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第2章

菊池幹は誰よりも強い男だと、大藤祥一は思う。 以前、階段で幹に会ってから、何かと関わる機会が増えた祥一は、幹が義理兄の菊池和弥に酷い暴力を受けていることを知った。実際、トイレで暴力現場を目撃し、和弥達を怒鳴りつけたが、教師すら恐れる父親の権力を盾に、和弥は怖いもの知らずだった。クラスが異なる故、祥一は幹を守る手段を持たない。 幹への惨い暴力は、言葉では言い尽くせない。 限度を超えている。犯罪だと祥一は憤る。 己以外を蔑み、己の頭脳と容姿に酔うナルシストの和弥を、祥一は誰よりも嫌う。誰よりも生理的嫌悪感を持つ。 「いつか、あの傲慢な鼻を圧し折ってやる」 フンっと鼻で荒い息を吐くと、和弥の顔を思い出したのか、祥一は地面を数回蹴った。階段の踊り場に小さく響く。 「落ち着いたら」 「何でお前がそんなに冷静なんだ。犯罪だろ。これ」 背中を中心に、肩、腕、腹、そして胸までに青と紫のあざが無数に広がった幹の体を見て、祥一は何回目かの吐息を洩らす。踏み潰された幹の手首は、捻挫して腫れていた。保健室から持ってきた湿布で幹を手当てしながら、祥一は和弥への憎悪を更に募らせる。 幹は気が弱いから、虐められているわけでない。 口数が少ないので、大人しい印象があるが、幹は祥一が知る人間の中で最も強い意志の持ち主だ。どんなに罵倒されようが、暴力を受けようが、幹は誰にも屈しない。 集団でひとりの人間を虐め、ひとりでは何も出来ない和弥に比べれば、幹の方が何千倍も強いと思う。容姿が完璧でも、和弥の心は誰よりも醜いと祥一は思う。 「お前、あいつと同じ家で辛くないのか」 「……母さんが幸せなら、俺はいいだよ」 「お前って、本当にいい息子だな。そんなことを言う奴なんて、ここではお前だけだよ」 「祥一は違うのか」 「違うね。世間体ばかり気にする親なんて、最悪だ。早く家を出たい」 大臣である父親を持つ祥一は、何かと自分の進路で親と衝突していた。見栄と地位だけを大切にする親を軽蔑することがあっても、尊敬はしたことはない。だが、来年、幹と同じクラスになる為には父親に頭を下げるしかない。 「お前は将来、何になりたいんだよ」 「何、突然」 不思議そうに首を傾げる幹に、祥一は真剣な表情で話し出す。 「俺さ、将来、警察官になりたいのにさ、親が政治家になれって煩いんだよ」 警察官は正義感に溢れる祥一に、いかにも似つかわしい。 「警察か。祥一らしいな」 「そうか?」 嬉しそうに目を輝かせる祥一に、幹は笑う。 「うん。似合っているよ。……俺は医者になりたい」 「お前、頭いいもんな。その火傷痕を直すためか」 無神経な祥一が悪気なく尋ねると、小さく笑った幹は「違う」と答えた。 「母さんの病気を治したいんだ。見る相手には悪いけど、俺は別にこの痕は気にしていない」 「それで虐められているだろ」 「外見だけで、人と関わりたいと思わない」 「それはそうだ」 納得して祥一が頷く。 「友達は祥一だけで、十分幸せだよ」 この痕がなければ、きっと祥一の良さに気がつかなかった、そう言葉を続けた幹に、祥一は照れ隠しで怒った顔になった。 「恥かしいこと言うな。俺はただのお節介だ」 「それは否定しないよ」 「否定しろよな。そこは」 祥一が白い歯を見せて笑うと、釣られた幹も一緒に声に出して笑う。 「絶対になれよ」 唐突に笑みを消して祥一が幹を見つめる。 「医者になれよ。絶対に」 「……祥一」 「親に反対されても俺は絶対に警察官になってみせる。だから、お前も何があっても、負けるなよ。医者になって、周りの奴らを見返してやれよ」 「あたり前だろ?俺は負けないよ」 幹は眩しい程の笑顔を見せると、差し出された祥一の右手を握り締めた。 その時、階段の下から人を馬鹿にする笑い声が聞こえた。先程までの楽しい気分が一変に消え、険悪な気分になった祥一は嫌そうに振り返る。 