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7-1 波乱の幕開け
人生で一番かもしれないほど、期待に満ちた朝はいつもと同じようにはじまった。
日課となった朝食を共にして、俺は家を出る。この外出には、いつもと違うところがいくつかある。そのひとつは、俺がスーツではなく普段着を身に着けていて、そして首からセレの手作りネックレスがさがっていることだ。
エルフィネ・ルコリエは正直に言うと、成人男性が身に着けるにはちょっとデザインが繊細過ぎる(ニルジールあたりなら喜びそうだけど)。でも幸い今は冬で、服の下に忍ばせることができた。
そうしてセレのネックレスをつけていると、胸のあたりが温かい。エルフの不思議な力でお守りのように機能しているのか、俺の気持ちが浮ついているのかはわからなかった。まあどちらでもいい。なんだか幸せな心地でいられるのは事実なのだから。
そしてもうひとつの違いは、外出の目的が仕事探しではなくセレへのお返し探し、という点だ。今日は記念すべき日になるだろうから、ちょっとした御馳走なんかも見つけられたらいいな、と考えていた。
そういうわけで俺は電車へ乗り、到着駅から出て、道行く人々と共に街道を歩いていた。
そんな時だ。
誰かに、右腕をがっしりと掴まれたのは。
「……っ⁉」
驚いて振り返る。そばには知らないエルフが立ち、俺を見下ろしていた。
セレよりも白に近い金髪は、膝ぐらいまでの長さがあり、そよ風に揺れてキラキラ輝いている。高位なエルフでございますと言わんばかりの、豪奢なローブに装飾品。顔は整っていて美しいけど、そこに浮かぶ表情は険しく、いつも穏やかなセレやサヴァンさんとは随分違う印象を受けた。
「あ、あの、何か……?」
口を開かないエルフに代わり、俺から問いかける。道行く人もこちらへ視線を向けるけど、殆どの人は通り過ぎていった。
「何故だ?」
ややして、エルフは低い声を発した。
「何故、貴様のごとき下劣なヒト族から、セレの気配がする?」
「え?」
俺は様々な意味で困惑した。
まず、このエルフが使う単語はセレと異なる。「貴様」「下劣」「ヒト族」。これらをセレが口にしたことはない、と思う。たぶん。ということは、人類共通語に単純変換した好意的な言い回しではないかもしれない。
つまりシンプルに見下され、罵倒されている可能性があった。
見ず知らずのエルフからそんな悪意を向けられる理由はわからないけど、心当たりはある。彼はセレの名前を口にしていたから、きっとそれに関係しているのだろう、とは。
「え……っと、セレとご関係のある方ですか……?」
恐る恐る尋ねると、彼は眉を寄せ、あからさまに不快感を露わにした。
「気安く我が弟の名を呼ぶな、ヒト族」
その表情を見るに、俺の予測は当たっているだろう。このエルフは本気で怒っていて、俺にわざと侮蔑的な言葉を選んで使っている。一瞬、怒っていてもエルフって美人なんだな、とかよぎってしまったけど、今はそれどころじゃない。どうして初めて会ったセレのお兄さんから、こんなに嫌われているんだろうか。
「セレはどこだ。今すぐ案内しろ」
「え、えぇとあの、お兄さん、」
「私を兄などと呼ぶな」
「あぁ、はいすいません、えっと……。あの、ここではなんですから、どこかに入ってゆっくりお話ししませんか……?」
おずおずと提案する。道行く人々が、俺たちを物珍しそうに見ていたからだ。こんな街道のど真ん中でもめているのもなんだし、お兄さんとも冷静に話し合いたかった。
ところが、彼はさらに怒りを強めてしまったようだ。冷ややかな瞳が俺を睨みつけて、俺はまるで蛇に睨まれたカエルのようになってしまった。
「貴様と話すことなどない。セレを誑かし監禁した、悪鬼のごとき邪悪なヒト族め」
