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第1章

都市の高層ビルが並ぶ裏道で、青年は血塗れに倒れていた。両足、右腕、そして顔の左半分以上が真っ赤な血に染まっている青年は、それでも微かに意識があった。ガラス球のような瞳を薄っすらと開き、近づく足音に耳を傾ける。 「醜い顔に戻った気分はどうだよ」 血が滴り落ちる凶器を握り締めながら、男は青年に問い掛ける。青年の左顔にある一本の縦長い傷は深く、溢れ出す赤い液体は止まる気配を見せない。 「醜いお前に、もう誰も振り返らないよ」 独り言のような男の言葉には、憎しみが滲み出ている。 「お前も知っているよな。あいつ(・・・)は汚くて醜いモノが嫌いなんだよ」 そう。昔のお前のように。屈んで青年の後ろ髪を掴むと、乱暴に青年の顔を上げさせた。曝け出された青年の深い傷を十分に堪能し、男はクッククと喉で笑う。 醜い顔だ 「もう、前みたいに消すことは出来ないよ」 どんなに腕のいい医者を雇っても……優越感に笑いが止まらない男を、青年が見上げる。 「───その目は、なんだよ」 恐怖どころか、哀れむような青年の瞳に男が逆上した。乱暴に青年の頭を地面に投げつけ、鋭い凶器を大きく振り上げる。 「死ねよっ」 鬼のような剣幕で、男が腕を振り下ろす。青年はゆっくりと瞬きをして、ある人を想う。 再び醜くなった自分を、どう思うのだろうか その答えを考えると、何だか可笑しくなって青年は小さく笑った。最初から、生きることに執着しているわけでない。執着する必要もなかった。───あの人はきっと怒るけど。せっかく助けて貰った命なのに。 恩人に心の中で謝罪しながら、瞼を閉じる。脳裏に浮かぶのは───… 青年が死の覚悟を潔く決めた時、微かに悲鳴に似た声が男の背後から響いた。自分の名を呼ぶ声に、青年は再度、薄っすらと瞼を開く。 異変に気が付き、駆けつけた二人の男達に、ナイフを振り上げていた男が舌打をしてその場から逃げる。 背の高い男が逃げる男を追うのを、もう一人が制すると、二人は意識を朦朧とさせている青年に駆け寄った。 全身血まみれで悲惨な青年の姿に、抱き上げた美しい男が眉間に皺を寄せる。 「しっかりして下さい」 美しい男が絶えなく青年に呼びかけると、背の高い男は手際が良く青年の傷を確認し、自分のシャツを破った布で応急処置をする。が、滝のように流れ出す青年の血は止まる気配を見せない。 「今、救急車が着ます。頑張って下さい」 不安に端整な顔を歪ませた男が、そっと青年の頬に手を添えた。その冷たい感触に、青年は静かに笑うと何かを言おうとしたが、力なく意識を手離してしまう。 出血多量で青白くなっている青年の体温が、少しずつ奪われて行く。 やがて、闇を引き裂く絶叫が響いた。 +++ ───13年前の秋 同じ歳の義理弟を紹介された時、菊池和弥(きくちかずや)は父親の前に関わらず間抜けな顔をしてしまった。 なんて、醜い顔なんだ。 その醜さに、和弥は青くなって顔を背ける。 昨日まで赤の他人だった人間が、ただの紙切れ一枚で自分の義理弟になるなんて、考えただけでぞっとするのに、紹介された弟は普通の人間ではなかった。 顔の半分以上が黒茶色の酷い火傷痕で覆われ、それを隠すように伸ばされた前髪が、余計に醜怪な顔立ちを強調している。それだけではない、義理弟の首筋から左の指先まで同じ火傷痕を見つけた時、和弥は目眩を起こしそうになった。 人間ではない、ただのバケモノだ。 母親に寄り添うようにひっそりと立っている義理弟を、和弥はこの世の終わりだと言わんばかりに睨みつけた。 あんな醜いバケモノが自分の義理弟になるんて、許せるわけがない。 「和弥、(みき)は来週から同じ中学に転入するから、家族として良く面倒を見るんだぞ」 「わかっているよ。