そこにいるのは、祥一にとって天敵の菊池和弥とその仲間達。 「バケモノに触れるなんて、お前、感覚がおかしいじゃねえの」 和弥の幼馴染である片岡秀が、呆れたように祥一を一瞥する。秀の横で喉を鳴らして笑う和弥は「マジでな」と煽る。和弥の行動全てが癪に障る祥一は、けっと吐き捨てた。 「俺に話し掛けるな。てめえの糞病がうつる」 祥一は「行くぞ」と幹の怪我をしていない左手首を掴み、階段をドンドンと勢いよく下りる。和弥達と擦れ違う時、祥一は足を止めた。 「失せろ。和弥。これ以上、幹に手を出したら、俺が許るさねえぞ」 地を這うような低い声で、祥一は忠告する。和弥は鼻先でそれを嗤う。 「お前は、何でそんな悍ましいバケモノを庇うんだよ」 「悍ましいバケモノはてめえの方だ。てめえのその腐った中身は、何よりも醜いだよ」 「……」 黙り込んだ和弥の眼差しが、ぞっとする程冷たくなる。だが、そんなことで怯む祥一ではない。息がかかるほど、和弥に顔を近づけ、祥一は吐き捨てた。いつか天罰が下るぞ、と───… 数年後、菊池和弥はこの意味を知ることになる。 +++ 菊池和弥はそれを見て愕然とした。職員室の前の掲示板に張り出された中間テスト結果に、和弥はショックで思考が停止する。周辺の生徒達も、一瞬沈み返る。 「……うそ…だろ」 誰かの呟くような声が洩れた時、和弥は悔しそうに歯を食い縛った。絶対に有り得ないことが目の前で起きている。生まれてから一番以外取ったことがなかった和弥は、初めて不名誉な二番にいる。その上、頂点にいるのは、和弥が最も蔑む相手。 「菊池幹───…」 目を擦っても、そこに書かれているのは五科目満点の文字。そんな事があるはずがない。絶対に有り得ない。ここは全国一の進学校。将来の日本のリーダー達が通う、英才学園である。その中で何故、醜いバケモノが一番を取るのか、和弥はパニックに陥る。 菊池家に入るまで、幹は小学校の義務教育すら十分に受けていないと聞いている。勿論、和弥達のように家庭教師を雇ったりや塾に行くお金があるはずもない。それなのに、何故、転校してほんの1ヶ月で、和弥を抑えてトップを取れるのか。 カンニングとしか思えない。それか事前に試験内容を知っているかの、どちらかだ。己が天才だと信じて疑わない和弥は、バケモノに負けたことをどうしても認めることができない。 「ふざけやがって」 悔しさに、薄っすらと涙を浮かべた和弥は親指の爪を噛んだ。全生徒の前で屈辱された。許せない。 「追い出してやる」 この学園から、菊池家から、そして日本社会から排除してやる。 顔を真っ赤にした和弥は乱暴に順位表を剥ぎ取ると、その場で粉々に破り捨てた。戸惑うように見守る生徒達に振り返ると、「見るんじゃねえよっ」と怒鳴りつけ、その場から去った。 +++ 短い冬休みの後、凍える1月になった。 今日は、低気圧の影響で、夕方から記録的な大雪になると予報されていた。 その中、二学期の成績が発表された。張り出された成績順位表に群がる生徒集団から距離を置いて、幹は静かにそれを眺めていた。 菊池の名字を名乗ってから、約半年ぐらい経つが、幹は今だに和弥達の陰湿で執拗な虐めを受けていた。特に、試験結果の発表後の暴力は酷いものだった。 幹が転校して来た二学期以降、和弥は長年キープしていた1位の座を奪われ、結果、今日発表された二学期総合成績では、初めての2位になった。 成績順位表を暗い目で睨む和弥の姿を見つけ、幹は思わず長い溜め息を吐き出してしまった。半年前まで文房具ですら買う余裕がなく、学校にまともに通えなかった幹は、家事や内職の合間に図書館を利用し、ひたすら本を読んでいた。 そして、母親の再婚で勉強の環境が揃った今、幹は水を得た魚のように無我夢中で学ぶ。寝る間を惜しんで勉強した結果、幹は日本でエリートと呼ばれる同級生達を短期間で全員追い抜かしてしまった。 包帯が負かれた右指で、幹は左顔の火傷痕に触れる。体が痛む。 試験前に踏まれて骨折した右手、野球バットで殴られてヒビが入った肋骨。