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第4章
「幹っ」
懐かしい声に振り返ると、昔の友人の大藤祥一がいた。驚いた今加幹が声を発する前に、攫われるように抱き締められた。骨を砕く程の力強さ───その心地良さに、懐旧の情に駆られる。
「やっぱ、お前だった。お前だったんだな」
興奮している祥一は、ただ幹の名を繰り返す事しか出来ない。
「俺がわかるのか…?」
「あたり前だろっ」
「祥一」
見ている方が泣きたくなる程、祥一の表情に悲哀が滲み出ている。堪らなくなって、幹は祥一の肩口に顔を埋める。
火傷の痕がなくなっただけで、誰もバケモノと呼ばなくなった。中身は同じなのに。
自分は一体、何だろうか。バケモノなのか、人間なのか、わからない。
汚穢を扱うように接して来た人間が、今では愛敬を振り撒いて握手を求めてくる。触れてくる。
醜いと人権は無視され、美しいと重宝される、冷たく───残酷な現実が容赦なく幹を傷つける。
だけど、祥一だけがその残酷な世界から幹を救う。どんな姿になっても、幹を見つけ出す。
胸が締め付けられるような切なさに、目に見えない涙が零れる。
「…祥一」
「まさか、お前がここに戻ってくると思ってなかったよ」
泣きそうな顔で祥一は笑った。
4年前、突然姿を消した幹を心配して、祥一は和弥のクラスに乗り込んで問い詰めたが、和弥は平然と「親は離婚したから知らない」と言い放った。
その時、和弥が何かを仕組んだと確信した。糸がプッツンと切れて、祥一は和弥を殴った。結局、教師や片岡秀に押さえ込まれたが、最後まで、祥一は狂ったように和弥を罵倒した。
絶対に父親の力を借りたくなかった祥一だったが、最後には頭を下げて幹の行方を追って貰った。だけど、結局は見つけ出す事が出来なかった。
「───なんで戻ってきたんだ」
残酷な世界に、何故自ら戻ってきた
「お前が…お前がいたから、ここに戻ろうと思った」
俯いて答えたが、想いは確かに祥一に通じた。
「嬉しいことを言うんじゃねえよ」
乱暴な口調と裏腹に、祥一は優しく再び幹を抱き寄せた。その腕が微かに震えている事に、幹は目を閉じながら気が付いていた。
4年前、幹が消えた後、子供ゆえ無力な祥一は、結局、親の反対に屈して同じ学園の高等部に進んだ。幼い幹を嬲り殺したこの学園に、日々、増悪が増していく。そんな時に英国に短気留学する話が転がり込み、祥一は躊躇いなくそれを受けた。
出来る事なら、幹がいない学園には戻りたくなかった。
そして、1年程度の短い留学を終えて戻ってきたのが、先週だった。
権力と美しいモノが好きな同級生達が、熱心に転校生について噂をしていたが、祥一は大して気に止めなかった。
だけど、偶然、目の前でその転校生が通り過ぎた。痛い程懐かしいその横顔に、祥一は躊躇いなくその名を叫んだ。
幹
無我夢中に抱き締めた相手は、この4年間忘れた事がなかった友人だった。
「火傷の痕、取ったんだな」
屋上で壁に凭れながら、祥一は相変わらず躊躇いなく聞く。
「本当は、別にこの痕はどうでも良かったんだけど…確かめたい事があったんだ」
「確かめたい事?」
「───」
黙り込む友人の顔を、祥一が覗き込む。
「もう、確かめたから、いい」
悲しそうに笑う幹に、祥一は眉間に皺を寄せた。
「お前、今加グループの養子になったと聞いたけど」
「今加グループと言うより、あの人の養子になっただけなんだ」
「あの人?」
「俺の命を救ってくれた人。凄く、大切な人なんだ」
命の恩人を思い出したのか、幹は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「…へえ、お前のそんな顔、初めてみた」
「そうかな」
突然の祥一の言葉に、可笑しそうに笑うと、幹は「今度、紹介する」と言った。
「今、あの人達は日本にいないんだ。帰って来たら、一緒に食事に行こう」
「ああ。楽しみにしているから、忘れるなよ」
眩しい程の笑顔を見せると、祥一はくしゃりと幹の髪を掬う。
+++
最悪なタイミングで、天敵の大藤祥一が短期留学から戻ってきた。
自分と違い、見た瞬間にバケモノと呼ばれていた『菊池幹』が『今加幹』だと気が付いた。
火傷の痕があった頃の幹は、無意識に目を逸らす程醜かったのに、その痕がなくなった今は、まるで幼虫が蝶に化けるような、言葉を失う程の美貌が浮き出る。
その醜さと美しさのギャップが激し過ぎて、名前が同じでも、二人が同一人物だなんて、誰が気が付くのだろうか。
なのに、祥一は気が付いた。
どんな姿になっても、必ず幹を見つけ出す男。
甘い誉め言葉や贈り物を送っても、幹は全てを拒絶するが、祥一だけには笑顔を見せる。
昔、森の中で見た、透き通った笑顔を祥一が独占している。
