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第3話 機嫌の悪い母親

 彼女の車に乗ると、時計がすでに2時を過ぎていた。 この時間、家には誰もいないだろう。 母親は婦人会の会合に外出すると言っていた。 電話しないでくれて、ホッとする。 ボスッとシートにもたれ、諦めて流れる景色に目を移す。 「……もう、散々だよ」 「あら、私は取材じゃ無いわよ。取材してもいいけど」 「取材じゃ無ければ放っといてよ、僕は忘れたいんだ。 マスコミには実名写真入りで報道されて、家族がどんな目に遭ったと思う? 僕は被害者なのに、まるで加害者だよ」 「そうね、加害者はA君だものね。悪いと思うわ」 「パニック障害、治ればいいわね。 聞いたわ、司書さんに。友達出来てから倒れないようになったんだって? 良く見るわよね、同年代の子。凄くいい雰囲気じゃない?仲がいいわよね」 ああ…そう、そうだ。 光輝と一緒に勉強するようになって、それからは倒れたことがない。 それどころか、毎日楽しみになって、図書館へ行くのが一番好きだった。 「ふふっ、好きなのね。その子のこと」 は? 好き?? 好き?? 光輝が?? 僕は、突然言われた一言で、僕の心の奥底でふつふつとわき上がっていた気持ちに、やっと気がついた気がした。 「ば……馬鹿じゃない??何だよその好きって。相手は男だ」 「あら、友人として、って言ったつもりだったのに、うふふ、そっか」 「何だよ!そのそっか~って!」 「まあ、いいんじゃない?あたしそう言うの、気にしない方だし」 僕はカアッと顔が燃え上がってしまっている。 僕は、僕は、そうなんだ。 光輝が好き…… 光輝が好き、 会えなくなってこの数日、この苦しいほど寂しい無力感の理由は、そんな簡単な答えだったんだ。 2日ほど休んで、体調が戻った冷司は、やっと出かける気になった。 カバンに参考書とノートを入れ、階下に降りる。 今は父が単身赴任中、兄は大学で別にマンション借りているので、冷司は母と2人暮らしだ。 階段を降りながら吹き抜けの居間を見下ろすと母親も外出の準備をしていた。 また新しいバッグを買って来たのか、デパートの袋から出している。 母親は、父親の銀行の役職の付いた人たちの奥さんで作っている、社会奉仕の婦人会に入っている。 婦人会は上下関係でひどいストレスになっているらしく、彼女は年がたつごとにヒステリックになっていった。 彼女自身、そのストレスから逃れようと知人の高級婦人服店で働き始めたのだが、頻繁に具合が悪くなる冷司の為に辞めて、元の振り出しだ。 なかなか手が離せない冷司に、イラつくことが増えた。 冷司が、迷いながら階段を降りて、そっと母親の元へ行く。 「母さん、最近いつも使う公衆電話が無くなっちゃったんだ。 スマホ……1つ返してくれないかな?」 聞こえるか、聞こえないかの声で、恐る恐る語りかける。 母親は、高価そうなバッグの中を入れ換えながら、聞こえないふりをしていた。 でも、通信手段が無い不安感に、意を決して大きく息を吸った。 「電話、持ってるだけで、外出する不安が減るんだ。 電話以外のアプリは消していいからさ、SNSも何も見ないよ。 メールもしない。だから…… 母さん、スマホを……返して、欲しいんだ」 怖くてどんどん声が小さくなる。 「駄目よ!」 しつこい息子に、母親はそっぽ向いて苦々しい顔で、ピシャリと言い放った。 「いつも使うところが無いなら、違うところを探しなさい。 探せばどこかにあるはずよ、そのくらい出来るでしょ。 私はね、意地悪で言ってるんじゃないの。 あなたがスマホを持つのは心配なのよ。 またトラブル起こしたら、もう面倒見切れないわ!」 「ごめんなさい。わかったよ、探してみる」 「さっさと食事済ませて。ブラブラしてるあなたと違って、私は忙しいのよ」 今日は機嫌が悪い。 だいたい電話を使うのはバス停で気分が悪くなってタクシーを呼ぶ時だ。 もう一つの公衆電話は、もっと離れた場所にしか無い。 恐らくその時の僕には、その移動は無理だ。 通りがかりの人に頼むしか無い。 頑張って図書館に戻るか、木の陰で誰か通るのを待とう。 身支度をすませて、今度は彼のバッグの中を出して見ている母親を横目にご飯を食べる。 最近書く量が減っているので、何か言われないかヒヤヒヤする。 鉛のようなご飯は喉を通りにくい。 味噌汁と合わせて、なんとか流し込んだ。 「下品な食べ方ね。 私がわざわざ早く起きて、あなたの為に作ったのに、残飯みたい」 「ごめんなさい、なんだか喉を通らなくて」 「いいのよ、どうせ私の料理は残飯なんだから」 「ごめんなさい、次からちゃんとして食べるから」 「いいの、あなたには何も期待してないわ。どうせ何も出来ないんだし。 さっさと歯を磨いて家から出て行って」 「ごめんなさい、次からは……ごめんなさい」 母親は無視して片付ける。 冷司は急いで洗面所に行き、大きく息をつくと歯を磨いた。 鏡を見ると、何故か涙がボロボロ出ている。 顔をもう一度流し、居間のテーブルにある文房具をまたカバンに入れ、そして出かけようとした。 「じゃあ、行ってきます」 家を出ようとすると、母親の声が聞こえる。 「冷司、お母さん昼間いないから倒れないでよ! また会合の途中で抜けると、わたしが嫌みを言われるの。 あなたのせいで、いつも私は嫌な気分にさせられるのよ。 だいたいあなた、もう少し体力付けてくれない? 勉強も大事だけど、あなたずっと、ずっと、人に迷惑かけているのよ? ねえ、あなた自覚がある?」 「わかってる、わかってるから。 もう少し涼しくなったら、ジムかなんかに行くよ」 「ジムですって?あなたがそんな物に 耐えられるわけないじゃない。 そうね、病院のメディカルエクササイズがいいそうよ。聞いてみなさい」 「わかった、今度病院行った時聞いてみる。行ってきます」 「倒れたら嫌よ!」 「わかってる!」 「もっとしっかりしてよね! 年ばかり取って、男のくせにバタバタ倒れてみっともないったら無いわ!」 冷司が終わらない母の言葉を振り切るように玄関を出て、逃げるように杖をついていつものバス停に向かう。 「僕だって、好きで倒れてるんじゃない!」 ボロボロ流れる涙を拭き、唇を噛んで顔を上げた。

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