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第3話
急に辺りがざわつき始め、見ると、空港の関係者と思われる人たちが慌ただしく動き始めている。
「あっ来たよ! ロキ――っ!!」
「きゃああ、ロキ様ァ――っ!」
到着出口の向こうからボディガードに囲まれた人物が現れると、空気が震えるほどの大歓声が沸き起こった。
(ろ、ロキって言った? なんて恐ろしい名前なんだろう……)
本名なのか芸名なのかは分からないが、夏目はその名前を聞いただけで震え上がった。
ロキといえば、北欧神話に伝わるあのラグナロクを引き起こした張本人、「悪神ロキ」と同じ名前だからだ。
いったいどんな人物なんだと、夏目は人垣の向こうを凝視する。
男はマキシ丈の黒いチェスターコートに黒のレザーパンツ、そして黒のつば広ハットと全身黒ずくめだった。胸元には真珠やチェーンのネックレスをジャラジャラと垂らし、ほとんどの指にいかつい指輪を嵌めている。
背中まで伸ばした銀髪には青のメッシュが入っていて、日本のヴィジュアル系バンドのような出で立ちだ。かなりの長身で、傍にいる日本人の職員たちが小さく見える。
男はサービス精神旺盛なようで、ファンが向けるスマホの画面やフラッシュにも動じない。わざとゆっくりとフロアを歩き、感動と興奮でカオス状態の女性たちを優しく眺めている。
そして遠くから彼を呼ぶ声にも手を上げて応えようとした、その一瞬のことだった。
「!」
ちょうど彼の視線の先に偶然夏目が入ってしまったのだろう。目が合ってしまった、と思い息を呑んだ夏目に、なぜか男も驚いたように目を見開いたのだ。
「え……!?」
その瞬間、突如ブレーカーが落ちたように辺りが真っ暗になり、周囲の喧騒もバチンっと断ち切られた。
男の身体からドッとエネルギーのようなものが噴出し、暗闇の中にその姿だけが浮かび上がる。オーラなのか邪気なのか、もやもやとした青黒い発光体が蛇のようにうねり、まるでヤマタノオロチが頭をもたげて四方八方へ蠢いているかのように見えた。
(怖い――)
夏目は唖然として、微塵も動くことができなくなった。桁違いのエネルギーに圧倒される。僅かでも動くと蛇に呑み込まれそうな恐怖におののく。肌にビリビリと電流が走って、息すらできないほどだった。
渦巻くオーラの中で、男がじっとこちらを見つめている。遠くにいるはずなのに、なぜか目の前にいるかのような錯覚に陥る。
男の目は切れ長の奥二重で、眼球は透き通るような碧眼だった。眉がすっと細く伸び、クールで冷たい印象を与える。彫が深く高い鼻筋に、薄い唇には色気が漂う。女性たちが夢中になるのも無理はないほど、息を呑む美貌の持ち主だ。
不意に、男の口元がふわりと笑みを刻んだ。
『――その顔にある痣、素敵だね。もしかして君は……ヴァルキューレ?』
「――――っ」
すぐ耳元で声が聞こえた。ぞくっとするような、甘く艶やかな声が。どっと血の気が引き、夏目は失神しそうな感覚に襲われる。
「……さん、お兄さん! ちょっと、大丈夫かよ? 顔が真っ青になってるけど!」
不意に肩を揺さぶられて、夏目の口から「あっ」と声が漏れた。先ほど声をかけた男性が、心配そうに横から夏目の顔を覗き込んでいる。
ずっと息を止めて硬直していたらしい。ほんの数秒間だったのだろうが、時が静止してしまったように長い時間に感じられた。
「す、すみません。大丈夫です。大丈夫……」
自分にも言い聞かせながら、夏目は額の冷や汗を拭った。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。いつの間にか人気ミュージシャンの姿はどこにもなく、黄色い歓声も落ち着きつつあった。
「あの、さっき、急に電気が消えて真っ暗になったりしました……?」
「いや、全然。マジでお兄さん、立ったまま気絶してたんじゃない? あ、ごめん、彼女来たからもう行かないと」
「あ、ありがとうございました、相手していただいて……」
バラバラと解散し始めた出待ちの群衆の中に自分の彼女を見つけて、男性は颯爽と走っていった。
(おかしい……)
フロアは停電もしていないし、その場の誰にも動揺は見られず、何か異変が起きた様子はない。男と夏目の距離は遠く離れていたので、相手の顔を間近に見ることも、ましてや声が聞こえることもないはずなのだ。