自分のものだった妖精が、腕からすっと逃げて行くような感覚だった。
「お前、まだ調子悪いのか、顔色、悪いぞ」
短い休み時間、教室移動をしながら、片岡秀が心配そうに顔を覗き込んできた。
「…ほっとい───」
うざい秀を手で振り払うと、ふと目の前を歩く幹の後ろ姿が見えた。表情を強張らせた和弥と違い、ニヤリとした秀が突然幹を追いかける。
「っ、秀っ!」
驚いた和弥の制止を無視して、秀は歩く幹の前を塞ぐように回り込む。
「よっ、俺のこと、覚えている?」
「───」
足を止めた幹を、秀は見蔑げた眼差しでジロジロと眺めると、ポリポリと頭を掻き出す。
「お前、すげえな。その顔、整形か」
周囲の人も足を止めて幹と秀に注目する。道徳観を持たない秀は、公衆の前で平然と幹を侮辱する。
「その整形外科医を紹介してくれない?俺の彼女も、整形に興味あってさ」
おっぱいの方だけど、と揶揄う。
「おい、秀」
これ以上、幹に関わりたくない和弥が秀の腕を掴んで連れて行こうとした時、静かに幹が顔を上げた。その無表情に、秀が起用に片方だけ眉毛を上げる。幹の感情が見えない。
短い沈黙の後、秀がとんでもない事を言い出した。
「お前、今加雪隆の養子なんだろ」
和弥が思わず振り返ると、初めて幹がぴくりと反応を示した。
「俺、今加雪隆を見たことあるけど、信じられねえぐらいのバケモノ級の美貌だよな」
だから、その男は、自分の躰を使って今加グループの会長を誑かし、会長の"本物"の跡取り息子を殺して跡取りになったんだろ。そう断言する秀を、幹は瞬きせずに見る。
「……」
「邪魔な相手は平然と、家族ごと消す───人殺しじゃねえか」
滅多に姿を現さない相手でも情報を持つ秀に、和弥は舌を巻く。
和弥もその男について多少知っている。今加グループの跡取でありながら、決して表舞台に現われず、裏で全てをコントロールする男。今加グループの会長には血の繋がった一人息子がいたが、今加雪隆が登場すると同時に、行方不明となっている。
今加雪隆が有名なのは、その冷酷さである。
邪魔をする者を躊躇いなく社会から抹消する冷酷さと、凶悪と思える程の容姿の美しさから今加雪隆は堕天使と称えられていた。
人を殺しても、決して警察に捕まらない、その権力。
「もしかして、その顔は、養父 の好みなのか」
執拗に嗤う秀を、幹がゾッとするほどの暗い瞳で見上げ、ゆっくりと右手で左顔を覆う。その不自然な仕草に、和弥は微かな危機感を憶えた。
「抱かれているのか?それとも、お前が抱いてい…っくっ!」
「秀っ」
ドンっ
和弥の制止の声と激しい物音が重なった後、しーんと辺りが沈み返った。目を見開いた和弥が見たのは、長身である秀の首を右手で掴んでいる幹の姿だった。
「っく……離せ…はな…っ!」
息が出来ない秀が顔を真っ赤にして、幹の右手を外そうとするが、ぴくりともしない。信じられない力だ。愕然とした和弥は、助ける事も忘れ固まる。
「もう一度、あの人を侮辱してみろ」
ただ事ならぬ殺気を身から噴出して睨みつける幹に、秀さえビクリとする。どんな暴力や嫌がらせを受けても、決して感情を見せた事がなかったのに───
どれほど養父を大切にしているか、一目瞭然だった。
初めて見た幹の激情に呆然としていると、秀が足をバタバタさせて助けを求める。はっとなって助けようとした時
「もう、許してあげてよ」
緊迫した雰囲気にそぐわない声で、安田陸がひょこと登場する。王子様のような眩しい笑顔で、陸は幹の右手を掴む。
「離してくれると嬉しいなー。このままだと窒息死しそうだよ。大好きな養父が学校に呼び出されることになってもいいのかな」
腰は柔らかいが、何を考えているのかわからない陸の笑顔に、幹は秀の首を掴んでいた右手を離す。廊下にずれ落ちるように、秀が咳き込んだ。首にくっきりと残っている手の型に、秀は下唇を噛んで幹を睨み上げる。
「てめえ…」
殴り掛かりそうな雰囲気に、陸が仲に割って入った。
「今加グループと戦っても勝ち目なんかないよ。もう行こうよ」
それに、男の嫉妬は醜いよ、秀にだけ聞こえるように小さく囁く。
「…くそっ」
舌打ちした秀の腕を掴むと、陸は「またね」とウィンクして幹の隣を通り過ぎる。和弥も慌ててその後に続く。
通り過ぎる瞬間、和弥はちらりとその綺麗な、幹の横顔を見た。
+++
和弥が始めて『妖精』に出合ったのは、8歳の頃だった。夏に父親と山登りに出掛けた和弥は、休憩中に森の奥から微かな泣き声が聞こえた。父親にそれを伝えようとしたが、父親は誰かと電話中だった。
小さな泣き声は、とても澄んだ綺麗な声だった。まるで、魔法にかけられたように和弥は無意識に森の中へ入った。薄暗く不気味な森が怖くなって泣きそうになったが、小鳥のような美しい泣き声に引き寄せられて歩き続けると、両膝を抱き掛けながら泣いている子供がいた。
───君は誰?