幹の体は、和弥達の暴力によってボロボロだったが、幹は心配する母親を誤魔化す為に、嘘を言い続けていた。 和弥の後ろ姿を見つめながら、幹は願う。小さく願う。僕だよと。 その時、唐突に和弥が振り返り、幹と視線が合う。親の仇を見るような眼差しのまま、和弥が幹に近付いた。 「笑っているんだろ」 憎しみを込めた声で言われ、幹は黙り込んだ。和弥は被害妄想が強い性格だと、幹は常々思っていた。 「関係ないみたいな顔して、本当はその腹の中で俺を笑っているんだろっ」 充血した赤い目で怒鳴った和弥とは反対に、幹は感情的にならずに落ち着いていた。只ならぬ雰囲気に、掲示板に群がっていた生徒達が二人に注目する。 「あんたがそう思うなら、そう思えば」 どこまでも平静な態度の幹に、和弥はカッとなって目を見開いた。殴られる、幹は咄嗟に歯を食い縛るが、和弥は何も言ってこないし、殴っても来ない。 不気味な笑みを浮かべた和弥を、幹は訝しげに見る。何かを企んでいる時、和弥は暗い微笑を浮かべる。不気味で嫌な予感に、幹が何かを言おうとした時、異変に気が付いた大藤祥一が、人集りを掻き割って登場した。 「おいっ、てめえ、何をしてるんだよっ」 二人の間に入ると、幹を庇うように和弥の前に立ちはだかる。 「幹に負けたからって、逆恨みするんじゃねえよ」 事を大きくする無神経な言葉に幹が苦笑いする。だが、何故か、負けず嫌いのはずの和弥が祥一に何も言い返さない。普段と違う態度に、祥一は驚くより本気で不気味がる。 「醜いバケモノは退治される運命なんだよ」 「はあ?───頭がイカれたか」 呆れた祥一を無視して、和弥は踵を返した。 和弥の後ろ姿をじっと見つめながら、幹は漠然と不安に襲われる。 +++ 「和弥さん、どうしたのですか」 突然、昼過ぎに帰宅した和弥を、義理母の綾が驚きながら玄関で迎えた。 「ちょっと、調子が悪くなったのです」 「大丈夫ですか。今、医者を───…」 「大丈夫です。少し寝れば良くなりますから」 そう答えるが、まだ心配そうな表情の義理母を心底鬱陶しいと和弥は思う。また演技かよ、と吐き捨てたい気分だが、敢えて和弥は笑顔を振り撒く。 綾は半年前まで、この家で働いていた家政婦だった為に、義理母になった今でも和弥には敬語で話す。外から見れば、貧しい家政婦だった彼女が大富豪のマダムになるシンデレラストーリーだが、和弥から言わせて貰えば、ただの強欲な貧乏人の話だ。 だが、今日でそのシンデレラストーリーは終わる。 「温かい紅茶が欲しいのですが、部屋まで持って来て貰えますか」 「はい。直ぐにお持ちしますね」 「お願いします」 美しい笑顔を見せて、和弥は自分の部屋に入った。 それから2時間後。肩に着いた雪を家政婦に丁寧に落として貰いながら、菊池和彦が帰宅する。 「和弥、早退したと担任から聞いたが、大丈夫か」 「うん。ごめん。心配かけちゃって」 抜群の演技力で咳をすると、和彦が心配そうに和弥の背中を摩った。和弥は仮病を偽り、担任に父親に連絡するように仕向けた。和弥の予想通りに、親馬鹿の和彦は心配して普段より早く帰って来た。 「綾はどうした」 いつもなら玄関で出迎える若妻の姿が見当たらず、和彦は周辺を見渡す。 「知らない。僕が戻ってきた時も、部屋から出てこないんだ」 「看病して貰えなかったのか」 眉間に皺を寄せた和彦に、和弥は「気にしないで」と弱々しく笑顔を作る。 「何回か、吐いたら楽になったよ。熱も39度から37度ぐらいに下がったし、他の家政婦さんが代わりに僕を看病してくれたし」 綾が重症の和弥を放置していたことを暗に示す言葉に、見る見る和彦の表情が険しくなる。和彦は「すまんな」と和弥の頭を撫で、大股で寝室に向かう。その後について行きながら、和弥は思わずニヤリと笑みが浮かべた。事は順調に進んでいる。 ノックなしにドアを開けると、衝撃的な光景が和彦の視界に入った。 若い男の胸に寄り添うように、綾が裸で寝ていた。 絶句した和彦は暫くの間、指一つ動かない。 