2 / 23

第2話①

 むかしむかし、まだ人類がたくさんの種族に分かれて暮らしていた頃の話だ。無個性で無力な人間たちが、まだまだ狭い地域にひっそりと暮らしていた頃のこと。  人間たちがほかの種族の領地に迷い込んでしまう話はいくらでもあった。ドワーフの地底宮殿に落っこちる童話も、マナランダーに誘惑されて堕落される逸話もある。  なかでも恐れられていたのが、エルフの郷だ。そこに迷い込んだ人間は、二度と出られない……。そんな噂は長年、エルフと人間との断絶を生んでいたのだという。  とある、歴史的な事件までは。  それは百数年前。エルフの郷に迷い込んで、無事に帰ってきた初めての人間が現れた時のこと。  彼は、エルフの郷でのことをこう語ったという。 『エルフたちはみな笑顔で優しく、私にとても良くしてくれた。衣食住を保証され、なんの労働をせずともあらゆるエルフから愛された。まるで楽園のようだった』  人々は訝しんだ。確かにそんなに素晴らしい場所だったなら、誰も帰ってこないのもわかる。ならどうして彼は人間の領地に帰ってきたのか。  そんな疑問に、彼は答えたという。 『とにかく、メシが不味かった』  と。 「んん、ん……?」  気持ち良く寝ていた俺は、なにかしらの気配を感じて、小さく呻いて目を覚ます。  今は何時だろう。別にまだ用事があるわけでもないから、できれば起きたくなるまでずっと布団にいたいんだけど……。  そんなことを考えながら、瞼を上げる。すると目の前、いやほんっとーに目の前、吐息がかかるんじゃないかって距離に、あまりにも美人過ぎる顔があった。 「……っ、わーーーっ!? えっ、俺、えっ!? セレ!?」  びっくりしすぎて布団まで跳ね上げて飛び起きた。心臓がバクバクいって、顔が熱い。普通ならキスされそうな距離感だったから。  だけどセレのほうは、俺のベッドの隅に手を置き、そこに顎を乗せて微笑んでいる。なにか愛しいものでも見るような表情に、俺は動揺と混乱を極めながらもどうにか理解した。  セレたち長命で長身なエルフにとって、俺たち短命で短足な人間は可愛らしい生き物だ。たぶんその寝姿をニコニコ見守っていたに違いない。人間だって仔猫やハムスターが寝てたらそうなっちゃうだろう、それはわかる。  それは、わかるんだけど。 「せ、セレ! 俺がっ、か、か、かわいいのはわかる、いやわからないけど、そのっ。人間の部屋へ勝手に入るのはね! プライバシーの侵害だから!」  至近距離で寝顔を見られていたのも恥ずかしいし、自分で自分のことをかわいいとか言わされるのも恥ずかしくてしかたない。俺は大の男で、極平均的な成人人間なのに。  わーわー文句を言いながら布団に隠れると、セレはようやくベッドから身を起こして首を傾けながら口を開く。 「おはよう、アズマ。下等な人間は朝起きることができないようだから、わざわざ起こしてあげたんだよ」 「お、おはよう……え? 俺そんなに寝てた?」  もしかして、目が覚めるまで寝るといっても寝すぎで、もう夕方とかなのかな。そう不安になって時計を見ると、なんとそこには朝5時半と表示されていた。 「いや全然早朝!」  思わずつっこんで布団から身を出すと、セレは続けて言う。 「その短い手足で準備していては、朝食に間に合わなくなるよ、アズマ」 「は? え、待って、待ってくれ。えっと……確かエルフの食文化のページは有ったはず……」  モゾモゾとベッドサイドに置いていた「エルフ文化学入門」を手に取って、目次を開く。後ろのほうに目的のページはあった。さらっと目を通せば、すぐにその表記は見つかった。 「エルフは食事の時間を家族と共に過ごす。その時間は厳格に定められており、6時と18時の2回……」  つまり、だ。  昨日の夕飯は、俺の誤解のせいで一緒に食べられなかった。だから、朝ごはんは一緒に食べたいセレがいて、でも俺が朝食の時間が迫ってもちっとも起きてこないから起こしに来た、と……。 「いや異文化交流って難しいな……!?」  俺はまだ眠気の残る頭を抱えて、呻いた。  セレがなにを考えているのか、ぐらいは想像がつく。昨夜は食事を一緒にとれなかったから、今朝はしたいのだろう。心なしか嬉しそうな笑みを浮かべているし。