和弥が声をかけると、ゆっくりと子供は顔を上げた。大きい涙粒で頬を濡らしながら見上げる顔に、幼い和弥は衝撃を受けた。
───妖精
人間離れした美しい容姿と妖艶な雰囲気は、『妖精』としか言い様がない。『妖精』でないなら『妖姫』か。惚れ惚れした和弥が仄かに頬を赤くして、近づく。
───どこか、痛いの?怪我したの?
一目惚れした和弥が優しく訊ねると、『妖精』は小さく顔を横に振るだけで何も答えない。止まる事を知らない涙が頬をつたう。
悲しまないで
あんまりにも可哀想で和弥は思わず『妖精』の頭を撫でた。驚いた『妖精』が顔を上げると、和弥は照れながら不器用に笑った。
───昔、僕が悲しい時、いつもママがこうして頭を撫でてくれたから
───…
───君にはママいるの?
こくりと『妖精』が頷く。
───いいなあ。僕のママはもう死んじゃったんだ
───…死んだの?
初めて聞いた『妖精』の声は、透明感がある音色だった。
───病気で死んじゃった
───悲しかった…?
───うん。ママが一番好きだったから
1年前に亡くなった母親を思い出して、今度は和弥の方が泣いてしまった。ぽろぽろ泣く和弥を見て涙が止まったのか、『妖精』はお返しと言わんばかりに頭を撫でてきた。
その優しい仕草が心の奥の何かに触れてしまい、慰めていたはずの自分が、最後には号泣してしまった。
深く薄暗い森の中で、二人は寄り添うように泣いていた。
夕日が沈み、月の光だけに照らされた森の中、不思議と和弥は怖がらなかった。隣に『妖精』がいるからだ。透き通る笑顔が、和弥の中から恐怖を消し去る。
───見て、蛍だよ
少し元気になった『妖精』が笑った。辺り一面に小さい光が揺れている。幻想的な情景に、和弥は感動に似た衝撃を受けた。
───僕、初めて蛍を見たよ。東京では見ることが出来ないんだよ
はしゃぎながら和弥は辺りを見渡す。夢幻的な景色が、とても似合う『妖精』も両手を広げて楽しむ。
それから、二人は冒険に出かける探偵のように、蛍と共に森の中を歩いた。
静かに流れる小川。風に揺れる葉。舞い上がる蛍の光。優しい光を照らす月。
こんな楽しい事があるのだろうか。
手を繋ぎながら、二人は決して現実では味わえない感動を満悦する。
───あ、そうだ。僕、チョコレート持っているから、半分あげるよ
自分の物を一度も他人に譲った事がない和弥が、ポケットからチョコレート菓子を取り出した。勿論、二人とも夕食を食べていない。
───いいの?君もお腹空いているんじゃないの?
首を傾げる『妖精』が可愛い。和弥は照れながらそれを半分に割った。
───友達になったしるしだよ
───…友達
戸惑うような口調に、和弥は深く頷いた。
───友達!