父さん」 誰がこんなバケモノの面倒を見るかと胸中で吐き捨てながら、和弥は天使の笑みと称えられる笑顔を浮かべた。 菊池家は社交界でも有名な大富豪だ。政治界にも進出している有数の家系の中でも、放送、新聞、映画、出版、インターネットなど多様なメディア・コンテンツ企業を傘下に収める巨大なメディア・コングロマリットの会長である菊池和彦(きくちかずひこ)は、日本世論を操る男と呼ばれている。 病死した妻によく似た、容姿端麗の一人息子の和弥を和彦は溺愛していた。過保護の結果、絵に描いたように和弥は我が儘に育ったが、頭の賢い子供だった。言い換えれば、子供と思えないほど、計算高く、狡猾である。 和弥が演じていると知らず、素直で理想の跡取りに育ったと信じている和彦は、今回の突然の再婚の話も、息子が喜んで従うと信じて疑わない。 和弥が父親の和彦から再婚の話を聞かされたのは、ほんの一週間前。相手が半年前から菊池家に仕える家政婦だと知った時、和弥は頭を抱え込みそうになった。 財産目当てに決まっている。 そう言いそうになったが、新妻に心底惚れている和彦の表情に言葉を飲み込んだ。 だが、危機感を持った和弥は、内密に義理母について調べた。 和彦の再婚相手、坂井綾(さかいあや)は13歳の息子がいると思えないほど、線の細い美しい女だった。男が騙されそうな大人しい清潔感のある女だが、17歳で子供を産み25歳で離婚している履歴を聞けば、和彦が騙されているとしか思えない。 おまけに女は借金を抱えている上、心臓が弱く入院を繰り返していた。50歳の和彦とは20歳以上の歳の差があり、どう考えても、この再婚は金目当てとしか思えない。 最悪だ。 和弥が最も許せないのは、女の息子が恐ろしく容姿が醜いことだ。こんな醜い生き物が義理弟だと知られると、学校で笑い者にされてしまう。 完璧な和也に、欠点は許されない。 「僕、幹に部屋を案内するね」 にっこりと笑みを浮かべて和弥が提案すると、予想通りに和彦と義理母は大喜びする。 「ああ、幹の部屋は和弥の隣だから、案内してやってくれ」 「もちろんだよ。行こう、幹」 例え、演技だろうと醜いバケモノに触れたくない和弥は、手を差し伸べずに声だけで誘う。少し困った顔をした幹は義理母を見上げ、彼女が頷くのを確かめると、和弥の後に付いて行った。 黙って後ろに付いてくるバケモノの気配を感じながら、和弥はげんなりする。どうやってこのバケモノをこの家から追い払うか、そればかりを考えていた和弥に、背後から幹が声をかけた。 「学校はここから遠いのか」 醜い容姿とは正反対に、幹の声は透き通った綺麗な響きだった。 「気安く、声をかけているんじゃねえよ」 つい先程までの、父親に従順な態度と打って変わって、強硬な態度に出た和弥は、汚い物を見るような軽蔑の眼差しで幹に振り返る。 父親がいなくなった途端の、わかりやすい和弥の豹変に、幹は少し驚いたように目を瞠る。 「お前さ、自分の顔、鏡で見たことがあるんかよ」 「……」 「俺はな、汚ねえ物は嫌いなんだよ。俺に話し掛けるな。耳が腐る」 社交界一の上品な貴公子と謳われていると思えない、下品な言葉遣いで和弥は幹を侮辱する。 「俺の父親を騙したつもりでも、俺はお前達には騙されねえ。いつか、お前達の本性を暴きだしてやるよ」 「───騙す?あんたの方が、演技が上手いように見えるけど」 「……っ」 軟弱だと思っていた幹の思わぬ強烈な皮肉に逆上した和弥は、幹の右頬を殴った。そして、右足で幹の腹を思いっきり蹴る。 「誰に向かって、そんな口を聞いているだよ。バケモノは喋るじゃねえよ」 殴った手をハンカチで拭き取ると、和弥はそれを絨毯に投げ捨てた。 「キモイだよ」 捨てセリフを残すと、腹を抱えて俯く幹を残し、和弥は自分の部屋に入った。 +++ 和弥の後ろ姿を見送った後、幹はシャツを少し捲り上げて蹴られた腹を見る。