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第6話

 空気が一瞬で凍りついたような気がして、夏目は焦った。 (ど、どうしよう。やっぱり殺されるかも……)  夏目はそのオーディンに仕えていたヴァルキューレだ。つまりロキとは敵対関係にある。  まさか、ロキが夏目を追ってきたのは、偶然出会った憎きオーディンの使いを始末して、かつての恨みを晴らそうという、そういう魂胆では……。  頭の中で最悪のシナリオを思い描いて夏目は真っ青になる。  そんな夏目を横目で見やり、ロキはニコッと口角を上げた。 「安心してよ。君やアースガルズに復讐するために甦ったんじゃないから。娘は冥界で一人寂しく暮らしていくのに飽きて、長い年月をかけて僕らを甦らせたらしいよ。それが二百年くらい前のことかな?」 「二百年も生きていらっしゃる……。ずっと歌手をされているんですか?」  まさか、とロキは声を立てて笑った。 「あれはただの今の趣味。目立つのは好きだし、自由気ままに生きられる。ライブと称して世界各国を行き来できるのも楽しいしね。見た目に年を取らないから、騒がれだしたら姿を変えるんだよ。僕は変身も得意だからね」 「では、日本語が話せるのは……」 「神だから」  ロキは至って簡単にそう言ってのけた。 「言語を変えることくらいわけないよ。話すのも聞き取るのも自由に変換できる」 「なんて便利な……」  もう夏目は感心するしかなかった。「神だから」と一言で片づけられてしまったが、ロキが言うと何よりも説得力があるように感じてしまう。 「あの、それで、ロキ……さんの目的はいったいなんでしょうか? どうして私につきま……」  つきまとうんでしょうかと言いかけて、慌てて口をつぐむ。 「ああ、気にしなくていいよ。君に何かしてほしいわけじゃない。日本はずっと来たかった国だし、面白そうだからしばらく滞在しようと思ってさ。ただ……」  ロキの青い目がキラリと光った。 「面倒だから僕のことはアースガルズや君の仲間たちには内緒にしてほしいんだ。無駄な争いを引き起こして、また最終戦争になんてなったら大変でしょ?」  本気なのか冗談なのか、恐ろしいことを口にするロキに夏目は硬直した。背中がゾッと寒くなる。慌ててブンブンと勢いよく首を左右に振った。 「だ、誰にも言いません。誰にも」 「そう? よかった。君を始末したくはないからさ、頼むよ。念のために君にはフェンリルをつけておこうかな。余計なことをしたらすぐに分かるようにね」  この狼を私に? こんな子犬みたいに可愛い子だけれど、ロキの息子のフェンリルだ。一緒に暮らすなんてとんでもない。  夏目は目を泳がせて、しどろもどろになる。 「あの……あの、このマンション、確かペット禁止で……」 「フェンリルは鳴かないし、姿も消せるからバレないバレない。ああ、ほら、生放送が終わったみたいだ。そろそろヨルを迎えに行かないと」  テレビから番組終了のエンディングテーマが流れてきて、勢ぞろいした出演者がこちらに向かって手を振っている。その中には無邪気に笑うヨルムンガンドの姿もあった。なんとも楽しげで結構なことだ。  ロキは勝手に話を終わらせると、炬燵から出て玄関へ向かった。本当にフェンリルは置いていくようだ。  夏目は慌ててロキの背中を追いかけ、躊躇いつつも声をかけた。 「あの、余計なお世話かもしれませんが、その恰好でウロウロするのはどうかと……」  こんな普通のマンションから、来日中のロックスターが出ていくところを誰かに見られたら大騒ぎになる。 「やっぱり目立つかい?」  ロキは「ふむ」と自分の恰好を確認する。ややあって指をパチンと鳴らすと、一瞬で姿が変化した。派手なアクセサリーやハットが消え、背中まであった銀髪も短くなった。全身黒ずくめのままだが、全体的に派手さが消えておとなしくなった感じだ。  透き通るような青い瞳をサングラスで隠しながら、ロキは楽しげに言う。 