問題は、朝食が6時ってことだ。  もろもろの準備もあるから、5時ぐらいには起きてるのかもしれない。どうりでセレは昨日の夜9時にはさっさと寝てたわけだ。おじいちゃんかよと思ったけど、早起きをするためだったんだな。おじいちゃんかよ。  いろいろ思うところもあるけど、俺が昨日の飯をすっぽかしたのも事実だ。とりあえず目も覚めてしまったし、おとなしく起きることにした。朝食まであまり時間はないけど、もともと朝飯は軽く済ませるほうだから間に合うだろう。  そんなことを考えつつ、布団から出る。セレがなにやらニコニコしているから、自分を見ればなんとも寝起きのだらしないルームウェア姿で、たぶん髪もボサボサだし顔もしわくちゃなんだろう。それをかわいいとでも思ってるに違いない。むすっとして「先に出て」と部屋を出るよう促してやっといなくなってくれた。  ちょっとだけ身だしなみを整えて、共用リビングに出る。朝食を一緒にとるんだから、俺も用意しなきゃいけないだろう。そう思ってキッチンに向かって、俺は目を見開いた。  セレが陶器の皿に乗せていたのは、緑色のなにかどろっとした半透明の固形物で、一体なんなのかさっぱりわからない。コップには濃い青紫の液体が注がれているけれど、それもなんなのか全くわからない。パンのような色の何かもあるけど、そっちはなんだかべちゃっとしている。まるで焼いてない生地だ。 「…………それ、セレの朝食……?」  失礼とはわかっていつつも、指差して尋ねる。セレは当たり前だとばかりに頷いた。 「下等な人間は知らないのか? 我々エルフの代表的な朝食だ。こちらはナガルルリの実、そしてカナクグチの搾りジュースと、主食のサパルだよ」 「……ふーん……」  まったくもって、聞いたことない。俺はいったん部屋に戻って、「エルフ文化学入門」を再び開いた。  たしかに、エルフの代表的な朝食らしい。ナガルルリは瓜科の野菜で、カナクグチっていうのは果物だ。サパルっていうのは、パンをスープに浸しまくって数時間、みたいなものらしい。  ふーん……クソまずそう。  それが俺の抱いた率直な感想だった。とりあえず本を持ってキッチンに戻ると、俺の朝食を用意する。  お湯を沸かして、インスタントのミソスープに注ぐ。マナレンジにパック白米を放り込んで、冷蔵庫に入っていたレトルトだし巻き玉子のパックを開ければ朝食の完成だ。全く無駄のない朝食。強いて言えば、なにも作ってないから食費は高い。  それらをテーブルに置くと、今度はセレが怪訝な表情をしていた。 「……その不気味な固形物と、異臭のする汁が、君の朝食かね?」 「そうだよ。セレだって店で見たことぐらいあるだろ。それに、前の入居者は食ってなかったのか?」 「私は買い物をほとんど通販にしているし、前の入居者とは……」 「あー……」  察した。初日の態度で大いに誤解されたセレが、食事を拒まれたことは容易に想像できる。それに、セレはあまりにも人間のことを知らなすぎだ。本当に食事も初めて見るのかもしれない。 「これは人間の中でも俺たち東国ルーツのやつがよく食べる朝食。これは米っていう穀物。こっちはミソっていう……なんだ? 発酵食品のスープ。それとニワトリの卵を焼いて丸めたもの」 「…………そう、か……」  セレは説明すればするほど眉を寄せて、最終的にそれだけ呟いた。たぶん、セレも「ふーん……クソまずそう」と思ってるんだろうな。  そうこうしているうちに、朝6時になる。するとセレは、なにやらエルフ語でブツブツと祈りの言葉みたいなものを唱え始めた。俺はといえば、どうしたらいいのかもわからないので、「エルフ文化学入門」をちらっと見る。  エルフは朝食で彼らの神に祈りを捧げる。永遠とも思える長い時間、不変の姿で生き続けられることへ感謝をすると共に、極力他の短い命を奪わないよう誓いを立てるのだそうだ。そして家族そろって同じものを食べる。  なら、セレにとっては俺も食べてくれるのが一番嬉しいに違いない。さらに読み進めると、どうやらこの代表的なエルフの朝食は人間にとって害は無いらしかった。 「アズマ。もういいよ、食べたまえ」  いつの間にか祈りは終わったようで、セレが食事を促してくる。俺はひとつ頷いてから、恐る恐る切り出した。 「な、なぁセレ。