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第5話
緊張感が増してきたので、もうチャンネルを変えてしまおうとリモコンを手にしたときだった。
ピンポン、と突然玄関のインターホンが鳴った。
「わっ」
驚いて夏目は飛び上がりそうになる。こんな時間に誰だろうと慌ててモニターを確認したが、玄関の外に人の姿はない。え、と夏目は固まった。
近くに夜間配達員でもいるのだろうかと、通話ボタンを押してみる。
「も、もしもし? どなたですか?」
けれどなんの応答もない。気持ち悪さにすぐ通話終了ボタンを押した。すると今度は、玄関の鍵がカチャリと回る音がしたのだ。慌てて廊下に出た夏目の前で、ドアチェーンがスススっとひとりでに外れていくではないか。
「なっ、なっ」
唖然として声が出ない。自ずと開いたドアの向こうに立っていた人物を見て、さらに腰を抜かしそうになる。
「やあ、こんばんは」
そこに立っていたのは、なんとあのロックミュージシャン、ロキだったのだ。空港で見たときと同じく、全身黒ずくめコーデにつば広のハットをかぶっている。
「え、ええ!?」
喉から素っ頓狂な声が出た。ロキは「お邪魔するね」と言いながら、丁寧に靴とハットを脱ぎ、勝手に上がり込んでくる。
「ちょ、ちょっと待ってくださ……、あ、あなたは……」
「あれ、僕のこと覚えてない? 空港で会ったよね? ロキだよ」
「そ、それは分かりますけど、どうしてここに!? だ、だって今、生放送中……!」
テレビの向こうでは、今まさにロキがノリノリで歌唱しているのだ。バックバンドが重低音を響かせる中、長い髪を振り乱し、流暢な英語で歌いながら踊り狂っている。
「お、同じ人が、二人」
夏目はアワアワしながら、目の前の人物とテレビの中の人物を交互に指差した。するとロキは平然とした顔で、
「ああ、あれは僕じゃなくて、僕のフリした息子だよ」
と楽しげに言う。
「息子? 息子というのは、まさか……」
「うん、ヨルムンガンド。変身して代わってもらったんだ。ヨルは歌うのが大好きだからね」
「よ、ヨル、ヨルムン……!」
恐ろしさのあまり言葉が詰まった。
ヨルムンガンドとは、ロキと巨人族の女性のあいだに生まれた巨大な蛇である。いずれ災難をもたらすに違いないと、まだ小さな蛇だった頃にオーディンによって海に捨てられたが、その後巨大に成長し、復讐のためラグナロクに参戦している。
ヨルムンガンドが進めば大津波が起き、口から吐き出される猛毒で大地は覆われたという。そんな恐ろしい大蛇が人間に変身し、音楽番組の生放送で歌い踊っているというのか?
眩暈を覚えつつ、夏目は恐る恐る問いかける。
「あ、あなたはいったい……何者なんですか?」
「だから、ロキだって。世界の終末をもたらした悪神ロキ。アースガルズを滅ぼした、あのロキ様だよ」
まさか本当に? 名前が同じただのミュージシャンではなくて、本当に悪神ロキ?
確かに普通の人間には、鍵も挿さず玄関の扉を開けたり、外側からドアチェーンを外すなどという芸当ができるはずもない。自分の目で見てしまった以上、真っ向から否定することもできない。
夏目はとうとう力が抜け、その場にぺたんと座り込んだ。目の前が真っ暗になった心地がする。
「あの悪神ロキが目の前に……? まさかそんなはずない。でも本当にそうなら終わりだ。この世は再び終末を迎えるんだ。私ももうすぐ死んでしまうに違いない」
頭を抱えてブツブツと言いだした夏目を、ロキはくっくと笑いながら見下ろした。
「面白いねえ、君。いい反応だ」
涙目で見上げた夏目の顔を、ロキは腰を屈めて覗き込んでくる。
「やっぱり君も普通の人間じゃないね。その顔の痣、ヴァルキューレの生まれ変わりでしょ? まさかこんな遠い異国の地で出会えるとは思わなかったよ」
(やっぱり、私の正体もバレている)
空港で夏目に囁いてきたあの瞬間に、すでに悟られていたのだ。顔の痣が見えていることも、空港で放った邪悪なエネルギーも、やはりこの人物が悪神ロキだと証明している。
愕然とする夏目を置いて、ロキは勝手にスタスタと部屋の中へ入っていった。そこで突然、歓喜の声を上げる。
「おおっ、これがあの有名なこたつか! 一度体験してみたかったんだよね」
洋間にある炬燵にいそいそと入り、「あったかいね」と感想を述べてきた。
