暴かれるようリードしたり、その逆だってある。人に対する好感度や嫌悪感を調整したり……とにかく、色々あるんだ。──全ては、この世界を発展させるために」  最後の一言は天使を偉大な存在だということを誇示してるのだろうが、どうにも小物感が拭えない。  一先ず、今すぐに死ぬということは無さそうだったため、藍春は安堵のため息を漏らす。  そして先程の天使の言葉を思い返し、期待の籠った声音で問いかけた。 「好感度の調整ってことは、も、もしかして、恋愛関係……」 「それは違う」  緩んだ口から溢れた希望の言葉は、あまりにも無慈悲に失望へと上書きされてしまった。  ……人の期待をこうも無碍に扱えるだなんて。天使ではなく悪魔の方がお似合いなのではないかと藍春は胸の中で悪態を吐く。 「……口が滑ってしまった。仕事の内容は秘匿事項となっている。これ以上の詮索はやめてくれないか」  そう言われてしまうと口を噤むいがいのことは出来ない。  怒りを押し殺すべく、別の質問を問いかけた。 「じゃあ……どうして僕は君のことが見えるんだ?」 「そこだ。君を悩ませているそれについて」  一番悩んでいるのはお前のその態度だ、と言ってやりたかったのをぐっと堪える。 「本来次元の違う存在である僕たちのことは君ら人間には観測し得ないはずなんだ。観測できなければ、干渉もできない。じゃあ何故今君は僕を観て、認識して、会話出来ているのか。僕はね、上司にきいたんだ。──稀にいるらしいんだよね。僕らと波長が合ってしまう人間が」  そう言えば、地下水路で遭遇した時にそんなことを言っていた気がする。 「前例がないわけでもないし、君一人が僕らを認識したところで大きな問題はないと言われたんだ。ただ、その前例というのがあまりにも少なすぎてね。しかもその時はなるべく観られないように立ち回ったみたいで。今回は実験的に天使が人間とコミュニケーションを取るとどうなるのか試してみるらしい」  確かに、藍春一人が彼の存在を周りに言いふらしたところで頭がおかしくなったと言われて終わりだ。  脳の不調は今の藍春の仕事、引いては生き方に多大な損害を与えてしまう。"処分"だってありえる。どちらにせよ状況的に黙っている他無いだろう。 「コミュニケーションと言われても……具体的に何をするの?」 「特に決まっては無い。僕が君のそばを離れないだけだ」  言葉の意味を理解するまで数秒かかった。  それはつまり、 「え、四六時中僕のそばにいるってこと?」 「そう言っただろう。何故人間である君の方が会話が下手なんだ」  流石に拳の形で右手が出た。 「冗談じゃない! こんなのとずっと一緒だなんて!」  こんな、ものの数分会話しただけで手が出てしまう程挑発ばかりのやつと?  いくら人間とのコミュニケーションが初めてといえど最低限の礼儀は弁えてもらいたいものだ。 「まぁまぁ、悪い幽霊にでも取り憑かれたと思って」  そういう本人は全く悪びれる様子もなくそう宣ったので思わず大きな声で「思えるか」と叫んでしまった。  自身の腕力にはそこそこ自信があるが、その拳を思い切り喰らった天使の額にはやはり傷はついていない。 「幽霊ってなにが効くんだっけ? 塩? 持ってきてくれるかな……」 「効くわけないだろう。塩はその殺菌作用を持ってして不浄なものを浄化するために使用されるものだ。僕は穢れてなんかない。むしろ神秘的で崇められるべき存在だ。そもそも塩が効くというのも仏教の考えであって僕らには全くもって一切合切関係のない話であって、人間のままごとのような宗教のルールを宛てがうのは無意味な上気分が悪いからやめて欲しいね」  滔々と紡がれる言葉は聞いているだけでノイローゼになりそうだ。はっきり言ってウザい。ウザすぎる。 「とにかく、天使とかいう種族の特徴だか性質だか性格だか知らないけど、少なくともその一々下に見る態度を改めてくれない? 本当に腹が立つ」 「そんなこと言われても」  なお口答えしてくる天使にずいと顔を近づかせ、威圧する。 「対等の立場で話さないと今後一切の言葉を無視するから」  そういうと天使のこめかみが僅かに反応する。任務を遂行できないことへの恐れだろう。 「……善処しよう」  唇を若干尖らせながら天使は不承不承に了承した。  こうして藍春は、この不思議な存在との共同生活を余儀なくされたのだった。  ———— 「なにが嫌でこんなやつと……」  ぶつくさと文句を言いながら冷蔵庫のペットボトルを飲み下す。頭は冴えてくるがムカつきは収まらない。  結局、正体不明の存在が常に付き纏う以外の情報は得られていない。今後の生活を想像して思わず鳥肌が立ってくる。  丸まる藍春の背中に、唐突に天使は言葉を投げかけた。 「僕は君の今までの人生がわかるが、人間の感情、喜怒哀楽のことはよくわからない。