その内、騒然たる気配に、男が最初に目を覚ます。そして、和彦の怒気を帯びた顔付きを見て、「ひっ」と情けない声でベットから転げ落ちた。慌てて服を着る男を、息子の和弥でさえ見たことがない程、嫉妬に歪んだ表情で、和彦がベットの上の綾を凝視する。 床に散らかった使用済みコンドーム、ティッシュ。 そして、脱ぎ捨てられた綾の下着。 やがて、綾が億劫そうに徐々に瞼を開く。 「…か……和彦さん…?今日は…早かったのですね」 寝ぼけているのか、綾は数回瞬きをしながら、ゆっくりと上半身をベットから起こした。頭痛が酷く、右手でこめかみを押さえた時、綾はふと自分が裸であることに初めて気が付いて、慌ててシーツで隠した。 状況が理解出来ずに混乱した綾は、その時に初めて、知らない男が横にいること、普段優しい和彦が鬼ような剣幕で震えていることに、漸く注意が行き届く。 同時に綾は、千切れんばかりに目を見開いた。 +++ 鋭く荒々しい物音と母親の悲鳴に、帰宅したばかりの幹は思わず義理父と母親の寝室に飛び込んだ。 「母さん───っ!!」 義理父の和彦が母親の綾を無情に殴っているのを、幹は目撃する。 「何をするんだっ」 幹は倒れた綾の傍に駆け寄り、和彦を怒鳴りつける。綾の両頬は赤く腫れていた。綾がどれだけ長い間殴られていたかを察した幹は、和彦を強い目つきで見据える。 「───退け。この薄汚いネズミが」 「嫌だっ」 憤怒の形相の和彦に怯まず、幹は泣き崩れる綾を守るようにその小さい背中で隠す。 「何で、母さんを殴るんだっ」 「この淫乱女は私のいない間に、この部屋に男を連れ込んだんだよ。───退け」 母親を蔑む言葉に、幹は我が耳を疑う。綾が違う、違うと泣きながら訴えても、和彦は聞く耳を持たない。動揺を隠せない幹はふと、他人事のように修羅場を眺めている和弥と、視線が合った。 和弥の意味深な微笑を見た時、幹は全て和弥が仕組んだことを理解する。 心をぐちゃぐちゃにされる。 その衝撃に、幹は下唇を噛み切ってしまった。口の中で広がる鉄の味。 「母さんがそんなことをするはずがない。和弥が仕組んだ事だっ」 和弥を指して怒鳴ったが、和彦が突然、幹を拳で殴る。 幹の小さい体は吹っ飛んで、壁に頭を打つ。激しい痛みに幹が小さく声を漏らすと、悲鳴をあげた綾が幹に駆け寄る。が、和彦に後ろ髪を乱暴に掴まれ、阻止された。 踵が浮く程、乱暴に綾の髪を持ち上げる和彦は、冷酷で容赦がない。 「痛いっ!和彦さんっ、違う!!違う!!」 「私がどれだけ可愛がってやっていると思っているんだ。それなのに、こんな裏切りをしやがって」 「嫌ああぁぁ───!!」 母親の泣き声に、幹は歯を食い縛って必死に起き上がった。 「母さん───っ」 衝動的に和彦に飛び掛かるが、まだ13歳で小柄な幹が大人に勝てるはずもない。怒涛の如く、和彦に顔を殴打され、再び幹の体は床に吹っ飛ぶ。 「醜いバケモノが、私に触るな」 その和彦の言葉に、今まで抵抗をしなかった綾が突然暴れ出した。狂ったように泣き暴れた綾の頬を、和彦は舌打ちをすると躊躇いなく拳で殴った。 「母さん───っ」 血の気が引いた幹は、綾の傍に駆け寄った。幹が抱き起こすと、綾は強い眼差しで和彦を睨む。 「私を信用できないと言うのでしたら、それで構いません。でも、幹をそんな風に扱うことだけは許せないっ」 幹はバケモノじゃない 絶叫して咳き込んだ綾を、幹は泣くもんかと耐えながら抱き締める。 母親の想いが、切なく悲しい。 「今すぐ、出て行け」 血も涙もない和彦の非情な言葉に、綾は声を殺して泣いた。堪えてきたものが溢れ出したように泣く母親を、幹が更に強く抱き締める。 「母さんっ母さんっ」 どうして、どうして…こんなことになったんだろうか。 ただ、小さい幸せを願っただけなのに。 深い憎悪に、人間の心を忘れてしまいそうになる。 深い悲しみに、心が挫けそうになる。 だけど、幹は涙を流さない。泣いたら、終わりだ。泣いたら 今、泣いたら、きっともう立ち上がれない。 