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第2話
この世界は大きく三つの領域に分けられている。神々の住む天界、人間の住む人間界、そして亡者の住む冥界。悪行を犯した者の魂が行き着くとされる地獄も冥界に含まれる。
もちろん人間が日々を生きていくうえで、それらの異界は認識することも、ましてや訪れることもできない夢物語のようなものだ。
国によって宗教観の違いはあれど、いずれ肉体が死を迎え、魂となって初めて、いずれかの世界へと導かれるに違いないと多くの人が想像している。
けれどごく僅かな人間の中には、未知の世界が実際に存在していることを認識している者たちがいた。夏目織我もその一人だ。なぜなら夏目は、かつて天界で生まれ育ち、神に仕えていた「ヴァルキューレ」の生まれ変わりだからである。
各国の宗教によって、天界は極楽浄土や常世の国、楽園などと呼び方も様々だが、夏目の場合は「アースガルズ」と呼んでいた。現在でもノルウェーやスウェーデン、デンマークやアイスランドの国々に伝わる北欧神話にその名称を確認することができる。
北欧神話によると、世界の中心には宇宙樹ユグドラシルがそびえ立ち、周囲には神々の住む天界アースガルズ、巨人族の住むヨトゥンヘイム、人間が住む下界ミズガルズなど九つの国があった。
天界アースガルズではアース神族を中心とした神々が暮らし、その最高神として君臨していたのがオーディンという名の男性神だ。そして夏目の前世であるヴァルキューレは、このオーディンに仕えていた戦乙女たちを指す。
彼女たちは人間界のどこかで戦争が起こると天翔ける馬に乗って戦場へと赴き、勇敢に戦って戦死した者たちの魂を集めては、天界にある戦死者の館「ヴァルハラ」へと導いた。そこで彼らを「神の戦士」としてもてなしていたのだ。
オーディンがなぜ、ヴァルキューレたちに命じて戦死者の魂を集めていたのか。それはやがて訪れると予言されていた世界の終末――最終戦争「ラグナロク」に備えてのことだった。予言ではこの最終戦争によって、オーディンだけでなく多くの神々が死に絶え、世界は滅亡するとされていたのだ。
オーディンは予言に逆らうため、自らの盾となって戦う戦士を集め養成した。そのためには、ときにわざと人間たちのあいだに不和を招き、戦争を起こさせることもあった。オーディンの使いであり戦死者を選ぶヴァルキューレもまた「死の女神」として恐れられていたのだ。
しかしその奮闘も空しく、予言どおりアース神族と巨人族の対立により戦争は勃発し、世界は一度終末を迎えている。
やがて天界は復活再生した神々の治めるところとなり、夏目のように前世の記憶を持ったまま人間界に生まれ変わった者もいた。北欧はもちろん、ここ日本や世界各国にヴァルキューレの生まれ変わりがいると聞く。
夏目の前世であるヴァルキューレは、名を「オリガ」といった。もちろん女性だ。
日本人男性として転生した夏目は、まるで天命のように両親から同じ名前の「織我」と名付けられた。
そして幼少期から普通の人間にはないものがあった。一つは顔に浮き出た不思議な痣、そしてもう一つはいわゆる霊能力と呼ばれるものだ。他の人には見えていない死者の霊を認識し、生きている人間と同じように話をすることができた。
物心ついた頃、それに気づいた夏目は母親に問いかけたことがある。どうして自分の顔にだけヘンな痣があるの? どうして死んだ人が見えるの? と。
「……おかしなことを言わないでちょうだい。そんな痣なんてどこにもないわ。幽霊が見えるなんてあるわけないじゃないの」
母親だけでなく、父親までもが自分を異質なものとして扱うようになり、これは口にしてはいけないのだと夏目は悟った。固く口を閉ざし、できるだけ普通を装いながら生きてきたのだ。
やがて高校を卒業する頃、夏目の前に「日本ヴァルハラ不動産」という組織の人物が現れた。表向きは不動産会社だが、実は天界アースガルズに属する霊能力者たちによって構成された組織だったのである。
彼らは夏目の顔の痣を見て、それはヴァルキューレの印だと言った。その痣を頼りに日本に転生したヴァルキューレを見つけ出し、前世の記憶を覚醒させる手伝いをしているのだという。
そして夏目はある重要な役目を任された。いわく、現在も人間界では戦争が繰り返されており、命を落とした戦死者や犠牲となった一般人たちの霊魂で地上は溢れかえっている。その霊たちを、天界へと送り届ける――すなわち昇天させてほしいというのだ。
もちろん、今後再びラグナロクが引き起こされるというわけではない。人間界で起こる戦争に天界が介入することも禁止されている。理由はただ一つ――贖罪のためだ。かつて、故意に人間同士を争わせ、その命を奪ってヴァルハラへと送り届けたことへの償いのため、今度は地上を彷徨い続ける英霊たちを救済しようというのである。
かくして夏目は日本ヴァルハラ不動産東京本社に籍を置き、今回の北海道出張しかり、日本全国の古戦場を中心に霊を探して飛び回ることになった。東京以外にも各地に支店があり、先ほどの男性のように、出張の際にはサポートしてくれる。
けれどあの男性には夏目の顔の痣や、霊を昇天させる際に使うヴァルキューレの槍が見えていなかった。認識できるのは天界や冥界などに住む人間以外の存在、もしくは夏目のように、ラグナロク後に人間界へ転生した者たちだけだ。
つまりあの男性のように純粋な人間でありながら霊能力を備えた者たちは、その能力を買われてヴァルハラに雇われているだけなのである。
霊を昇天させる能力は、ヴァルキューレを前世に持つ限られた人間にのみ与えられたものであり、それは大変名誉のあること。そう教わってきた夏目は、その誇りを胸に任務に勤しむ日々を送っているのである。
* * *
北海道出張が終わり、翌日羽田空港へと戻ってきた夏目は、連絡バスに乗って第3ターミナルへと向かった。
午後から出張報告のため出社する予定になっていたが、その前に昼食を取ろうと思ったのだ。わざわざ国際線ターミナルに移動するのは、以前海外へ行った際に利用したお気に入りのレストランがあるからである。
久しぶりに行くのでワクワクしながらターミナルを歩いていると、到着出口のあるフロアに人だかりができていた。ざっと見て二、三百人ほどだろうか。ほとんどが若い女性で、ベルトパーテーションで仕切られたスペースにひしめき合うようにして並んでいる。
(こ、これはもしや、アイドルの出待ちというやつでは……)
実はかなりミーハー心のある夏目は思わず足を止めてしまった。
離れた場所で手持ち無沙汰にしている若い男性がいたので、スス、と近寄って声をかけてみる。
「あのすみません、あれはどなたか有名人が来日されるんですか?」
突然スーツ姿の美形に話しかけられて驚いたのか、男性は一瞬ポカンとしたが、すぐに「そうみたい」と頷いてくれた。
「スウェーデン出身のロックミュージシャンだったかな? 今はアメリカに住んでるけど、初めて来日するとかで。俺の彼女も朝からずっとあそこで待ってるんすよね」
「スウェーデン?」
夏目は「えっ」と心が躍った。スウェーデンはあの北欧神話が伝えられてきた国の一つだ。これまで一度も訪れたことはないが、ヴァルキューレの生まれ変わりとしては親近感を持ってしまう。
ロックどころか音楽自体に明るくないため、どんな歌手が来るのか想像もつかなかったが、せっかくこの場に居合わせたので見学していこうと思った。
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