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第3章

オートクチュールのイタリアスーツを着た菊池和弥は、つまらなさそうにサンペレグリノを飲む。 毎月招待されるパーティーの中でも、特に今日は特別だ。 日本最大のグループ企業、旧財閥の今加会長が主催するパーティーは、世界中の著名人の名を連ねる豪華さである。 暇潰しに父親と参加した菊池和弥は、最初は周囲の熱い眼差しに気分を良くしていたが、段々と笑顔で挨拶をする事に疲れを感じ、会場の隅っこに移動した。しかし、目立つ容姿が仇となり、女が絶えずに声をかけてくる。 漸く落ち着いた時、幼馴染みの片岡秀が数人の華やかな女達を引き連れて近づいて来た。 「この後さ、彼女達と上でヤらねえか」 馴れ馴れしく和弥の肩に腕をかける秀は、大手の不動産企業の御曹司だ。背が高く甘いマスクの持ち主である秀は、大層モテるが、性格は節操なしのクズ男だ。 「しねえーよ。もう、飽きた」 素っ気なく和弥が答えると、秀が外人のように大げさに肩を竦めた。 容姿、財産、そして将来も全て約束されている和弥達は、暇潰しの名の元、乱交パーティーを開いて、数々の女を弄んで捨ててきた。トラブルになれば、金や社会的圧力で黙らせる。 だが、やり過ぎてセックスに飽き出した和弥は、現在、他の遊びを模索中である。アダルトグッズによるセックスも、嫌がる相手に無理やり挿入する暴力的なセックスも、複数人でやるセックスも、楽しいのは初回だけだ。 高等部の3年に進学した和弥は、益々華麗な美貌に磨きがかかり、今や男女に問わずに学園どころか、社交界の噂の的になっている。 街を歩けば誰もが振り返り、熱い眼差しで見てくる。注目されるのは嫌ではない。寧ろ快感なのだが、最近、ストーカーのように、鬱陶しく付き纏う相手が出始め、和弥をイラつかせていた。 「じゃあ、俺とヤってみるか?男とヤったことないんだろ」 秀がニヤニヤしながら、和弥の股を服の上から優しく撫でる。和弥は嫌そうに肘で秀の胸を押し返す。だが、更に誘惑するように、和弥の股を秀の指が掴もうとする。うんざりした和弥は、靴の踵で勢いよく秀の足を踏む。小さい悲鳴をあげて屈みこんだ秀を無視して、騒がしい会場から避難するように和弥は広い中庭に出た。 だが、先着がいた。 薄暗く良く見えないが、男が月を見上げている。訝しげに近づくと、段々と男の横顔が見えてきた。 遠くを見つめる男の眼差しに、不覚にも和弥は吸い込まれた。 男の容姿は人を惑わせるような…妖艶な香を醸し出していて、見ている者をぞくっとさせる。 美しい『モノ』が大好きな和弥は声を掛けようとした。が、静粛な雰囲気を破って、秀が和弥を追いかけてきた。 「和弥、そこにいたのかよ。怒るなよ。冗談じゃねーか」 突然の声に、男が勢いよく振り返った。和弥とそんなに年が変わらない男は、千切れんばかりに目を見開いて固まっている。まるで息をするのを忘れたような男の反応に、和弥は首を傾げる。 何故、そんなに驚く 近づいてきた秀が視界に男の姿を捉えると、「すげーぺっぴん」と感心したように口笛を吹く。 「お前、口説いているのか?」 綺麗なものに目がない和弥の性格を知っている秀が、小さい声で尋ねる。 「うるさいっ」 怒鳴り返した和弥は踵を返して屋敷の中に入る。入る前に、何気に振り返った。 自分を見つめる、男の不思議な瞳に胸がざわめいた。 +++ 紹介された季節外れの転校生を見た時、和弥は驚きに思わず腰を浮かした。 間違えるはずがない、先週パーティー会場の庭で会った男だ。 「イマカ、ミキ?」 教師の口から紹介された名を繰り返してみると、何かが引っ掛かる。どこかで聞いた事がある名だ。 「今加グループの関係者だってよ。だから、あそこにいたんだな」 背後から身を乗り出しながら秀が教えると、ああ、と和弥は納得する。今加グループ関係者だったら、どこかで彼の名を聞いていてもおかしくない。 それにしても、高等部3年の7月に、編入を殆ど認めないこの学園に転校してくるなんて、おかしな話だ。 