痛みが残るそこは、赤くなっていた。溜め息を吐き出し、周りを見渡す。 昨日までの生活水準とは雲泥の差がある。お城と言っても過言でない屋敷にいると、場違いのように幹は感じてしまう。完璧な容姿、欲しい物を全てを手に入れることが出来る環境で育った和弥の態度は、ある程度予測出来ていた。母親の綾が再婚するまで、経済的理由で義務教育すら受ける余裕がなかった幹の環境とあんまりにも違う。 ふっと廊下の壁に掛けてある鏡を見つけて、幹は近づいた。見慣れた醜悪な姿に、そっと指で触れる。 数年前に負った火傷。お金もなく、十分な治療を受けることが出来なかった為、酷い痕として残ったが、幹は大してショックを受けなかった。女じゃあるまいし、目が見え、耳が聞こえ、体が自由に動く限り、痕が残っても生きては行ける。だけど、周りの態度は一変した。 そして、君も───… 容姿がどんなに変わろうと、見つけてくれると思っていた。信じていた。……可笑しくて笑ってしまう。 まさか、自分がそんな夢物語のようなことを信じていたなんて、滑稽で虚しかった。 幹は傷ついた瞳を閉じ、鏡に写ったバケモノを手で覆った。 +++ 和弥が在籍する中等部は、明治時代に創立された伝統のある有名な私立中高一貫校にある。生徒の殆どが日本歴史で名を馳せた華族や貴族出身であり、大物の政治家の子供も多かった。 生徒全員が将来、日本のトップになることを約束されている中、和弥の存在は更に特別である。 華やかな美貌、総理大臣でさえ恐れる圧倒的な権力を維持する伝統な血筋、学年トップの頭脳の持ち主である和弥を、学校中が心酔する状態である。教師すら、和弥の言いなりである。 和彦の計らいで同じクラスに転入した幹を、和弥が先頭となってクラスメート全員で嫌がらせをするようになった。 教科書を破ることから始まった虐めは、日々にエスカレートし、最後には酷い暴力となった。 ある朝、抵抗する幹を紐で縛り、狭い掃除棚に閉じ込めた。深夜になっても家に戻らない幹を心配した義理母の綾に、平気で「友達の家に泊まるって」と嘘をついた。義理母は幹に友達が出来たと馬鹿みたいに喜んでいた。 警備員に見つけられるまで、40時間近く幹は水一滴与えられず放置されていた。 ことを発覚した担任は和弥を恐れ、ただ幹に帰宅を促しただけだった。 バケモノには生きる権利はない、とでも言うような扱いを幹は受けていた。幹はただ黙ってそれを耐えた。バケモノと呼ばれたあの日から───… 屋上に続く階段を上ると、大藤祥一(おおふじしょういち)は踊場で座り込む人影を見つけた。 「こんな所で何やっているんだよ」 祥一が声をかけると、相手がのろのろと顔を上げた。少し小柄だが、上靴が同じ青色だから同級生か、そう判断した祥一は困ったように首を傾げる。 「どいてくれねえ?邪魔なんだけど」 顔色一つ変えずに普通に話す祥一に、同級生は少し驚いたように目を見開いた。 何でそんな顔をされるのか、心当たりがない祥一は眉間に皺を寄せる。 「何?俺の顔に何か付いているか」 「いや……別に」 戸惑っている同級生に、祥一は顎で屋上に続くドアを指す。 「授業をサボりたいのか?だったら、ここに居たら見つかる。屋上に行けば」 「鍵がかかっている」 「ここにある」 ニヤリと笑った祥一は、鍵を同級生に投げる。反射条件でそれを受け取った同級生は、暫く黙り込んでいた。 沈黙が苦手な祥一はポリポリと頭を掻くと、思いついたように自己紹介を始める。 「俺は大藤祥一。二年A組。お前は?」 「……幹」 長い沈黙の後に、同級生が名乗った。 「ミキ?可愛い名前だな」 真剣に感心する祥一に、幹は困ったような表情で「そんなこと、言われたことない」と言い返した。 「そうか?女みたいな可愛い名前じゃん。お前、転校生か」 「……」 再び無言になる幹に、祥一はピンときた。 