それでもあのとき、夏目には男が目と鼻の先にいるように感じられた。彼のオーラが見えていたのはおそらく自分だけだ。そして何より――。
(彼は確かにヴァルキューレと言った。それも日本語で。私の顔の痣も見えていたということは……)
すなわち、彼が普通の人間ではないことを示唆している。
「あの人はいったい……」
夏目をじっと見つめてきた、吸い込まれそうな青い瞳が脳裏に甦った。これまでの人生で、あんなに美しい男性を見たことがない。けれど同時に、これほどの恐怖を味わったこともない。
思い出すだけで足が震えてきて、夏目はしばらくその場から動けなかった。
◆ 第二章 ◆
「北海道出張ご苦労だった。いつも助かるよ」
出張報告のため、日本ヴァルハラ不動産東京本社に出社した夏目は、その足で本部長室を訪ねた。出迎えてくれた本部長の壬生(みぶ)は、いつものように無表情に近い顔で、淡々と夏目を労ってくれる。
本社は東京都千代田区大手町の高層ビル群の中にあり、表向きは大手不動産会社だ。職員のほとんどが不動産業務にあたる中、それに紛れて一部の者だけが彷徨える霊の昇天業務を執り行っている。
ヴァルキューレの生まれ変わりは夏目を入れて数名しかおらず、純粋な人間界生まれの霊能力者がサポートにあたっていた。
日本各地へと赴き、自らのエネルギーを使っていわゆるお祓いをしていくわけだが、これがかなりの体力勝負であり、エネルギーの充電も必要である。そのため夏目たちの任務は無理がないようきちんとスケジューリングされていた。
通常は不動産会社の事務職員として働きつつ、次の業務命令がかかるのを待つというわけだ。
「五稜郭の様子はどうだった? 英霊たちの数に変化はあったかね」
「はい、現地の英霊はほとんど昇天してくれたと思います。元々数も少なく空気も清浄なものでした。次の機会には周辺の四稜郭(しりょうかく)や函館山付近に赴いてみようかと思います」
「君は優秀なヴァルキューレだからね。任せるよ」
壬生は現在五十代で、白髪交じりの頭髪をきっちりと撫でつけ、ハーフリムの眼鏡をかけている。声を荒らげるようなことはしないが、フレンドリーな会話を好むタイプでもないので、若い女性職員からは神経質で怖そうなどと評されている人物だ。
けれど、こうしてきちんと昇天業務の成果を気にかけてくれる辺り、実直で律義な上司といえるだろう。
「……ところで夏目くん、身体に何か嫌な邪気が憑いているぞ。自分でちゃんと祓っておきなさい」
不意に壬生は、目を眇めて夏目の背後を睨みつけた。
そう、実は彼も夏目側の人間なのだ。しかもヴァルキューレの生まれ変わりではなく、なんと天界アースガルズを治めるアース神族の一人なのである。転生したヴァルキューレを指揮するため人間界に降下し、ヴァルハラ不動産の幹部としてメンバーをまとめる重役を担っている。
夏目は正真正銘の人間だが、壬生は違う。天界と人間界を行き来し、おそらく人間の数倍の寿命を持つ特別な存在なのだ。
それを知っているのは夏目を含め、アースガルズの存在を認識している数名に限られる。普通の不動産会社に勤めていると思っているその他大勢の職員には秘されているのだ。
(さすが壬生本部長だ。やっぱり気づかれてしまった)
けれど、壬生の言う邪気は五稜郭で憑けてきたものではない。紛れもなく、先ほど空港で出会ったロキという名のミュージシャンが放ったものだ。夏目の身体に纏わりついて、未だ拭いきれていない。
その一件を壬生に報告しようかどうか、夏目は迷っていた。そもそも夏目もあのロキという人物のことを何も知らないのだ。
おそらく人間ではない何者かが、人間のフリをして音楽活動をしている。しかもついさっき海外から来日したようです、と報告しても、意味が分からないと一蹴されそうだ。
実際に、壬生のように人間ではない存在が実在しているのだから、他にもいたっておかしくはない。世界は広いのだ。とにかくもう関わることはないのだから、無駄な混乱を招かないように黙しておこう、と心に決める。
目を泳がせる夏目に気づいて、壬生の眼鏡の奥の目がきらっと光った。
「――何か気になることでも?」
「い……いえ、特には。それではこれで失礼いたします」
夏目はなんとか平静を装って一礼し、そそくさと本部長室をあとにしたのだった。
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