頭の天辺からつま先まで物色するように、担任の横に立っている転校生を凝視した。転校日初日でも落ち着いている男は容姿端整で、クラス中の女達が黄色い声で騒めいている。日本人には珍しく、くっきりした顔立ちは、あの夜と変わらない不思議な魅力が伴なっている。 身長は、僅かに和弥より高いかもしれないが、殆ど変わらないだろ。 クラスの全ての女の目がハートマークになっているのを見ると、近い将来、争奪戦が繰り広げられるかも知れない。 何かが引っ掛かる和弥は、暫くの間、席に着いた男の端整な横顔を眺めていた。 +++ 全国実力試験の順位表が、掲示板に張り出された。 「1位イマカミキ、五科目満点」 口笛を吹いて、すげえ、と秀は感嘆する。 「全国で1位なんて、あの転校生、すげえ頭良いじゃねえのか。お前は…3位か。前回より3人上がったじゃねえか。良かったな」 ちっとも祝福していると思えない秀の声に、和弥は黙れ、と言って睨みつける。その時、和弥の幼馴染みの安田陸が複数の女子生徒と一緒に掲示板に近づいた。 「へえ、今加君って、あの容姿だけでなく、頭もいいだね。なかなか、手強いなあ」 モデルのように長身でいつもニコニコしている陸は、日本最大の製薬企業の跡取り息子である。来るもの拒まず、去るもの追わずの陸は、毎週のように彼女を取り換えるプレイボーイで、秀と同レベルのクズだが、乱交パーティーには絶対に参加しない。本人曰く、性病を移されたくないらしい。製薬企業の跡取りらしく、性行為に関しては安全第一主義である。 「今加君は、学校一のモテ男になるんだろうなあ」 クスっと笑う陸に、負けず嫌いの和弥がビクッと反応する。胸がDカップ以上の女が陸の腕に自慢の胸を押し付けて「既に10人以上の女の子達に告白されたと聞いたよ?」と甘い声で言う。 「すごいね」 女の胸の柔らかなに対しなのか、それとも転校生に対する感想なのか、陸はふんわりと笑う。 なんだか面白くない。 確かに、転校生の『イマカミキ』は、不思議な美貌を持った男だ。時々女と間違われる和弥と違い、はっきりと男だと判別出来るが、どこか妖艶で人を惑わせる雰囲気がある。何よりも、薄い灰色の瞳は吸い込まれそうになるほど、美しい。 だが、ナルシストの和弥は、相手が自分より優れていることが、当然面白くない。 「なあ、賭けしないか」 突然悪戯をする子供のように目を輝かせた和弥に、陸と秀が何か面白い事があるのかと、興味津々に耳を傾ける。 「この俺が、あいつを落としてやる」 目を丸くした陸と、くっくっと喉を鳴らして笑う秀。和弥は子悪魔のような笑みを深める。 全国トップの学力、稀に見る端整された容姿、そして背後に日本最大企業の力を持つ転校生を、自分の虜にすれば、今まで味わった事がない優越感を得る事が出来るだろう。想像すると、セックスに似た快感が背筋に走った。 「どうだ、やるか。掛け金は100万からだ」 「じゃあ、俺は転校生が落ちる方に200万」 秀が先頭になって躊躇いなく金額を言うと、他のメンバーも次々と賭けに乗る。 殆どが転校生が落ちる方に賭けると、和弥は当然のように得意げに喉を鳴らすが、陸が「それだと面白くないなあ」と呟く。 振り向く和弥に、陸は王子様のような素敵な笑顔で囁く。 「君が今加君に落ちる方に、500万賭けるよ」 抜け出せないほどの沼にね。 図書室で本を読んでいた転校生を見つけて、和弥は女が泣いて喜びそうな自慢の笑顔で声をかけた。 「今加、この前の実力試験の結果が出たよ。君、すごいな。1位だったよ」 「……」 少し高めの声で話し掛けたのに、振り返った無表情に和弥は顔を引き攣りそうになった。この自分がわざわざ声を掛けているのに、嬉しそうにしろ、そう腹の中で吐き捨てる。 無言の、射抜くような鋭い眼差しに、思わず居心地悪そうに視線を逸らした。 「何か、用か」 初めて聞いた声は、よく通っていて心地よいが、どこか聞いた事がある感じがした。 「この学校に、もう慣れた?困っている事とかあったら、何でも言ってよ」 「……」 目を細くして和弥を見上げた瞳に、賭けがバレそうで一瞬、額に汗が滲んだ。