「もしかして、あの菊池の義理弟か?」 遠慮がない質問に幹は答えないが、祥一はお構いなしに話を続ける。 「お前って運がねえな。菊池ってすげえ嫌味な奴だろ?俺、あいつ嫌いなんだよ。自信過剰のナルシスト。気持ち悪いっつーの」 本気で嫌そうな顔をする祥一に、幹は首を少し傾げる。ここで和弥を批判できる人間が存在すると思ってもみなかったからだ。 「俺にそんなことを言っていいのか」 戸惑いながら尋ねる幹に、祥一は「別に構わないけど」と平然と言いのける。 「あいつに何を思われようと痛くも痒くもない。あん?……なんか、お前の左手、打ったのか?青くなっているぞ」 火傷痕が酷く残っている左手に祥一が触れる寸前、幹は咄嗟にその手を振り払った。 「悪い。痛むか」 鈍感な祥一は、幹の拒絶を別の意味で捕らえる。 「違う。……お前は気持ち悪くないのか」 「別に気持ち悪くないだろ。火傷か?酷いな」 「……」 呆然となる幹の左手を掴むと、祥一はじっとその腕を見る。 「やっぱりな。火傷痕で判り難くなっているけど、お前、怪我しているだろ」 「慣れているから、別に気にならない」 「はあ?慣れているって───…」 「暴力には慣れている」 淡々と話す幹に、祥一は徐々に険しい表情になる。 「そんなことに慣れるな。お前、人間だろ。痛みはあるだろ」 「こんなに醜い容姿でも人間なのか」 今まで自虐的な言葉を言ったことがなかった幹は、初めて言い捨てた。 「───自分でそう思うなら、終わりだな」 怒った口調で吐き捨てると、祥一は屋上ではなく来た方向に引き返す。残された幹が自嘲的な笑みを浮かべた時、唐突に祥一が戻って来た。 「おい。早く、それを医者に見せろよ。骨折とかしていたら、やばいだろ」 表情はまだ怒っているのに、お人好しな祥一の言葉に、幹が素直に笑う。 「なんだよ、笑ったら可愛いじゃん」 真剣な表情で祥一がそう指摘すると、幹は半ば呆れ顔になった。 +++ 完璧な演技に、和弥は酔い痴れた。 「このまま黙っても、幹の為にならないと思うんだ。だから……僕、幹に自分がやっていることは悪いことなんだと、解って欲しくって……お義理母>(かあ)さんを悲しませるつもりじゃないんだ。───ごめんなさい」 薄っすらと目尻に涙を浮かべた和弥に、父親の和彦はお前の責任じゃないと慰める。 それとは反対に義理母の綾は戸惑うように、警備員の隣にひっそりと立っている幹に駆け寄った。 帰宅途中に同級生と学校近くの百貨店に出かけた和弥は、たまたま雑貨屋で何かを探している幹を見つけた。その途端、和弥の脳裏にあるもくろみが浮かんだ。商品を選ぶことに夢中になっている幹のカバンに、未会計の5万円相当の腕時計を同級生に忍び込ませた。 その間に別の同級生が警備員に告げ、店を出ようとした幹は、簡単に捕まった。警備員に連行されて家に戻った幹に、和彦は失望の眼差しを向けるが、綾は信じられないと愕然としていた。 「幹君、何故こんなことをするんだ。欲しい物があれば、私に言えばいいじゃないか」 出会ってから幹に一度も触れたことがない和彦は、猛々しい声で責める。 「僕は盗っていません」 否定する幹だが、不信の目で見る和彦は責め続ける。少し遠く離れて様子を見ていた和弥は薄っすらと暗い笑みを浮かべた。 結局、相手は赤の他人だ。和彦がバケモノより息子の和弥を信用するのはあたり前のことだ。 「この件は私が対処するが、君は自分がしたことを認めるべきだ。今後、このようなことがないようにして欲しい」 社交界で最も嫌がられるのは、警察沙汰のスキャンダルだ。再婚の相手の息子が万引きしたと知れれば、恥曝しだ。 「僕は何も自分に恥じることはしていません。僕を警察に突き出しても構いません」 火傷痕から覗ける強い眼差しに和彦が不快感を示すと、義理母の綾が仲介に入る。 「和彦さん、待ってください。