「誑かし…?! えっ、あの、なんのこと……」
「とぼけるな! 貴様がセレに乱暴をはたらき、あの純真で無垢な子からプリュネルを奪ったことはわかっているのだ。ああ、今頃セレは辛い思いをしているだろう……今すぐ案内しろ。さもなくば……!」
「い、いた、痛たた、ご、誤解です、あの、話を……!」
ぎりり、と俺の腕を掴む手に力が入る。セレと同じ、細くて繊細な手だというのに、骨を折られてしまうんじゃないかと思うぐらいの痛みが襲う。何とかしなければ、と思うけれど、このエルフが俺の言葉を聞いてくれるとも思えない。見物人はヒソヒソ囁き俺を犯罪者みたいに見ているし、誰も助けに入ってくれそうにはなかった。
どうしよう、どうしよう。どうしたらいいんだ。
幸いにもパニックに陥っている俺のことを、助ける人物が現れてくれた。
「やぁ、アズマ君にシルヴィオ兄さん。どうしたんだい? そんな顔しちゃって」
聞き覚えのある声だ。そっちを見ると、そこにはセレのもう一人のお兄さんである、サヴァンさんが立っていた。
彼は今日もダウンジャケットやデニム、スニーカーに伊達眼鏡といった現代スタイルで、見知らぬエルフ──シルヴィオさん、というらしい──とは正反対の姿をしていた。
サヴァンさんと目が合うと、彼はこちらにウィンクまでしている。俺は困惑しっぱなしだし、シルヴィオさんはサヴァンさんへも怒りを滲ませている。
「サヴァン、この愚弟め。元はといえば全てお前の責任でもあるぞ」
「ええ? そうなの? だから僕が近付いてる気配にも気付かず、こんな往来でかわいそうな人間を恫喝してるってこと? エルフらしくないよ、彼から手を離しておあげって。責任は僕にあるんならね」
その言葉に、シルヴィオさんは不愉快そうな表情を浮かべたものの、俺の腕を放してくれた。掴まれていたところがジンジン痛む。エルフって華奢なイメージがあったけど、もしかして力も強かったりするんだろうか。なら、人間を脆弱と呼ぶのもわかる気はする──。
そんなことを考えている間にも、とサヴァンさんとシルヴィオさんは静かな攻防を繰り広げている。
「そもそも、何故セレがヒト族などといるのだ。お前と一緒であることが、エルフの郷を出す条件だったはずだぞ」
「一緒、とは言ったけど、ずっと同居なんて言ってなかったでしょ。セレだって立派な成人なんだから、自由意志は有って当然。過保護は良くないんじゃない? シルヴィオ兄さん」
怒りを露にしているシルヴィオさんに対して、サヴァンさんはニッコニコで余裕さえ見える。どうやら、口喧嘩に強いのはサヴァンさんのように見えるけど、その態度がシルヴィオさんを余計イラつかせているように見えて、俺はハラハラして落ち着かない。これ以上、ややこしいことになっちゃったらどうしよう。
「つまらない理屈をこねるのはよせ。とにかく、お前でもいい。セレの所へ案内しろ。この街は不愉快だ。マナが上手く扱えない……セレの居場所が特定できたと思って来てみれば、このヒト族がいる始末だ」
「それは大変だったねぇ、シルヴィオ兄さん。でも、会いたいなら夢の園で会えばいいじゃない。兄さんの嫌いな街までわざわざ来なくても……、そういえば、どうやってここまで来たの? ヒト文明嫌いの兄さんが大陸鉄道を乗ってきたとか言ったら、あと百年は笑えるけど。ねえ、アズマ君」
「えっ、あっ、は、はい……?」
突然振られたけど、曖昧な返事しかできなかった。エルフジョーク、っていうやつなのかもしれないけど、正直ふたりともセレと性格が違いすぎて、俺はどうしていいかわからない。そして、ついでに俺はいらないみたいで、返事とは関係無く話は続いた。
「セレは夢の園へ来ないし、呼びかけにも応じない。だから最終手段として、近隣の森まで転移魔法を使ったまでだ」