バレるはずがないのに。 「今度の金曜日の夜に、俺の家でパーティーをするんだけど、良かったら来ないか」 「何で」 「…な、なんでって、友達も出来るしさ」 困ったように答えた和弥の言葉に、男が自嘲した。どこか皮肉めいた笑みに和弥がムッとすると、まるで全てお見通しと言わんばかりの眼差しで見つめ返される。色が薄い瞳に吸い込まれそうになる自分を隠すように、和弥は睨み返した。 「君は友達欲しくないのか。いつも一人でいるみたいだけど」 「外見だけの友達は欲しいと思わない」 「…っ」 まるで自分の仲間を指している様で、かっとなった。なんだ、この男は。ちょっと優しく声をかけたら、いい気になりやがって。 普段なら、直ぐにでも仲間と共に苛めて学園から追い出すのだが、何しろ、今、1千万円近い賭け事をしている。金は別に良いが、自分が負けたなど、絶対にお断りだ。「今加は、和弥の好みのタイプだろ?」そう笑った幼馴染みの陸の吠え面をかかせたい。 「良いだろ、なあ、来いよ。きっと楽し───」 もう用はないと言わんばかりに机に向かう男に、ムキになって肩を掴もうとした時、バシッと強い力で振り払われた。目を丸くした和弥は呆然となった。拒絶された事に気が付くまで、数秒の時間を強いられた。 「俺に触るな」 氷点下より低い声に、和弥は怒りを忘れて固まった。 「あんただけには、絶対に触れられたくない」 「ざけんなっ!」 図書室にいる全員が振り返る程の迫力で、切れた和弥が怒鳴り返した。 「なんだよっ!人がちょっとやさしくすれば、いい気になりやがって」 怒鳴り散らす和弥は頭に血が上って、殆ど周りが見えていない。短い溜め息をすると、男は本を閉じて立ち上がった。 「待てよっ!無視すんなっ」 追いかけた和弥が再び肩に触れた時、全身全霊で乱暴に振り払われた。そこまで拒絶される理由が見当たらない和弥は、悔しさに下唇を噛んで男を睨みつけた。 振り払われた右手が痛い 「───今度、俺に触れたら、あんたを殴る」 吐き捨てると、屈辱に真っ赤になった和弥に目もくれずに図書室を出た。残された和弥はギリっと奥歯を強く噛んだ。 噂はあっと言う間に広がり、人を揶揄るのが好きな秀が和弥の席にやって来た。 「お前の美貌に靡かない人間が、この世にいるなんて、驚きだな」 「そのうざい顔を退けろ。俺は生憎、機嫌が良くなんだ」 「おいおい、そんなカッカするなよ。もう、賭けをやめるか。今なら、なしに出来るけど」 挑戦的な言い方に、和弥はムッとする。 「ざけんな。まだ始まったばかりだろうが」 見てろ、そう言い捨てた和弥のわかりやすい性格に、秀は可笑しそうに大声で笑った。 「やっぱ、お前って可愛いな。お前の尻に俺のモノをぶち込みたいわ。マジで」 「気持ち悪い」 機嫌が宜しくない和弥は、更に怒鳴り返す。悔しい事があると爪を噛む癖がある和弥は爪を噛みながら、図書室でのいざこざなどなかったように清ました表情で席で本を読んでいる転校生を睨んだ。 絶対に落としてみる 自分が欲しくって狂いそうな程、求めさせてやる。そして、ゴミ同然に捨てて、惨めな思いをさせてやる。 不気味な笑みを浮かべた和弥に、肩を軽く竦めて秀は自分の席に戻った。 +++ 夕方、和弥は愛犬と散歩に出掛けたが、学校でのモヤモヤした気持ちを引き摺って歩いていると、知らない街に辿り着いてしまった。溜息を付いて、途中の公園のベンチに座る。走り回っている愛犬を眺めながら、ふとあの男の事を考える。 絶対に認めたくないが、あの男は最初から自分を嫌っているのではないだろうか。鋭利な眼差しは、言葉では言い表せない程冷めた感情が潜んでいる。 ───どこかで…… 幻想の中、男の背中に問い掛けるが、男は決して振り返らない。 イライラした和弥は、ちっと舌打する。このままでは、自分が賭けに負けてしまう。それだけはプライドが許さない。 「……あれ?」 物思いに耽ていた和弥は、いつの間にか、愛犬がいなくなった事に気が付いた。慌てて辺りを探すと、少し離れた公園の西側のベンチに座っている男の周りを、愛犬がウロウロしていた。 