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第1話

 ◆ 序章 ◆  静寂の中、月光に照らされて佇む白亜の神殿がある。半球型の天井はガラス張りで、その向こうには星屑を散りばめた夜空が広がっている。  広い庭園に並ぶ林檎の木は白く可憐な花をつけ、ラベンダーやバラは華やかに咲き誇り、泉には青い睡蓮がいくつも浮かんでいた。色とりどりの草花が咲き乱れる様は楽園と呼ぶに相応しい景色だ。 「私が連れ出してあげますよ。あなたを閉じ込めている、ヴァルキューレという名の窮屈な檻から」  私の前に片膝をつき、手の甲に口づけながら、彼は言った。降り注ぐ月の光を浴びて、息を呑むほどの美貌で微笑みながら。  本当に? 本当に私をこの世界から連れ出してくれるの? 神聖で誇り高く、穢れなき戦乙女の檻の中から。  約束の印にと、彼は私に口づけた。初めてのキスは花の蜜のように甘く、私の心まで虜にした。  けれど……彼はいったい、誰だったのだろう?  名前すら告げずに消えてしまった彼を、私はずっとずっと待っているのだ。  永遠にも感じられる時を独り刻みながら。  ◆ 第一章 ◆  北海道函館市――五稜郭(ごりょうかく)。  新年を迎えたばかりの一月上旬、凍てつくような寒さの中、夜の五稜郭は美しいイルミネーションで彩られていた。  冬の訪れとともに外堀の周りがぐるりとライトアップされ、巨大な一つ星が地上に出現する。雪が薄く積もった大地に、青白く輝くその姿はなんとも幻想的だ。 「本当に美しいですね。まるで天上の星々を投影しているかのようです」  隣に立つ五稜郭タワーの展望台から函館市の夜景を眺めながら、一人の男がうっとりと呟いた。黒いスーツにダッフルコートを羽織り、首には水色のマフラーを巻いている。  身長は百八十センチ近くありそうだが、線は細くすらりとしていて足が長い。少し癖毛で艶のある黒髪が、動きに合わせてふわりと揺れる。遠目からでも目を引くモデルのような雰囲気を醸し出していた。  不思議なことに、男の顔の左側――頬骨の辺りには、何やら火傷に似た赤黒い痣がある。 「市民の私としては、感動していただけて嬉しい限りですよ、夏目(なつめ)さん」  離れた位置に控えていた年配の男性が、顔を綻ばせながらそう返した。首からかけた名札には「日本ヴァルハラ不動産株式会社」の文字が見える。 「タワーの営業時間は十八時で終了しました。特別に貸し切りにしてもらって人払いも済みましたので、いつでも始めてくださって結構ですよ」  不動産会社の男性が言うとおり、五稜郭タワーの展望台にはすでに二人以外の姿はない。辺りを見回してそれを確認し、コート姿の男――夏目織我(おりが)は小さく頷く。 「ありがとうございます。ではそろそろ開始しますね。五稜郭に眠る英霊たちの〝昇天〟儀式を――」  目を閉じ、胸の前で手を合わせて一礼すると、夏目は何やら呪文のような言葉を呟き始めた。重ね合わせた掌を徐々に左右へ開いていくと、その中央に光る球体が現れる。それは次第に形を変え、いつの間にか一本の長い槍が出現した。  夏目の背丈ほどもある槍で、派手な装飾はなく、細く真っ直ぐに伸びている。穂先には天使の翼と槍を組み合わせたようなシンボルマークが刻まれていた。夏目の顔にある痣の形と同じものだ。 「五稜郭に眠る英霊たちの御霊よ。彷徨わず、縛られず、栄光と安らぎの地へと昇天したまえ。我、ヴァルキューレの名のもとに、かの地へと送りたてまつる」  するとどうしたことだろう。日はとっくに落ちたというのに、辺り一帯の上空が淡い光に包まれた。天使のはしごと呼ばれる放射状の光が、雲の切れ間から漏れてくる。まるで今にも本当に神の御使いが降りてきそうな神々しさだ。 「いざ導かん、天界アースガルズへ……!」  夏目が手にした槍で眼下に見下ろす五稜郭をなぞる動作をすると、凍った堀や木々の合間から、一つ二つと光るオーブが浮き上がってきた。それらは光に導かれて空へと舞い上がると、雲間に吸い込まれるように消えていく。  やがてすべてのオーブが天へと昇ると、天使のはしごもスウッと光を失っていった。 「――無事、いくつかの御霊が昇天してくれたようです」  ものの数分の出来事だった。五稜郭には再び夜のとばりが下り、しんしんと雪が降り積もっている。  傍で見守っていた男性が、感動したように手を叩いた。 「いやあ、東京本社には優秀な能力者がいると聞いていましたが、さすがですねえ夏目さん。僕にはあまり霊感がないので全貌は分かりませんがね、小さな光の玉が空へ昇っていくのはぼんやりと見えましたよ。きっと五稜郭の空気も軽くなったような気がするでしょうね」  そうですか、と夏目も微笑んでみせる。  それぞれが持つ霊感の強弱によって、見えるモノが違うことは夏目も把握している。亡くなった人の魂が光る球体として見える人もいれば、生前のままの姿を霊視できる人もいるのだ。  