幹は万引きなんて出来る子ではないのです」 「しかし……」 20歳以上離れている若妻の訴えに和彦が少し困った表情をした時、和弥は食い掛かるように父親に訴える。 「僕も本当にこんなこと言いたくないけど、僕、見たんだ。幹の為にもここは罪を認めさせるべきだよ。そうしないと繰り返しになるよ」 辛そうな表情をして話す和弥を見て、幹は少し自嘲するように口元を上げた。 「あんたは俳優になれそうだな」 強烈な嫌味にムッとなったが、ここは冷静に演技を続けなければいけない。 「……僕はっ…ただ幹の為にっ」 傷つくように目を潤ませた和弥の肩を抱き締めて、和彦は幹を睨み返す。 「逆恨みはやめるんだ」 和彦は幹が万引きしたと信じている。諦めたように幹が長い溜め息をついて、「わかりました」と言いかけた途端、綾が哀願するように和彦にしがみ付いた。 「和彦さん、お願いです。幹を信じてください。生まれてから、幹は一度も嘘を言ったことがない子です。いつも、私を守ろうとしてくれました。この子が違うと言うなら、本当に幹は万引きしていないのです。私を信じて下さるなら、幹のことも信じてください。お願いです」 土下座をする綾に、和彦が慌てる。 「しかし……和弥は現場を見ているわけだし───」 「何かの間違いです。絶対に何かの間違いで……うっ」 突然、左胸を握り締めて綾は絨毯の上に屈み込んだ。 「綾っ……!!」 「母さんっ!!」 驚いた和彦と動揺した幹が、同時に綾の傍に駆け寄る。 「大丈夫です……少し、胸が痛くなって」 薄っすらと汗を浮かべて顔を歪ませた綾は、生まれながら心臓が弱いらしいが─── 演技するんじゃねえよっ 怒鳴りつけたい衝動を押し殺し、和弥は綾を睨み付けた。心の中で義理母を罵倒する和弥の中で、初めて殺意が芽生える。 「わかったから。綾。君の言った通りに幹君を信じるよ」 「和彦さん」 泣き出す若い妻の背中を抱き締め、和彦は「わかった、わかった」と慰める。 驚いた和弥が父さんと呼ぶと、信じられないことに和彦は「この件は何かの間違いだろ」と言った。愕然となった和弥は、この女に自分が負けたのかと思うと、怒りに狂いそうになった。 「私も幹君を信じよう。だから、もうそんなに悲しまないでくれ」 「和彦さん……有難うございます」 絨毯に額を付けて感謝を述べる綾に、和彦は苦笑いする。 そんな二人を愕然と見つめた和弥は、拳を無意識に強く握り締めた。 信じられない。誰もが恐れるメディア界の王者が、何も取得のない女に言いよう操られている。再婚する前は、自分だけを愛し、最優勢してくれていたのに。 ドロドロした黒い感情が、和弥の奥から沸き起こる。 自分が一番でないと、許せない。 父親が自分よりこの女を選ぶなんて、絶対にあってはいけない。 バケモノの幹ではなく、自分にとって一番危険なのはこの女かもしれない。 涙を武器に父親を洗脳している。 危険だ、と和弥は思った。 何か対策をしないと、この菊池家は乗っ取られてしまう。 焦る気持ちで女を睨みつけながら、和弥は無意識に親指の爪を噛んだ。 +++ 「幹」 深夜、沈み返った屋敷の中、綾は息子の部屋に入った。 「もう寝ていた?」 「まだだよ。ただ、横になっているだけだから」 普段感情を見せない幹だが、笑うとやはりまだ子供だと認識させられるほど無邪気だ。だけど、笑顔の後、どこか悲しそうな表情をする息子の頬に、綾は指で触れた。 「どうしたの、幹」 「……ごめん。今日、母さんを悲しませてしまって。胸……大丈夫?」 生まれつき綾は、原因不明の先天性心臓病に掛かっていた。心室の壁に穴が空いた心室中隔欠損症を患う綾は、時々、呼吸困難やチアノーゼを起すので、幹はいつも綾の体調を気にしていた。 「私は大丈夫よ。それより、幹は何も悪いことをしていないんだから、堂々として」 「うん」 そっと幹の火傷の痕に触れると、綾はいつも泣きたい気分になる。 