何も考えずに近づくと、ベンチに座っていた男が愛犬の顎を撫でていた。夕日の反射でよく前が見えない。 目を細めて男をじっと見つめると、和弥は驚きに声をあげそうになった。 イマカ 声に出さずに口だけ動かして名を呼ぶと、和弥はその風景に魅入られた。 真っ赤な美しい光を浴びている男は、和弥の愛犬に顔をペロペロと舐められながら、小さく笑っていた。初めてみるその笑顔に、和弥はわけも解らなく動揺した。あの夜と同じ… どこかで、どこかで見た事がある眼差し─── ワンっ、突然和弥に気づいた愛犬が吠えた。しまったと思った時には、すでに男が驚いたように振り返った後だった。 見つかってしまった事に、かっと顔を真っ赤にした和弥が俯くと、男は無言でベンチから腰を浮かせ、上着を取ってその場を立ち去ろうとする。 思わず、理由もなく「待てよ」と引き止めてしまった。男は足は止めたが、振り返らない。 「───俺達、どこかで会った事ないか」 「……」 背中を向けられているので、男の表情はわからないが、和弥はどこか確信したように聞いた。 「俺、お前をどこかで見た事がある気が…───あ!」 頭の中で、男と初めて会った時から感じた疑問が一本の線に繋がった。 「お前、昔、森の中で泣いていた奴だろっ」 「───」 千切れんばかり目を見開いた男は、言葉を失ったように固まっている。男の前に回りこんで、和弥は、信じられないと繰り返し喜んだ。 「俺だよ。俺!お前が森の中で泣いていた時に会った奴だよ」 「……」 「すごい、偶然だよ」 興奮した和弥は奇跡のような再会に、胸が熱くなった。 幼い頃、隣の県に家族とハイキングに来た和弥は、森の中で、微かに奥から泣き声が聞こえた。 小鳥のような美しい鳴き声に攣られて、怖い筈なのに、更に深く入ってしまい、父親と逸れた和弥が見つけたのは、『オバケ』やバケモノではなく、言葉を失う程の美しい『妖精』だった。 あれから、10年近く経つが、まさか、こんな形で再会すると思ってもみなかった。 森の奥で出会った『妖精』が、『イマカミキ』なのだ。 間違いない。その澄んだ、真摯な瞳は、10年前と変わらない。 「俺だよ!俺!凄いよ!まさか、お前に再会出来ると思わなかったよ」 図書室での諍い等なかったように、再会を喜ぶ和弥を男がじっと見つめる。 「ずっとお前に会いたかったんだよ」 和弥は素直に喜んだ。初めて会った時から、和弥は森で出会った『妖精』を忘れる事が出来なかった。おとぎ話に登場するような美しい『妖精』。この世と思えない美しさで、幼い和弥の胸を恋という矢で打ち抜く。『妖精』は、和弥の初恋だった。 しかし、喜ぶ自分とは対象的に、男は黙り込んでいる。 もしかして、昔のことを忘れてしまったのだろうか。 心配になった時、突然、男が声に出して笑い出した。驚いた和弥は唖然となるが、男の、どこか皮肉めいた笑いは止まらない。 「あんたって、本当に最低な人間だな」 低い声と共に、鋭い怒りに豹変した眼差しに、一瞬で笑みが消えた。 「───」 「まだ、俺の事がわからないのか」 「え」 わけがわからない、動揺した和弥の前で、男は突然シャツを脱ぎ出した。夕日の光に照らされた左腕にあるのは…火傷のような痕─── 「……火傷の痕…?」 「ここだけは酷くて消えなかった」 「え」 まさか、見る見る真っ青になった和弥を、可笑しそうに笑う。 「ミキ、その名前を聞いても気がつかないなんて。まあ、あんたは俺の事をバケモノと呼んでいたからな」 「まさか…お前」 ガクガクと膝が震え、今にも地面に腰が着きそうになった和弥は一歩と離れる。異常な程額に汗が滲み、信じられない事実に、和弥は頭が真っ白になる。 男は右手で己の顔の左半分を隠すと、まるで造り物のような感情が篭っていない右目で和弥を見つめる。 その姿に、4年前の醜い火傷痕に覆われていた義理弟の影と重なる。 ひっと悲鳴をあげそうになった和弥は思わず、地面に腰を着いた。 近づいてくる男が、和弥の中で『妖精』から『悪魔』に変わった。 殺されるのでは、と恐怖で叫びそうになったが、男は憎しみに染まった瞳を苦しそうに閉じただけで、近づかない。 