幹は弱々しい母の体を小さい体で支え、死にもの狂いで立ち上がった。何度も倒れそうになりながら部屋を出た時、幹は最後に和弥を見た。 君は最後まで、僕を人間として扱ってくれなかった 和弥への憎しみが、目に見えない血の涙となる。 幹と綾は荷物1つ持たせて貰うことが出来ずに、菊池家から追い出された。 真冬の夜は、雪が積もり、凍えている。幹が薄着の綾に自分のコートを羽織らせると、綾が力を失ったように地面に崩れ落ちた。人通りの少ないここに留まったら、二人とも凍死してしまう。幹は母親を背負い、吹雪が舞う暗闇の中を歩き続けた。 だが、同級生達の虐めによって幹の体は既に傷だらけである。 ヒビが入った肋骨が、綾の体重を支えきれずに悲鳴をあげる。前に倒れかけた幹は、咄嗟に骨折している右手で地面をついてしまい、骨が割れるような音が鈍く響いた。綾と共に地面に倒れる。震えながら起き上がった幹は……言葉を失う。 綾の腫れあがった頬と瞼。唇から滲み出た血。 長時間、暴力を受けた痕。母親の無惨な姿。美しかった綾は、もう瞼すら開くことが出来ない。咳き込む綾に、幹は下唇を噛んで背中を撫でた。涙が零れそうになる。 「母さんっ母さんっ母さん……」 激しい咳の後、綾がのろのろと顔を上げると、幹は愕然となった。綾は血を吐いていた。真っ白な雪に染み込む赤い液体。 「母さん……」 絶望に顔を歪ませた幹は、堪え切れずに泣き出した。張り詰めた糸が切れたように泣き出す幹を、綾は優しく微笑む。 「幹───…」 「ごめん。ごめん。僕のせいで───…」 醜怪な自分がいなかったら、綾は和彦と幸せに暮らせたかも知らない。 「ごめん。ごめん。僕が生まれてごめん」 どんなに罵倒されようと、どんなに殴られようと……死ぬことになっても、何も言い返さずに堪えればよかった。勉強なんて出来なくてもよかった。何も望まずに生きればよかった。そうすれば、母親はこんな目に遭わなかった。 幹は夜空を見上げ、泣き叫んだ。 この悲しみをきっと、君は知らない。 「み……き…───」 息子の胸に凭れた綾を、溢れ出す涙を止めることが出来ない幹が強く抱き締める。 「母さん…僕を…僕を置いて逝かないで。僕を一人にしないで」 嗚咽しながら訴える幹の悲痛な想いに、綾もまた涙を流した。 「許して…幹。私を許して…あなたを一人にしてしまう、私を───…」 「っ……母さん、母さん、母さんっ」 幹は助けを求めようと周辺を見渡すが、人影がない。 「誰かっ───!!誰か」 助けて 絶望の叫びは、誰にも届かない。幹の涙が、綾の頬に零れ落ちる。 「……あなたを置いていく母を許して───」 綾は震えながらそっと幹の頬に指で触れた。 「泣かないで、幹」 「───」 「生きて。生きて、幸せになって。誰よりも幸せになって、笑って」 声を詰まられた幹は、頬を綾の肩口に押し付けた。 暫くして、綾の吐息が聞こえなくなる。 幹がのろのろと顔を上げると、綾は目を閉じたまま動かなくなっていた。 「───」 獣の鳴き声のように、静かに闇に響く絶望。幹は絶叫した。 +++ 冷たくなった母親を抱き締めたまま、幹は雪の上に横になる。夜空から白い雪が舞い降りる。綺麗だ、と幹は思った。 全てが夢のように思える。不思議なことに、幹は寒さを感じない。だけど、強烈な睡魔が幹を襲う。過去が夢に甦る。 昔、薄暗い森に隠れると、幹は声を殺して泣いていた。 胸が痛くて、痛くて、呼吸が出来なかった。生きている意味が理解出来なかった。君に会うまで─── 弱い自分を思い出して、幹は小さく笑った。そして、目を閉じる。 少しだけ、休ませて欲しい。このまま、少しだけ。 霞む視界の中、誰かの足元が微かに見えた。顔を上げようとしても、睡魔に邪魔されて、幹は呆気なく諦めた。 目の前にいるのが、天使なのか、死神なのか、そんなことはどうでも良かった。

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