それ以上に人間にとっての天使はわからないことだらけだと思う。僕の仕事内容は教えられないけど、人生相談くらいは乗れると思うよ」 「……は」  その言葉の意味を理解した瞬間、藍春は硬直する。 「今、なんて?」 「だから、人生相談……」 「その前!」  思わず天使の元に駆け寄り、ペットボトルを握りしめたまま顔を近づける。  先程打たれた天使は真顔のままだが若干後ろに退いた。 「……僕の人生を、知っている?」 「知っている、というか……」 「僕は! ……僕は、どうして、どうやって生まれたんだ……!?」  藍春は、自分が誰から生まれてきたのか、なぜ今生きているのかが分からなかった。  育ててくれた人は覚えている。しかしその人物が生みの親というわけでもなく、教えてもらう前に亡くなってしまった。  今こうして、俗世から隔離されて主人が自分に与える仕事をこなす日々が異常なことも知っている。  主人に聞いてもはぐらかされるだけで、あまりにしつこく聞いた日には罰せられてしまったため、それ以降聞くことは無かった。  目を爛々と輝かせながら藍春は天使に食い入るが、天使は顔を背けながら気まずそうに呟く。 「……それも、答えらない」  願いが叶う事はなかった。熱くなった身体が急激に冷めていくのがわかる。 「君にとってその情報はとても重要なものだ。それを知ったら、決められている君の行動が大きく変わってしまうくらいに」 「なんで……」 「僕とコンタクトが取れるのは異例の事だ。しかし、それによって世界の筋書き通りに行かなくなってしまってはいけない。君の運命は、僕と出会っても出会わなくても同じものを辿らないといけないんだ」  藍春は乗り出していた身体をソファに沈める。藍春のあまりの落ち込みように天使は少し驚いていた。 「自分の生まれが、そんなに気になるものなのか」 「……気になるよ。僕の本当の両親は誰なのか。生きているのか。どうしてあんな……」  思わず口を滑らせそうになったが、口に出すのも悍ましい記憶の数々は、容易に初対面の生物に易々と語れるようなものではなかった。  そもそも彼は知っているのだ。自分の口からわざわざ伝えるようなことでもない。  がっかりもしたが、案外相手は話が出来るやつだ。そして恐らく、結構チョロい。もしかしたら今後、仲を深めたら教えてくれるかもしれないし、何かの拍子にポロッと零すかもしれない。  不確かではあるがゼロではない希望が手に入ったので、とにかく機会を伺おうでは無いか。  と、藍春は天使の見えないところで密かに拳を握った。 「で。君の名前はなんていったっけ?」  痛くもないだろうに、天使は先程打たれたこめかみを嫌味そうに摩っていた。  それでいて能面顔なのだから腹も立つ。反射的に殴ってしまったが、神の遣いに手を挙げたことによるペナルティは存在するのだろうか。藍春の胸に一抹の不安がよぎるが、今のところその気配は無い。 「ハヤハテネル・ペネム。好きに呼べばいい」  好きに呼べというが、そんな覚えづらいことこの上ない名前では呼ぶに呼べない。 「御父様はペネムと呼んでいる」 「ペネム、ペネムねぇ……」 目を閉じて思案した藍春であったが、 「なんか、発音がしづらいな」  しばらく口内で反芻した結果がそれだった。そもそも日本人に馴染みのない名前だし、ぺもムも唇がつく発音だから鬱陶しい。まだ前半の珍妙な部分の方が発音自体はしやすそうだった。 「ハヤハテ……ハヤテ。はやてって呼ぶことにする」  確か、そんな感じの人名があった気がする。元の名前と比べるとあまりの口にしやすさに藍春は誇らしげに胸を張った  新しい呼び名を得た天使は、特に喜びも不満も見せずに、「そう」とだけ返した。その反応の薄さにまた苛立ちを覚える。  文句を言おうとしたその時、不意に扉からノック音が聞こえた。  部屋には扉が二つある。藍春が先程水路より入ってきた外に繋がる扉と、内部に繋がる扉だ。  そこからやってくる人物は三人。藍春の主人と、冬馬というサポーター、そしてメイドだ。  慌てて時計——日付と曜日、時間が表示されているデジタル時計だ——を確認すると食事の時間だった。 「え、あ、か、隠れて!」  思わず天使に指示を出すが、生憎ソファ付近に直ぐに身を隠せる場所は無い。  ひとまずソファの裏手に隠れてもらおうとしたが、天使には指示が届いておらず、ソファに鎮座したまま動く気配はなかった。  天使と扉を交互に目を配らせるも、為す術はなく、扉は易々と開かれてしまった。 「……藍春様?」  クラシカルなメイド服を着た10歳ほどの少女が扉から出てくると、途端に訝しげな表情を見せる。 「どうかされたのですか?」 「え」  思わず庇っていた後ろの物体を見ると、相変わらず平然とソファに座っている。  もちろん、藍春の身体で多少は隠れているとはいえ、思いきり姿が見える位置にいるはずだ。  