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第2話

 その男が見間違ではなかったのだと知ったのは、ちょうどクロード・モネの企画展が終わって一週間後のことだった。  次の企画展までの準備期間の中、美術館が貯蔵している美術品を集めた西洋画の常設展示場で彼を見かけた。前回とは違い、見失うことがないほど、閑散とした中で、彼はひょろりと立ち昇る紫煙のように立っていた。   企画展の間は朝から夕方まで引っ切り無しに人が押し寄せ、内容によっては長蛇の列もできるのだが、こうした何もない時期は静かなもので、この日も常設展示場には常連の老人が数名が居る程度であった。  その中で、ひょろりと背が高い彼は、まさに異質であった。そして初めて見た時と同じように、掴みどころのない存在感を燻らせていた。手足は長く、筋肉質とは言い難いがモデルのような体型をしている。纏う雰囲気に浮き立つような軽快さはなく、どちらかと言えば地に沈み込むような、ずっしりとした空気が、彼の周りを取り巻いている。  絵画が好きなのだろうか。  若者が会期以外で常設展に足を運ぶことは珍しく、思わず観察するようにじっと見入ってしまう。そこで俺は「ああ」と気付いた。彼の片腕に抱えられたスケッチブックと、その上を滑る手の動き。  美大生かな。  何となく、彼の風貌から予想して、耳を澄ませる。高い天井に吸い込まれていく筆跡の微かな音が鼓膜を掠めた。素早いタッチの軽い筆圧。迷いのない、リズミカルな筆音が、とても心地良い。  どんな絵を描いているのだろう。  ふいに話し掛けてみたい欲求が湧き上がってくる。 「今森さん、交代しますよ」  彼の存在に魅入っていると、不意に話しかけられて、心臓が訳もなくどきりとする。俺はそれを悟られないように、同僚である中村さんに振り返った。俺よりも一つ年上の彼女は柔らかな笑顔を浮かべると、微かに身を寄せて、 「今日の社食のAランチ、親子丼でしたよ~」  と俺の好物をにんまり顔で呟いた。 「早速行ってきます」  俺は軽く会釈をすると、もう少し眺めていたかったような、名残惜しい気持ちで、今一度彼の姿をこの目に焼き付ける為に振り返る。スケッチブックを支える筋張った腕の筋や、はっきりとした喉仏。つんと澄ましたような鼻先。顎のラインは、思った以上に細く繊細な印象的で、今時の子は綺麗だな、なんて思ってしまう。  また会えたらいいな、そんな淡い思いを抱きながら、俺は中村さんに見送られる形で、常設展示室を後にした。  また会えたらいいな、どころか、彼は結局丸一日この常設展示室を出る事はなかった。大小さまざまな部屋が五つほどある、この会場の中を、彼は順繰りにスケッチブックを持って歩き回り、閉館時間のアナウンスが鳴っても、筆を止めようとはしなかった。  窓も時計もない。あるのは薄い木目の床と、真っ白な天井と絵画のみの、殺風景な室内は時間や日の傾きなど関係なく、整えられた温度の中で静かに空気と時間を沈殿させるだけだった。  俺はスーツの袖を軽く捲って、閉館一分前となっている事を確認した。もう男以外の客は全て帰路に着き、ぽつんと残っているのは彼だけだ。  没頭しているであろう手前、少し申し訳ない気もするけれど――そう思いながら、俺は意を決して、革靴の底を慎重に板張りに滑らせながら、彼の背後へと近づいた。  遠くから眺めるよりも、近くから見上げる彼は「ひょろり」という言葉よりも「ずっしり」という表現の方が似合う存在感があった。逞しく大きな背中は、同じ男として尊敬する程広く、頼もしいが、少し猫背なのが可愛らしい。 「お客様、よろしいですか?」  なるべく声を静かに口の中で響かせる。男はハッとスケッチブックから顔を上げると、俺へと振り返った。 「当館は夕方五時を持ちまして、閉館となります。そろそろ退館のご準備お願いできますか?」  できる限りの愛想を浮かべて声をかけると、彼は辺りを見渡し、自分が最後の一人だと知ると、大袈裟に頭を下げた。それはもう腰が直角に曲がるような礼であった。 「す、すみません! 今出ます! 申し訳ない」  彼はそう言いながらスケッチブックを閉じると、持っていた鉛筆をコートの中に直接突っ込んだ。今になって気付いた事だが、彼は鞄などを持ち合わせてはいなかった。  まさか、スケッチブック片手に家から来たのだろうか。不思議な人だ。 「熱心に描いていらっしゃいましたね」  萎縮した大きな男が、一層背を丸めて「すみません」と謝る姿を見ていたら、何だか申し訳なくなり、俺は彼の持つスケッチブックに視線を向けた。 「あ、はい……趣味でして。ここ、常設展示なら模写してもいいって書いてあったので」  きちんとホームページを見て来てくれたのか。  そんな小さな事に感心しながら、そうでしたかと頷き、五時を知らせる音楽の中、出口へと案内する。一緒に歩きだした男は、想像よりも大きいのに、喋り出すと小さく見える不思議な人であった。身体の大きさとそれに見合わないおどおどとした喋り方のせいかもしれないし、僅かに丸めた猫背のせいかもしれない。  彼の隣を歩きながら、不意に先日の展示会で感じた、あの芳しい香りを思い出す。それは間違いなく俺の右隣から、ささやかに漂い、じんわりと俺の周りを漂い始めていた。確かに、じわじわと。そう自覚した途端、身体の腹の奥の心臓の丁度真下あたりが、仄かに温かくなる。俺は慎重に、隣に居る彼を見上げる。  ――もしかして、オメガ……?  一般的に言われるオメガの外見からは些か離れている気もするが、彼はそうなのだろうか。  そう意識した途端、本能に近いものが心臓をぎゅうっと握り込むのを感じた。  俺は反射的に視線を下げると、自分の仕事用の革靴と、同じ歩調で歩く彼の黒いスニーカーを見つめた。こつこつ、と響く俺の靴音に対して、彼のゴムの靴底は音をしっとりと床に吸い込まれる。 「すみませんでした、今後は気を付けます」  いつの間にか美術館の出入り口に立っていた事に気付いて、視線を上げると、彼は愛想の良い柔和な笑みを浮かべていた。 「いえ、また是非お越しください」  そう頭を下げると、彼はスケッチブックを脇に抱えて、館内を後にした。美術館から真っ直ぐ大通りへと続く銀杏の並木道は、青々と茂り、まだ高い位置から降り注ぐ太陽の光を受けて、コンクリートの道に、まだらの影を落としている。風が吹くたびに揺れる水面のように、地面で揺らぐ銀杏の濃淡のある影。その上をひたひたと歩いて行く彼の少し猫背な後姿を、俺はぼんやりと眺めていた。

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