「ごめんね。ごめんね。幹にはいつも辛い思いをさせて…この火傷も、私の為に」 「母さん、もう昔のことだよ。僕は女じゃないし、傷なんて気にならないよ」 男でも気にならない程度の怪我なら、綾もここまで悲しむことはなかった。しかし、幹の火傷は直視出来るものではない。上半身の左半分以上は酷い火傷痕で覆われている。 昔、近所の子供が幹を指差して「お化け」と言った時、綾は幹に申し訳なくて死にたくなった。泣き崩れる綾を、まだ幼い幹は何も言わずに静かに抱き締めてくれた。 綾の前夫は、酷いアルコール中毒者だった。16歳で妊娠が発覚し、家族絶縁状態で駆け落ちをしたが、若い二人に子供を育てる経済力があるわけではなく、呆気なく人生放棄に走った夫がアルコールに手を出してしまった。酒を手に入れるためにギャンブルに嵌まり、最後には巨大な借金を背負うことになってしまった。 綾が一番許せなかったのは、暴力だった。 自分が殴られるのはまだ我慢出来たが、工場で働く綾を、小学校すら行かずに家事や内職で助けた幹までを殴るのだけは、耐えられなかった。 冬のある日、酒がないと暴れ出した夫に殴られた綾を庇って、幹が間に割って入ってきたが、夫は乱暴に小さい体を投げ捨てた。運悪くストーブに衝突した幹に、上で沸かしていた熱湯が襲いかかり全身火傷を覆った。 狂ったように泣き出した綾は、幹を抱き締めながら病院に駆け込んだが、幹は数日間意識を失っていた。一命は取り留めたが、幹は深い傷を心と体に背負うことになった。 自分の過ちが、罪のない息子を襲う。 お金があれば、傷を治せたかも知れない。だけど、入院代も払えない状況で、火傷痕を消す手術は夢の話だった。己を責める綾を、目を覚ました幹が「大丈夫だよ」と笑顔で励ます。 まだ、8歳なのに。 親に甘える時期なのに。 何一つ与えてことが出来ず、それどころか、生涯残る痕を残してしまった。 ───早く大きくなって、働いて、母さんを幸せにするから 幸せそうに話す幹に、綾は切なさに嗚咽を止めることが出来なかった。 ───母さん、いつか、海に行こうよ。僕、海を見てみたい 切なさに胸が押し潰された綾は、息子の前で情けなく泣き叫んだ。人生、何一ついいことはなかったけど、幹が生まれてきたことだけには感謝したい。 綾にとって幹は、全てだった。命だった。 この時、綾は幹を守る為に離婚を決意した。 「……さん?母さん?どうしたの?」 心配そうな声に、綾ははっとなる。 「ごめん。ちょっと考えことをしていたの」 「相変わらず、その癖、直らないね」 笑う息子に釣られて、綾も笑った。 「あ、そうだ、母さんに渡したい物があるんだ」 「え?」 「もう、0時回っているよね。ほら」 幹から渡された小さな、一輪の風鈴草の花。 「本当はもう一個、ネックレスとかを買いたかったけど。お金が足りなくて……今日、母さんの誕生日だよね。一番最初に渡せて良かった」 綾が菊池家に嫁ぐ前、幹は内職をして借金の返済を助けてくれていた。自分が欲しい物を全て我慢して、貯めたお金に違いない。 「……もしかして、これを買うために今日……」 「うん。ちょっと、変なことになったけど」 「幹───」 熱いモノが込上げてきて、綾は幹を抱き締めた。 「大事にするから。一生の宝物にするから」 「大袈裟だなあ。ただの花だよ。一生は無理だよ……母さん」 幹は静かに綾を呼ぶ。 「今日は有難う。僕を信じてくれて」 「あたり前よ。全ての人があなたを疑っても、私だけは信じるわ」 「うん」 「あなたを誰よりも愛しているわ。───心から愛しているわ」 泣き虫の綾は、簡単に涙を流してしまう。 「僕も」 幹は綾の胸の中で静かに目を閉じた。

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