俺もその……セレの食い物、ちょっとだけ試してみてもいいか?」 「……だが、これは君たち下等な人間にとって……」 「大丈夫、大丈夫。ここにあるのは全部毒じゃないらしいよ」 「…………」  そう言ってもセレは戸惑っている様子だった。しかし、俺の意図は汲み取ったらしい。小皿に緑色の半透明なドロっとしたやつ──ナガルルリを少し入れて、こちらに差し出してくれた。  改めてみると、それは本当にクソまずそうだ。どぅるっとしたウリの匂いを嗅いでみるけど、なにか植物臭いことしかわからない。恐る恐る箸を立ててみたが、にゅるりととろけてしまった。セレみたいに、スプーンで食べるのが正解なのかもしれない。  どうにか箸で摘まんで、恐る恐る口に入れてみる。そして俺は目を見開いた。  無。味が全くない。ただのどぅるっとした、生の草みたいな匂いのするゲルみたいなものだ。口中にその汁が広がって、なんというか、その、控えめに言って、呑み込みたくない。 「……んん、ん~~~っ」  とはいえ。せっかくもらった食べ物を粗末にするなんてことはできない。覚悟を決めてごくりと飲み込み、ようやく一息ついた。さて、セレになんとコメントすべきか、と彼を見ると、心底不安そうな表情をしていてギョッとした。 「あ、いや! 大丈夫! ほら毒性はないって!」 「だが、……その様子を見るに、君の下賤な舌にはこの味わいが理解できなかったようだね」  美味しくなかった、をそんなに文字数かけて表現することある? 俺はツッコミを胸の中にしまって、アハハ、と乾いた笑いを返した。 「いや、そのなんていうか……人間はもっと、味付けが濃いものを食べてるからさ……」 「…………アズマ」 「は、ハイッ」  怒られるのかな、と思って思わず姿勢を正したけど、セレは困ったように俺の朝食の数々を見ながら言う。 「エルフにとって、下等な人間の餌は毒なのか?」 「…………え? あ、え、えーと……」  どうしてそんなことを聞くのか、困惑しながら本を見る。エルフは高度な浄化作用を持っているから、大抵の毒は効かないらしい。もちろん食べ物に関しても同じで、食べようと思えば何でも食べられる。つまり、人間の食事もOKなわけだけども……。 「えっ!? もしかして、俺の朝ご飯を食べてみようとか思ってる!?」 「そうだが」 「なんで!? 下等なペットのハムスターの餌だよ!? あっでもたまに食べてる人いるか!」  そうだ、たまにいる。ペットフード食べる人。それにペットにも飼い主と同じもの食べさせたいって、調味料とか材料を工夫して飼い主と同じようなご飯食べさせてることもあるもんな。  そういうことなのか、と思っていると、セレはまた口を開いた。 「ハムスターの餌がどうかは知らないが。君は私達の高等な文化を、愚かな頭で理解し、実践しようとした。私がそれに応えねば、誇り高きエルフ族の名折れになるだろう」 「……えーと、……礼節をもって応じるってこと?」  可能な限りポジティブに受け取ってみれば、セレが頷く。そして小皿を差し出すので、なにか分けろということなんだろう。  俺はさっき食べたナガルルリのことを思い出す。あの、ただ水で煮込んだだけの味の無い食べ物。あれを好んでるセレに、何を食べさせたら無事で済むだろうか。恐る恐る玉子焼きをほんの少し切り分けて、小皿に乗せてみる。 「……ニワトリの卵を焼いて丸めたもの、と言ったな……」 「そ、そう」 「……そう、か……」  セレは震える手で玉子焼きをスプーンに乗せる。その表情は彼とは思えないほど強張っていた。そんなに身構えるもんかな、と思いつつ見守っていると、セレは意を決したらしく、玉子焼きを口に入れる。  その後のセレは、渋い顔をしながらなんとか咀嚼して呑み込んだ、という様子だった。たぶんナガルルリを食ってる俺も同じような顔をしたんだろうな。 「……人間は……とても……臭くて辛くて残忍な食事をするのだね……」 「そ、そりゃどうも……」  しわしわの顔でそう言われて、一応お礼を言ったけど、これはエルフ方言じゃなくて本音かもしれないな、とちょっと思った。  そんなこんなで、俺たちの「同じものを食べる」というチャレンジは、成功したとは言い切れない感じで終わった。

ともだちにシェアしよう!