この五稜郭は、かつて幕末から明治にかけて、旧幕府軍と新政府軍の間で起こった「戊辰(ぼしん)戦争」の終焉の地だ。新政府軍が陣取った函館湾からの艦砲射撃により、旧幕府側の死傷者が続出したという。その証拠に明治から大正にかけて大量の人骨も発見されている。  戦によって命を落とし、今でも地上を彷徨っている英霊を一人でも多く救うため、夏目は今日ここを訪れた。  展望台には戊辰戦争で戦死した、かの有名な新撰組(しんせんぐみ)副長土方(ひじかた)歳三(としぞう)の像が置かれている。彼はここからほど近い一本木(いっぽんぎ)関門で銃弾に倒れたあと、五稜郭に埋葬されたという説があるらしいが、それも定かではないらしい。  夏目自身、まだ彼と思しき霊には遭遇していない。新政府軍に対して最後まで徹底抗戦を貫き、武士として死んだ彼の魂は、すでに満足して次の時代に生まれ変わっているのだろうか。  どうか未だ地上を彷徨ってはいませんようにと思いを馳せながら、土方の座像に向かって手を合わせる夏目だ。  そんな夏目の心情を推し量る様子もなく、男性はことさら賑やかに話しかけてきた。 「さて、仕事も終わったことですし。いかがですか夏目さん、このあと飲み会にでも。今日は職場の新年会でしてね。さっきうちの支店に顔を見せていただいたとき、女性たちがみんな夏目さんに見惚れてたでしょう。イケメンのうえに独身だって聞いたもんだから、絶対連れてきてくれってせがまれましてね。参加してくださったらきっと盛り上がるんですがねえ」  イケメン、といっても、その種類は様々ある。筋骨たくましく男気溢れるタイプもいれば、クールで知的、はたまた色気があって目が合うだけで虜になってしまうようなタイプもいる。  夏目はというと、色白で中性的、笑顔がふんわりと優しい「綺麗なお兄さん」タイプだ。  くっきりとした二重瞼の目元は柔らかく、頬に影が落ちるほど睫毛も長い。小ぶりの鼻と少し厚めの唇。寒さのせいか頬がほんのりと色づいているのも、整った顔に彩りを添えている。  何より、第一印象から物腰柔らかでおっとりとした「癒しオーラ」がダダ漏れていた。大声で怒鳴ったり喧嘩をする姿など想像できない上品さがある。相談でも雑談でもなんでも聞いてくれそうな人柄が伝わってくるため、女性たちはお近づきになりたいと願うのだろう。  しかし、当の本人は驚いたような顔をしている。 「……そ、そうなんですか? でも私ももう三十路ですし、もっと若くて素敵な方がいらっしゃるのでは?」 「三十路なんて若い若い! 僕みたいな六十近い者からしたら全然ですよ」  アハハと陽気に笑う男性に、けれど夏目はどこか居心地悪そうに視線を泳がせた。 「ありがとうございます……。でも、明日の午前中の便で東京へ戻らないといけませんので」  言いづらそうに告げた夏目に、男性は「ははあ」と何かを察して相槌を打った。 「さては、東京にやきもち焼きで怖い彼女さんが待っているんでしょう? 誰かに誘惑されていないか確認の電話がかかってくるとか?」 「……いえ、私にはお付き合いしている人などいませんので……」  夏目はぽつりとそう零した。 (そもそも、恋愛対象も男性ですし……)  さすがに出会ったばかりの人に「自分はゲイなので」とは言えず口を閉ざすと、男性はしばし目を丸くして、そのあと困ったように頭を掻いた。 「夏目さん、真面目で正直な人だなあ。そういうのは適当に誤魔化してくれていいんですよ。でないと彼女いなんだって期待する人が続出しますからね」 「はあ……申し訳ありません」 「いやいや、こちらこそ無理を言ってすみません。ではまたの機会に。明日の道中、気をつけてお帰りくださいね」  男性は気を悪くした様子もなく、逆に夏目を気遣ってくれる。  五稜郭タワーの下で別れ、一人になった夏目は、とぼとぼとホテルへの道を歩いた。自分で飲み会の誘いを断っておきながら、がっくりと肩を落としてしまう。 (また遠慮してしまった……。少しくらい羽目を外してみたいと思っているのに)  こんなんだから、三十路にもなって恋人どころか、本気の恋すらまだ一度もしたことがないのだ。そのうえゲイなので、同じ仲間を探すのはより大変だと自覚している。  だから尚更、もっと出会いを求めて社交の場に出向いたり、たまには積極的に自分から声をかけてみるべきなのに。  けれど、あることが原因で、夏目の中には常に臆病風が吹き荒れている。それは無意識に自分の行動に制限をかけて、夏目をがんじがらめにしてしまうのだ。  ――本当は誰よりも誰かを愛し、愛されてみたいのに。 「どうしたら抜け出せるんだろう、ヴァルキューレの檻の中から……」  絶望にも似た夏目の呟きは、白い息となって夜空に消えていった。

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