「かかか、勝手に入らないでください! 早く出ていってください!」
「まあそう言わずに。こっちに来て君も入りなよ。ちゃんと説明するからさ。廊下にいたら寒いでしょ?」
私の家なんですけど、という言葉を夏目はなんとか呑み込んだ。
確かに、冷たい廊下に座り込んでいるので尻が寒い。半分腰を抜かしている夏目は、膝でずりずりと這うようにしてロキに近づいた。
何をされるか分からないので炬燵には入らず、心なしか距離を取ってローソファーの端っこに腰かける。
「何が聞きたい? なんでも答えるよ」
「ど、どうして私の家に来たんですか? そもそも、どうしてここが私の部屋だって……」
「ああ、それはね。空港で出会った君が気になって、跡をつけるよう命じてたんだ。フェンリル、出ておいで」
「え」
ロキが合図した途端、ポン! と音がして、手品みたいに一匹の動物が現れた。
「ぎゃあっ」
先ほど公園で遭遇した、あの真っ黒な大型犬だった。
夏目の座っているローソファーの上にずしっと降ってきたので、夏目は圧し潰されそうになる。
「おも、重い……っ。い、犬さん……っ、どいてくださ……!」
「犬じゃなくて、狼だけどね。僕の長男のフェンリルだよ。フェンリル、ここじゃあちょっと邪魔になるから、小さくなりなよ」
すると巨大なその動物は、シュルシュルシュルっと縮んで、子犬ほどの大きさになった。
ロキの長男で、大蛇ヨルムンガンドの兄のフェンリルといえば、ラグナロクで最高神オーディンを呑み込んで殺してしまったという巨大な狼のことだ。神々のもとで育てられていたが、幼い頃から凶暴な性格で、さらに巨大化して手に負えなくなったため、捕獲されて幽閉生活を送っていたとされている。
そのフェンリルが、ロキの命令で夏目をずっと尾行していたのだ。本部長の壬生が夏目に邪気が憑いていると言ったのは、実はフェンリルが傍にいたからに違いない。
フェンリルは夏目の膝の上にちょこんと座って、つぶらな金色の瞳で見上げてくる。吠えたりはしゃいだりせず、じっとおとなしい。
「可愛い……」
思わず夏目は子犬の愛らしさにうっとりとしてしまった。あのオーディンを呑み込んでしまった恐るべき狼にはとても見えない。
「抱っこしてみなよ。モフモフだよ」
ロキに促されて、まんまと誘惑に乗ってしまった。小さな身体を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめると、フェンリルは夏目の顎をペロペロと舐めてくる。綿菓子みたいな感触が気持ちよすぎて、勝手に尾行するなんて失礼じゃないかという怒りも消えてしまう。
夏目はそこでようやく一呼吸ついた。怒濤の展開にパニくっていたが、フェンリルの愛らしさに癒されて、やっと心が落ち着いてきたのだ。
あらためて、炬燵でくつろいでいるロキに目を向けた。
「私はあなたの言うとおり、かつてアースガルズで暮らしていたヴァルキューレの生まれ変わりです。あなた方も同じように転生されたのですか?」
「いや、僕らは生まれ変わりじゃなくて本人だよ。ラグナロクで死んだあと冥界に落ちて、二千年くらい魂のまま眠ってたらしいんだけど、娘のヘルが甦らせてくれたんだよね。ヘルは知ってる?」
「確か、冥界の女王ですよね。オーディン様によって、冥界を支配するようにと命じられたという……」
ラグナロクでは自ら参戦することはなかったが、冥界に住む死者をロキの援軍として送ったとされている。その後は行方知らずとなったと北欧神話には描かれていたが、なんと二千年以上も冥界で生きていたらしい。
「――〝ロキの子供たちが災難をもたらす〟。オーディンはその予言を真に受けて、僕たち家族を遠ざけたかったんだよ。だからヨルムンガンドは海に捨てて、ヘルは冥界へ追放した。アースガルズに残ることを許された僕やフェンリルの扱いも酷いものだったしね」
オーディンの名前を口にした夏目に、ロキは急に辛辣な口調になった。さっきまでヘラヘラと笑っていたのに、打って変わって無表情になっている。
ロキの子供たちは他にもいるが、少なくともフェンリル、ヨルムンガンド、ヘルの三兄妹はアース神族から冷遇されていた。ロキにとってオーディンは家族を引き裂いた天敵でもあるのだ。それを思い出して怒りが湧いてきたのかもしれない。
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