彼女の顔は強ばってはいるが、少なくとも不法侵入者に対するものではない。どちらかというと、藍春の挙動の不審さに対する動揺と見えた。 「……何も見えてない、の?」 「どういうことでしょうか?」  質問の意図がわかっていない少女は軽く首を傾げる。どうやら本当に少女に天使は見えていないようだ。 「ごめん、なんでもない。食事いただくね」 「は、はぁ……」  煮え切らない様子だが少女はそれ以上特につつくことはせず、盆をテーブルに置くと何も言わずに退室した。  沈黙が満たす部屋で、藍春は「今の様子、先生に伝わったらまずいなぁ」と胸襟で嘆く。 「これが君の食事かい?」  まるで自分に配膳されたかのような位置に置かれた料理を覗き込んだ天使が投げかける。 「なにかおかしい?」 「いや……変わった食事だなと」  藍春にとって、食事といえばこれだと生まれた時から決まっていた。  無機質で味のない固形の物質。日によって大きさや個数は変わるが、味や見た目が変わることはまず無い。  そして、透明な水。  食事が出るのは日に一食のみだが、毎日毎回決まったメニューだ。  人と食事をとったことがなく、人の食事を見た事のない藍春にとってはそれが当たり前で、それ以外の食事のことはよく知らないでいた。  本に出てくる食べ物も、名前は知っているが実際に見たことはない。いや、もしかしたら見たことあるのかもしれないがそれが一体何なのかはわからない。本には写真も絵も載っていない。  稀に仕事中に見かける恐らく食べ物であろうものも、主人から絶対に口にしてはいけないとキツく言われている。  ──命が危ぶまれるからだと。  仮に自身の食事が異常なものだとしても、普通の食事なんて知らなくていい。  知ってしまえばきっと、食べたくなるだろう。  自分の首を締めるだけだ。 「別に、君には関係ない」  そう言って藍春はソファに腰掛け、皿に三本乗っているバー状のものを一つ掴み、もぐもぐと食べ始めた。  口の中に広がるのは、ほとんど無味なのにどこか鉄っぽい後味で、到底積極的に食べたいとは思い難い味ではあるが空腹感は満たされる。  食事に、楽しいも嬉しいもない。ただ義務で行っているだけだ。  天使は真顔ではあるものの、なにか言いたそうにこちらの顔を見つめていた。  コミュニケーションとは、こういう時に行うのではないかと思ったが、気分的に聞かれない方が都合が良かったのでそのまま無言で食事を終える。 ————  時計を見ると、午前七時になっていた。食事で得た満腹感のせいか眠気が襲ってくる。 「君は、いつまでそばにいるの?」 「いつまで?」 「大体の期間」  もしかしたら明日にはいなくなってるかもしれない。  三日程度なら耐えられるだろう。  一週間は、少し長いな。  一ヶ月と言われたらどうしよう。  そんな期待と不安が混ぜこぜになった眼差しで藍春はじっと天使を見据えた。  藍春が投げたその問いに天使は一瞬口を噤み目を伏せるが、すぐに答えた。 「明確な期限は言えないが、そうだな……。人間の言葉で言うなら、“ずっと”だろう」 「ずっと……?」 「あぁ」  こんな鬱陶しい奴が?ずっと?  今まで、ほとんどの時間を一人で過ごしてきた僕が?  もしかしたら、死ぬまでこいつに纏わりつかれる?  今までの会話を振り返りながら抱いた感情とは相反して、藍春の口から漏れたのは笑い声だった。  くつくつと漏れた笑いは次第に大きくなり、やがて声をあげ、腹を抱え身体を丸めながら、涙を流しながら文字通り笑い転げた。  流石の天使もその様子を見て動揺の色が顔に現れる。  まるで狂者を見るような、そんな目つきだった。  ひとしきり笑い切った藍春はソファの上で寝転んだ。  ふと藍春は長い間一人の夜を過ごした時のことを思い出す。  二週間仕事がなかった際、主人は一度も会いにきてはくださらなかった。  その時は、一晩がどれほど永く感じたことか。  心が張り裂けそうなほど辛かった。  主人に捨てられたのだと信じて疑わず、毎晩泣き濡れていた。  終いには冬馬に添い寝をお願いする始末だった。  結局見つかって冬馬はそれなりの罰を与えられたらしいので、気安く招き入れることも出来なくなってしまったが。  そんな夜に、常に、話し相手がいるというのは心強いのかもしれない。  もはや、天使だろうが神様だろうが、夢だろうが幻だろうがどうでもいい。 「本当に、ずっと一緒にいてくれるんだね」  頭が回らなくなってきたせいか、言い回しがまるで寂しがり屋の子供のようで心の内で自嘲する。  会話が途切れると、藍春はフラフラとベッドに向かい、そのまま眠りに落ちていった。

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