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第1話

 ふと気になる香りがして、視線を向けると、土日の混雑した展示場の中、その人はまるで避雷針のようにぼんやりと立ち尽くしていた。周りから頭一つ飛び抜け出ているのに、何故か彼の存在感は、霞がかったように薄く、そこだけがまるで蜃気楼化のようにすら見えていた。  でも離れていても感じるのだ。  彼から良い香がする。  俺は眼鏡をずらして目を擦り、再び彼へと視線を向けると、――いない。  どこだろう、と視線を会場へ巡らせたところで、 「すみません、この音声ガイド、再生が掛からないんですけど」  そう若い女性に声を掛けられた。思わず再度会場内を見渡してから、謝罪と共にそれを受け取ると、すぐに受付に向かった。  新しいガイドレコーダーを女性に渡し、最後の望みをかけて、広く混雑した会場内を見渡してみるけれど、彼の姿はもう――気配や香りすらもなく、ただ人々の騒めきが漣のように漂うばかりだった。  今回の会期の目玉でもある、クロード・モネの「昼食」の前にできた人だかりや、果物の静物画の前など、人波の中に視線を辿らせるが、あのひょろりとした長身は見当たらない。  浅く息を吐いて、もしかしたら見間違いだったのかもしれないとすら感じながら、軽く頭を振るった。  長蛇の列がゆったりと絵画の前を流れていく。混雑はしているものの、いつもと変わらぬ穏やかな光景を眺めながら、俺はその男の姿を頭の隅へと追いやった。

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