「転移魔法! ちょっと聞いたアズマ君。このご時世に転移魔法だって!」
「て、転移魔法……」
サヴァンさんは大笑いしているけど、俺は心底驚いていた。
魔法を使えない俺にだって、シルヴィオさんがとんでもないことを言っているのはわかる。マナは、世界に遍く存在しているエネルギーだ。水、あるいは燃料みたいなもので、総量というものがある。マナをどれぐらい扱えるかは個人の資質、マナをどれぐらい消費するかは、魔法の効果による。
特別な魔法を使うほど、消費するマナは増える。だから、現代においてはマナを扱える人類でも、人間が作り出した機械を使うことが多い。同じことをするなら、大抵の場合機械を使ったほうが省エネで済むからだ。
しかも転移魔法なんて壮大なものをホイホイ使っていたら、あっという間に周辺のマナが枯渇してしまう。だから、現代の都市部では……。
「シルヴィオ兄さんはエルフの郷に引きこもっていたから、この街で大掛かりなマナの個人利用が禁じられているのも知らないんだね。帰りは嫌でも鉄道を使うか、エルフの郷近くまで何日も歩いて帰ることになるよ。ふふっ、その姿、すごく見てみたいなあ! あと二百年は笑い話のネタになるよ」
「……いいから。セレの所へ案内しろ」
シルヴィオさんはサヴァンさんの煽りに反応もせずに、淡々と要求を繰り返した。しかしサヴァンさんも一歩も引かない。
「セレに会ってどうするつもりなの。理由を聞かないと案内できないよ」
「…………」
シルヴィオさんは諦めたように深い溜息を吐き出し、しかしサヴァンさんを睨みつけながら言い放った。
「エルフの郷へ連れ帰る」
「……えっ!?」
俺は思わず大きな声を上げてしまった。
セレを、エルフの郷へ連れて帰る? どうして急に? ──俺が、押し倒しちゃったからか? 確かにセレも、プリュネルがどうとか言っていたはずだ。じゃあ、俺のせいでセレはこの街に──あの家に、いられなくなる?
そう考えると、背筋が冷たくなる。何もかも、全部俺のせいでダメになってしまうんだろうか。セレの「人と暮らしたい」って夢も、俺たちの関係も、全部。全て。
たぶん、俺の顔は青褪めていたことだろう。ぐるぐると悪い考えが冷えた血と共に全身と脳を巡って、俺は何か言うことさえできない。理由を聞くとか、嫌だとか、できることはありそうなのに、パニックになってしまっていた。
しかし、サヴァンさんのほうは冷静に、目を細めて首を振る。
「……なら、なおさら話も聞かずに案内はできないよ、シルヴィオ兄さん」
「サヴァン、お前……!」
「いいかい、シルヴィオ兄さんは僕にセレの世話をするように言った。僕にはその責任があるんだ。なら僕には、セレとシルヴィオ兄さんの間に立って話をする権利もあるはずだよ。ことはセレの権利にも関わるんだ。はいそうですかとは言えないよ」
シルヴィオさんは拳を握り締め、怒りが爆発しそうになるのをどうにか堪えているようにも見えた。彼は、少しして「話をすれば、案内すると誓え」と口にする。それにはサヴァンさんも、「わかったよ」とうなずいた。
「ずっと言い争っても仕方ないからね。ちょうど当事者の片方もここにいるんだ。アズマ君も交えて、ゆっくりお話ししよう。ちょうどいい場所が近くにあるんだよ、僕がやっているエルフ村の観光案内所なんだけど──」
それからもサヴァンさんはずっと話し続けていたし、シルヴィオさんは文句を口にし続けていた、と思う。俺はといえば、サヴァンさんに支えられながら、混乱したまま着いていくばかりだった。
やっと。やっと今夜、ひとつになるはずだったのに。俺たちは、一体どうなってしまうんだ──。
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