「これでイケメンロックスターから、ただのイケメン外国人になったでしょ? まあ、これが通常時の僕の姿なんだけどね。東京には外国人もたくさんいるから、変に目立たなくてありがたいよ」  いや、十分に目立つと思うが。芸能人オーラが完全に消えたわけではなく、つい目を奪われてしまう美貌は変わらない。  変身できる能力があるのだから、いっそそこら中にいるサラリーマンのおじさんに変身したらいいのに。そう思うが口にはしない。怒らせると怖いし、ロキにとってはこれでも譲歩した恰好なのだろう。 「そういえば、まだ名前を聞いてなかった」  今さらのような質問に、夏目はしぶしぶと答える。 「夏目です。夏目織我……」 「――オリガ?」  するとなぜかロキは僅かに目を瞠り、宙を見つめて何かを思い出すような仕種をした。「オリガ……、オリガ……」と口の中で小さく繰り返している。 「前世での名前も同じかい?」 「そうですけど……。あの、私の名前が何か?」 「いや、なんでもないよ」  すぐに調子を取り戻し、ロキは夏目に向き直った。何を思ったか、長い指で夏目の頬に浮き出ているヴァルキューレの印にそっと触れてくる。ドキリ、として夏目は硬直した。 「これからよろしくね、オリガちゃん」   ロキは子供をあやすように夏目の顔をスリスリと撫でると、「またねー」とご機嫌な様子で外へと出ていったのだった。  夏目は玄関に突っ立ったまま呆然としていた。  不意打ちで顔を撫でられて、びっくりしてしまったのだ。他人にそんなことをされたのは、子供の頃以来じゃないだろうか。  初恋は小学生のとき、クラスメイトで一番仲が良かった男の子だった。子供だったので、臆面もなくじゃれあって触れ合うことができた。  けれどそれ以降は思春期に突入し、誰彼構わず意識してしまい、男子特有のふざけ合うノリにはついていけなかった。夏目の少女趣味や性癖を敏感に感じ取っていた同級生にはいつの間にか避けられたりして、一人密かに傷ついていたものだ。  そのまま年を重ね、ついには一度も恋人ができないまま立派な大人になってしまった。もちろん童貞だし、男性に抱かれたこともない。  だから、自分以外の誰かの指の感触や体温を感じたのは本当に久しぶりなのだ。  思い出すと、さらに心臓がバクバクと騒ぎだした。 (か、顔が熱い……)  頬に手をあてると、風邪をひいたときみたいに熱を持っていた。玄関の冷たい空気が心地よく感じるほどに。  こんなにもドキドキしてしまうのは、相手がなかなかお目にかかれない美貌の持ち主だったからか、それとも恐ろしい悪神だからか。  フーフーと息を吐いて自分を落ち着かせていると、足元からフェンリルがつぶらな瞳で夏目を見上げてきた。おとなしいが、ペットのように尻尾を振って愛嬌を振りまくことはしない。ロキに命じられたとおり、夏目を監視するつもりなのだろう。 「本当に、ずっと私についてるんですか……?」 「ガウ!」 「シーシーっ。鳴いちゃ駄目ですってば!」  夏目は人差し指を口元に立てて、慌ててフェンリルに注意する。今は子犬のなりをしているのに鳴き声は立派だ。  するとフェンリルは気を遣ったのか、シュンっと音を立てて掻き消えてしまった。気配が薄くなったので離れたのかもしれないが、おそらくマンションの近くで控えているに違いない。  ずっと見張られていると思うと気が休まらないのでありがたかった。夏目は重い足取りで洋間に戻る。  これは夢か現実か、悪神ロキに「よろしく」と言われてしまった。あの調子だと必ずまた現れるだろう。誰にも言うなと脅されてしまったが、そもそも言えるわけがなかった。 「みんなパニックになるに決まってる。どうしたらいいんだろう……」  なんとかしなくては、と思うのだが、いい案はまったく浮かんでこない。  夏目は絶望を感じながら、ひとまずここは現実逃避だと、癒しと温もりを求めて再び炬燵の中に潜り込んだのだった。

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