眉間に皺を寄せ、拳を握り締める姿は、泣いているようだった。突然の豹変に、和弥は千切れんばかりに目を見開く。 ───れると思っていたのに 「…え?」 何かを言われた気がしたが、聞き取る事が出来なかった。目を見開いたまま顔を上げると、表現がしようがない程の悲しい表情に、息が詰まった。 やがて、長い沈黙の後、男…───義理弟だった幹は踵を返して歩き出す。 その背中が微かに震えていた事に、和弥は気が付かない。 早朝から、理事長室で怒鳴り声が響き渡る。 「何故、あいつを退学にしないのですか!?」 興奮した和弥は自分の感情をコントロールが出来ない。 「和弥君、落ち着いて下さい」 焦っている理事長の机を片手で叩きつけると、鋭く睨みつける。 「要求を引き受けてくれないなら、父に言って、援助を打ち切りますよ」 脅迫と変わらない言葉に、理事長は真っ青になる。 「しかし…『今加幹』と言う生徒は今加グループの身内、もし突然退学なんかになれば、今加グループは黙ってはいませんよ」 貴方も知っているはずです、今加グループを敵に回すことがどれ程恐ろしいのか、そう念を押す理事長に、和弥はイラついたように舌打ちした。 このままでは埒があかない。 「もういいです」 「和弥君っ」 機嫌を損ねた、真っ青になった理事長が慌てて引き止めるが、和弥は乱暴にドアを閉めて出て行った。理事長室を出た階段の踊り場で、秀が無表情で待っていた。 「だから、言っただろ。今加グループを敵にする度胸なんて、誰も持ってねえ」 「うるさいっ」 怒鳴りつけた和弥は、ぎりっと歯を鳴らす。 理解している。誰もが今加グループを恐れて、今加に…いや、幹に手を出す事を躊躇っている。 昨日、今加幹が義理弟だったバケモノと同一人物だと判明してから、和弥は恐怖に眠れぬ夜を過ごした。勿論、復讐を恐れているからだ。 どうにか、和弥の世界から追い出そうとしても、昔と違い、幹の背後には巨大な力が顔を覗かせている。 今加グループだ。 海運、重工業、金融などの分野で大きな影響力を持つ日本最大の企業グループだ。日本を支えるコアの技術を全てを握っている財閥出身の今加グループは、アメリカの政治界にも権力を浸透させている。 今加グループを敵に回すと、どんな目に遭うか。 公開はされてはいないが、近年、今加グループはで最大大手の開発事業者を倒産寸前まで追い詰めた。高宮グループの幹部の一人が会議中に心臓発作で死亡、カリスマ営業者として有名だった会長までを自殺に追い込んだ。 何故、高宮グループを潰そうとしたのか、未だに謎だが、その事件は、今加グループの恐ろしさを他の企業に思い知らせたものだった。 メディアのドンと呼ばれている和弥の父親も、今加グループ相手では、なかなか手が出せないのだ。 その今加グループがバックにいると、誰も幹に手出し出来ない。 「あいつが、まさか、あのバケモノだなんて、未だに信じられないな」 秀は少し眉間に皺を寄せて呟き、手元にある身分調査の書類を捲る。 「4年前、雪が降る夜に、道端で倒れていた坂井幹を、今加グループの跡取りが助けた───」 報告書を読む秀の言葉に、和弥がぴくりと反応する。 「雪が降る夜?」 「ああ」 確か、父親が幹と義理母親の綾を追い出した日は、同じように雪が降って 「母親は?あいつの母親は」 「ちょっと、待てよ。……母親はその時に既に死んでいる」 「!!」 衝撃に和弥は目を見開いた。まさか、あの時、苦しそうに胸を抑えていたのは…演技ではなく───和弥は絶句してしまった。 「どうした、顔が真っ青だぞ」 「死んだ原因は」 震えた声で、必至に訊ねる。 「原因ははっきりしてないけど、血を吐いて死んだらしい。…和弥、おい、大丈夫か?」 突然吐き気が襲ってきた和弥が手で口元を抑えると、秀が慌てるように肩を抱いてきた。夏なのに、震えが止まらない。 ───美しい『妖精』は、昔バケモノと呼んでいた義理弟だった。

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