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第4話
なんとなく悶々としながら事務仕事を終わらせて、夜七時前に会社を出た。高層ビル群の合間に覗く満月が、刺すような寒さの中で煌々と輝いている。
混雑した中央線に乗って自宅マンションの最寄り駅で下り、人気の少ない公園の中を歩いた。マンションまではこの公園を突っ切る方が近道なのだ。
一人暮らしの夏目に、家で待っていてくれる家族や恋人はいない。両親は夏目が幼い頃に離婚していて、すでに各々の家庭を持っている。
それでも早く家に帰りたくなるのは、都会の人混みだけでなく、霊の波動にもあてられて疲れてしまい、一人になって休みたいと思うからだろう。あえて霊を見ないように意識してフィルターをかけることはできるが、波動まではなかなか遮断することができない。
生きている人も亡くなった霊も、何かしら思念やエネルギーを外へ飛ばしている。健全で清浄なものばかりではないことは、受け止めるこちらの身体が悲鳴を上げていることからも明らかだ。
早く一人になってリセットしたい。今日はよほど疲れているのか、夏目の足は自然と早くなる。
「……?」
突然、背後に妙な視線を感じて、思わず足を止めた。なんだろうと振り返ると、公園の遊歩道の先、街灯の下に黒い影が佇んでいる。人でも霊でもない。
「……あれは、犬? いや、狼……?」
狼などいるはずがないのだが、犬にしてはかなり大きいのだ。大型犬のシェパードのように見えるが三メートル近くありそうな気がする。全身真っ黒でふさふさだ。
耳をピンと立て、精悍な顔つきでこちらをじっと見つめてくる。
なぜかすぐ傍の街灯が不気味に点滅を始めて、しばらくすると完全に消えてしまった。夏目と大型犬の周囲だけが暗闇に包まれる。
消灯の時間にはまだ早い。何かがおかしい。
闇の中から大型犬の金色に光る眼だけが浮かび上がり、まるで夏目を捕食しようとするかのように爛々と光っている。
ゾッとして、夏目は急いで前を向くとそのまま駆け出した。追ってくる足音はしないが、視線がずっと張りついているような感覚がある。
(なんだろう、今日はおかしなことばかり起こる。早く帰ろう……!)
決して振り向かず、夏目は脇目も振らずに家路を急いだ。
夏目の住むマンションは五階建てで、最上階の2DKに部屋を借りている。一階には店舗が入っていて、数年前に可愛らしい花屋がオープンした。よく利用する夏目はいつも挨拶をしてからエレベーターに乗るのだが、今日はそれすらできずに部屋へと逃げ込んでしまう。
「つ、疲れた……」
はあはあと息が上がっていた。
部屋の電気と暖房をつけてから、先に風呂に入る。一刻も早く身体に纏わりつく邪気や恐怖を洗い流してしまいたかった。
ゆっくりと湯船に浸かってようやく落ち着くと、今度は食事の準備を始める。夏目は自炊派なので、週に一、二度スーパーに行って食材を買い込み、冷蔵庫の中は常に埋まっている状態だ。
豚肉と長ネギをフライパンに並べて火を通し、醤油や砂糖で味つけしてグツグツと煮る。最後に生卵を入れれば、超簡単なすき焼き丼の完成だ。ダイニングキッチンの隣の洋間にある炬燵に入ってテレビを見ながら黙々と食べる。
「はあ、やっぱり家が一番だ……」
夏目が恋に奥手なのは、この「家が大好き」な出不精も一つの原因だろう。
大家さんに許可を取って壁紙は薄い水色にし、カーテンは薄いピンク色に。ソファーやクッションも同じく水色とピンクでまとめている。そして一階の花屋で買ってきた色とりどりの花や観葉植物をたくさん飾り、ボタニカル風に仕上げた。
ぬいぐるみは情が移って処分できなくなりそうなので買わないようにしているが、実はゆるキャラやサ〇リオキャラなんかも大好きである。
三十路の男の部屋にしては可愛すぎると、きっと誰もが思うだろう。それでも自分にとっては癒しの空間であり、一人部屋に籠っているときが至福の時間だ。
今のご時世、男らしさや女らしさという価値観は見直されつつある。だから自分もこの最高の部屋に胸を張ればいいのだが、「おっさん、キモ」と思われるのが怖くて誰も招待したことはない。そもそも部屋に呼べるような恋の相手も、親しい友達もいないのだけれど。
空腹を満たしたところでちょうどテレビ番組が切り替わり、音楽が流れ始めた。最近では少なくなった生放送の音楽番組だ。
「あれ、この人……!」
なんとそこに、空港で見たあのロックミュージシャン「ロキ」が映っていた。
出演者に混じって、一人だけ頭一つ二つほど飛び抜けており、八頭身はありそうな完璧なスタイルだ。衣装は相変わらず黒が基調だが、アクセサリーが増えて化粧もしているので、さらに派手さが増している。
『こちらは今回初来日された、スウェーデン出身のロックミュージシャン、ロキさんです!』
いつも明るく快活な司会者がロキを紹介した。背後に立つ通訳の女性が話しかけると、ロキは子供のように手を振って、
『コンニチわー、コンバンわー、アリガトウございますー』
と片言の挨拶をする。観覧客から黄色い歓声が上がった。
『本日は、三週連続全米シングルチャート一位を獲得した話題の新曲を、日本のテレビ初披露していただきます。まずはこちらのVTRをご覧ください』
すぐにロキの紹介映像が流れ始めた。年齢は二十八歳とある。夏目より二歳下なのでほぼ同年代だ。
そのあいだもワイプで抜かれていたが、終始ニコニコとしていてまったく邪気がない。テレビ越しでは伝わらないだけだろうが、空港のときとは別人のようにさえ見えた。
「でも、名前を聞くだけで怖いのは変わらないなあ……」
夏目はクッションで視界を遮りつつ、恐る恐るテレビを眺める。
ロキはかつて、最高神オーディンと義兄弟の契りを結んでいた巨人族だった。巨人族でありながら、アース神族の暮らすアースガルズに迎え入れられた特別な存在だったのだ。
性格はひねくれていて気まぐれ、狡猾で悪知恵が働き、子供のように神々を揶揄っては楽しんでいたという。
けれど、やがて彼はオーディンの息子を罠にはめて殺害するという暴挙に出て、アース神族と対立する。一度は捕らえられたものの彼は脱獄し、巨人族の仲間や冥界の死者を引き連れてアースガルズへと侵攻した。
かくして予言どおり最終戦争ラグナロクは引き起こされ、オーディンとロキだけでなく、大勢の神々や巨人族が死に絶えてしまったのである。
夏目の前世である「オリガ」もヴァルキューレの仲間や集められた戦死者の魂たちとともに参戦したが、このとき命を落としている。
けれど、まだその前世の記憶は思い出していない。あまりにも恐ろしい戦争だったため、覚醒するのを怖がっているのだろうと、壬生本部長に言われたことがある。
だから結局のところ、夏目も北欧神話を辿ることでしか、あのとき何があったのかを把握することはできないのだ。その北欧神話ですら、湾曲して伝えられている可能性もあるのだけれど。
だが少なくとも、オリガとロキは親しく話すような間柄ではなかったはずだ。オーディンに仕えていたヴァルキューレの一人にすぎなかった夏目と違って、ロキは義兄弟という地位にまで上り詰めた男だ。接点などあるはずもない。
アースガルズを滅ぼした恐ろしい悪神、ロキ。その事実だけが記憶に刷り込まれていて、ロキという名前にすら過敏に反応してしまうのだろう。
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