笑顔一杯で宣言すると、見る見る『妖精』の表情に輝く程の笑顔が現われた。
───うん。有難う
強く手を握ってくる『妖精』に、和弥は嬉しそうに笑いかける。
僕は決して忘れないよ。
君と、君と過ごしたこの時間は───僕だけの宝物だから
数年後、『妖精』はバケモノに姿を変えて、再び和弥の前に現われたが、最後まで和弥はそれに気が付かなかった。
+++
人間、簡単に落ちるもんだと、和弥は他人事のように思った。
それは、ある日、前触れもなく突然やって来る。
突然、家にやって来た東京地検特捜部に父親の菊池和彦が任意同行で連れて行かれた。パニックになる和弥が、警察官に連行される父親に追い縋ると、父親は「すまない」と短い言葉だけを残してパトカーに乗った。
訳が判らない和弥が玄関前で泣いた時、何かが白く光った。辺りを見渡すと、広い屋敷を囲む大勢のカメラマンや新聞記者が囲んでいた。
フラッシュの嵐。
夢境を彷徨うような感覚だった。
去年の五輪・パラリンピックの運営業務をめぐる談合事件で、広告最大手の複数の法人と、各社と大会組織委員会の複数の幹部が刑事告発された。発注側の組織委と受注側の広告業界などが一体となって受注調整をした容疑で、日本メディア・コンテンツグループの会長である和彦は、中心人物と見なされた。自宅の捜査を始め、巨大企業の本社も強制捜査となり、日本歴史上最大の談合事件として、日本列島を揺らした。
その日を境に、和弥の環境は一変した。
スキャンダルを起こした菊池家は社交界から弾き出され、孤立してしまった。勿論、家の名で結びついている同級生達の態度も変わる。トップから転げ落ちた人間を、この世界では誰も相手にはしない。
教師達もわかりやすい程豹変し、平然と公共の前で和弥を侮罵するようになる。犯罪者の子供として侮辱される日々が続く。
───負け犬となってしまった和弥に、誰も魅力を感じなくなった。
日本中が揺れた前代未聞の談合事件の熱が冷めぬ12月。大藤祥一は今加幹と初めて外で映画を一緒に見に行った。あの談合事件から、気のせいか、幹は更に無口になった。
「お前、最近、よく考え込むようになったな」
映画の後、近くのコーヒーチェーン店でカフェラテを飲みながら、祥一は話を切り出した。
「別に…」
「お前、お人好しにも程があるぞ」
怒ったような口調に幹が顔を上げると、祥一は長い溜め息を着いた。
「普通の奴なら、和弥をざまあみろ、と笑う所だろ。なのに、何でお前がそんな傷ついた顔をしているんだよ。おかしいだろ」
そうなのだ。散々非情で冷徹な事をして来た和弥の環境の豹変に、幹は優越感で笑っているわけでもなく、まったくのその逆で、幹自身が傷ついている節がある。
「あいつは殺されても文句言えねえことを、沢山やってきたんだよ。あれは、間違いなく天罰だ」
「……」
何も答えない幹の髪の毛を手で掬う。絹のような滑らかな髪の毛が、指先に心地よい。
「お前は、きっと、俺の顔が半分潰れても、俺だと見分ける」
「はあ?」
「あいつはきっと、そんな事出来ない。…でも、深い森にいた俺を見つけたのは」
あいつなんだ
静かに笑う幹を見て、祥一は大きく目を見開く。
「もう、帰るよ。今日は、楽しかった。またな」
立ち上がって去る友人を、祥一は引き止めなかった。引き止めても意味がないとわかっているからだ。───幹は、まだ深い森の中にいる。
+++
公園のベンチに倒れながら、夜空を見上げた。息を吐くと白い煙が見える、凍えた夜。
去年の11月に父親の和彦が逮捕されてから、和弥の人生は狂い出した。
和弥の言いなりだった教師と同級生達が、一変して態度を変え無視や嫌がらせを始めた。今までの和弥がやったように、多人数で一人を更に暴力と罵倒で痛み付ける。死にたくなる程の侮辱に堪えられなくなって、発作的に和弥は学校を飛び出した。
帰らずに街をフラフラしていると、お金の匂いさせた大人の女に声かけられた。その時に、自分にはまだ、この美貌があるんだと気が付いた。
ただ、セックスするだけで食べ物やお金を与えられる…侮辱的な、女に飼われた生活を和弥は数ヶ月間繰り返していた。自暴自棄になっている和弥は、もう誇り高き自分を忘れてしまっている。
だが、ある日、街で怪しい外国人に勧められて、薬物 に手を出してしまった。一度手を出ししてしまうと、後は破滅の道を転がり落ちるだけだった。
女のお金を勝手に盗んでは、薬物を買う。怒った女に追い出され、別の相手を探す。
繰り返される悪循環は、最後の砦である和弥の美貌も蝕んで行く。
そして、辿り着いた破滅の底は、暗闇の公園だった。
頬が窶れ、目元が青黒くなった和弥は、まるで幽霊のようで誰も買わなくなった。薬物の影響で手足が震えている自分は、もう虫以下だと思う。だけど、そんな惨めな自分を嘆く前に、薬物は和弥を幸せにする。見たい夢や幻想を与えてくれる。
君は今、どこにいるんだろうか
美しく純粋な君は、きっともう、僕に振り返らない。僕の手から掏り抜けて飛んで行く君を、僕はもう捕らえる事が出来ない。
一滴の涙が零れる。ゆっくりと和弥は目を閉じた。
あの日、君も凍える夜に震えていたのだろうか。
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