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第4話
彼はいつからこの美術館に通っていたのだろう。
毎週水曜日の午前中。意識をしてみると、彼は毎週のようにこの美術館に足を運んでは、常設展の内側に籠り、スケッチブックを広げていた。必ず姿を現すのは水曜日、時折別の曜日にも顔を出しては、企画展ではなく、常設展に籠っている。
一枚の絵に噛り付いては、必死に手首を柔らかく動かして、まっさらな紙の上を埋めていく。不意に持ち上がる視線は、曇りや屈折などなく、光のように真っ直ぐと絵画を捉え、真摯にまたスケッチブックの方へと下りていく。
その一心不乱という言葉に近い彼の姿を遠くから眺めながら、俺は感動に近いものを感じてしまう。
あの指先から、一体どんなものが生まれているのだろう。そんな疑問が淡く、やがてはっきりと胸に宿ることに、そう時間はかからなかった。絵を描きに来る若者やお年寄りが、全くいないわけではなかったけれど、こんな熱心な人は初めて見る。
――彼は今日も来るだろうか。
いつからか、そんな淡い期待のようなものが、浮かぶようになっていた。
「それでは、今日もよろしくお願いします」
定年間近の館長の柔らかい声音で、朝が始まると、スタッフがそれぞれ持ち場へと移動していく。俺はチケットカウンターへと向かいながら、今日が水曜日である事を、強く意識した。
吹き抜けの天井と壁一面ガラス張りとなる作りの館内には、朝の白い光が溢れ返り、眩しいほどに何もかもが輝き出していた。
ベンチも、カウンターも、ギャラリーショップも。天井から吊るされている大きな企画展の布地のポスターも。
「今日はあの人来ますかね」
受付カウンターの中に入ると、中村さんが声色を明るく弾ませた。あの人、というのはもちろんスケッチブックの彼だ。
彼は館内でも少しずつ有名となっていた。
毎週毎週現れては、他には目もくれず、熱心に絵画と向き合っていれば、好印象を持つ者が少なからずいる。――俺もその一人だ。
特に、職員たちは絵画や日本画問わず、美術に関して熱心な人が多いから余計だろう。
「今日は水曜日ですしね」
そう頷くと、彼女は嬉しそうにですよね~、と頷いた。
「今度話しかけてみようかな」
今思いついたばかりというような仕草で、彼女が呟いた。俺は少しその言葉にどきりとして、その後少しだけ胸の内側に靄が掛かるような気持ちになった。
身勝手にも、話しかけて欲しくないと直感的に思っていた。勿論、名前も知らない彼に関して、俺がとやかく制限するのはお門違いであると分かっている。それでも思うだけならば、そう正直思ってしまった。
何故そう思ったのかはわからないけれど、それは嫌だと思った。
俺は今日の企画展の前売り券数をタブレットで確認し眺めながら、あの香りを鼻孔の奥で思い起こす。
視界よりもクリアに残る嗅覚の記憶の中に、彼がひっそりと佇んでいる。スケッチブックを脇に抱えて。そんな彼から漂うのは、クロード・モネの「メロンのある静物画」にある、熟した赤い果肉のメロンのような――あるいは割れた実から溢れる赤くとろりとしたイチジクのような芳醇な甘い香りのようなものだ。ねっとりというより、さらりと流れるようなみずみずしい甘さが彼にはある。
そして再度、俺は自分に問いを投げる。
彼はオメガなのだろうか。
そう考えたところで、開館を告げる高い鐘の音が館内に響いた。自動ドアが音を立てて開き、数名の来館者が流れてくる。
「あ、いた」
嬉し気に隣で声がまた弾む。カラフルなビニールボールのように、愛らしい好意が俺の隣で弾んでいるように聞こえた。
俺はそれを聞き流すと、チケット券売機へ並んでいる彼の姿を追いかけ、すぐに自分を窘めて視線を逸らす。仕事中だぞ。
「企画展の方、大人一枚」
視線を上げると、機械が苦手なのだろう老人が現金をトレイに置きながら、愛想の良い笑顔を浮かべる。俺は見なれたその顔に、おはようございます、と声をかけた。
「おはよう、今日も暑くなりそうだね」
「そうですね、もう梅雨明けですかね」
今朝の天気予想で、週末には梅雨明け宣言が出されそうだと言っていたことを思い出しながら、俺はチケットを購入しただろう彼の横顔を追いかけてしまう、自分に視線に戸惑った。どうしても、目が追いかけてしまう。彼の長い指先で弄ばれる細長い紙きれが、羨ましかった。
「それじゃあ、ありがとう」
チケットを受け取った老人が、頭に乗せていたハンチング帽子を、紳士のような仕草で軽く浮かせて礼を示し去っていく。館内の床に、ガラス張りの窓の外から伸びる樹々の影が、漣のように揺れていた。その上を流れていくように、来館者が企画展と常設展の分岐で、それぞれの道へと流れていく。
俺はそれを何となく眺めながら、自然と常設展へ続く道を視線で追いかけた。しかし、それもほんの一瞬のことで、すいませんと声を掛けられると、俺は意識を戻して、目の前のことをへと視線を戻す。
来館者のチケットを管理し、館内説明をお願いされれば、簡易パンフレットを用いて説明し、人員が足りなければ、進んで持ち場へと移動し、監視し、また呼ばれるままにカウンターへ戻り、事務処理をする。
一つ一つに大きな仕事はないけれど、溜めて置いて良い仕事なんて一つもない。小さくても必要な仕事をこなしながら、全てのバランスを調整しながら動く。そんな仕事をしていれば、自然と意識から、彼は薄れていき、二時間もすれば、頭の中は仕事以外のことは締め出されていた。
「今森さん、企画展の方お昼休憩替われますか?」
ふと声を掛けられて手首に巻いた時計へと視線を向ければ、既に開館からだいぶ時間が過ぎていた。
「十二時からの人、休みの連絡が今入って……」
「分かった、今行く」
もうちょっと早く連絡してくれてもいいのに。そんな不満を胸の内側だけで零すと、俺は手に持っていた小さな金庫を受付カウンターにいる彼女へと渡す。金銭確認をお願いしてから展示場内へと足を向けると、その暗がりへと急いだ。
美術品保護の為、極力明かりを絞った企画室には、前回とは趣旨を変えた日本画を中心とした展示をしている。江戸から幕末・明治維新にかけての浮世絵を集め、今回はその中でも社会に対しての風刺画を絞った企画展となっている。
江戸の華やかな色遣いと、幕末・明治にかけて人物画の描き方やその時代の社会とそれに対する民衆の考えやあり方、主張。今にはない乱暴さが刺激的な企画となっていて、俺は割と好きだ。
「ごめん、広瀬君。お待たせ」
展示室の隅でひっそりと立ち尽くしている職員の肩を叩くと、こちらに気付いた彼は首を横に振った。
「お休み出たみたいですね」
「そうみたい、あとで少し配置変えるかも」
「了解しました。俺はどこでも平気なので」
この春から新社会人となり入社してきた彼――広瀬巧君は、既に三年はここで働いているような口調で、頼もしくそう言ってくれる。実際、物覚えも美術に関しての知識も豊富な彼の言葉は心強く、本当に頼ってしまいそうになる。
まだ入社三か月目だというのに。
「ありがとう、じゃあ休憩先に入って」
そう促して、俺は彼の代わりに展示室の隅に立つ。空調も明かりの光量も、全てが完璧に整えられた部屋の薄い影の隅は、ひと際存在という感覚が希薄になる。俺は疎らな展示場を見渡すと、硝子越しに顔を寄せている人や、十分に身を引いて、大きな絵と向き合う無言の人々を眺めた。展示室は音を失った深海のように、沈黙で満たされており、一人一人が一枚一枚と向き合うには、これ以上のものは必要ないと常々思う。
丁度目の前に展示されている歌川国芳の「人をばかにした人だ」という作品が、柔らかな照明の中、ぼんやりと浮き上がるようにして、展示されているのが見えた。裸の人が寄せ集まり、一人の男の横顔を形作っている、彼らしいユーモアに溢れる作品だ。
「あの、すみません」
声を掛けられて振り返り、俺はその瞬間心臓が一度大きく動くのを感じた。そこにはいつも常設展にいる彼が、珍しく企画展の中にいるからだった。いつも絵画ばかり模写しているようだったから、日本画には興味がないと思っていたが……。
「企画展の模写はだめなんですよね」
念のため、という口調で男がぼそりと呟くように聞いてくる。怒られる事を前提にしているような、幼い表情がそこにはあった。
「あ、……はい、申し訳ありませんが……」
常設展とは違い、企画展の場合は展示内容によって混雑してしまう。なので、この美術館では、一律企画展に関しての模写は来館者の動線確保の為、禁止にしている。こんな空いている日ならばとも思うこともしばしばあるが、許可への配慮が目分量となると、クレームに繋がりかねない。
本当は許可したいという気持ちを込めて頭を下げると、
「いえ、有り難うございます」
そうですよね、と彼は苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「すみません、ダメもとでした」
そう言うと、彼はひっそりとした仕草で頭を下げるとガラスケースに守られた展示品の方へと足を進めた。彼の脇にはいつも通りスケッチブックが挟まれている。今日は一体何をどんなふうに描くのだろう。
そんな疑問を抱えながら、ひょろりと背の高い彼の背中を眺める。いつもは少し猫背なのに、絵を眺める時は姿勢が良いのかと思いながら。
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