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第5章

───温かい 毛布に顔を押し付けながら、菊池和弥は呟いた。硬いコンクリートではない、柔らかな感触が気持ち良い。寒威凛冽たる風雪に凍えていた体が、今では心地好げにほんのり上昇している。 子供のように深く枕に顔を埋めると、寝惚けたまま薄っすらと目を開く。 その時、黒い影が視界を横切った。 もしかして、金を盗まれた女が追い駆けて来たのだろうか。パッと目を見開いて和弥は勢い良く上半身を起した。 「……え?」 逃げようとベットから降りたが、辺りは見知らぬ風景。広々とした寝室だが、ベットと本棚以外何もない。一体、自分はどこにいるんだ。頭が混乱したまま、呆然と立っていると、和弥はふと自分が腕時計をしていないことに気が付いて青くなる。見回して探すと、ベットのサイドテーブルに和弥の腕時計が丁寧に置かれていた。 胸を撫で下ろして腕時計を付けると、隣の部屋から湯が沸騰する音が聞えた。びくびくと隠れながら隣の部屋を覗き込むと、台所に男が立っていた。 ドンっ、不意に腕がドアにぶつかってしまい、物音に気付いた男が振り返った。視線が合った瞬間、和弥は金縛りに遭ったように動けなくなった。うるさい程、動悸が鳴る。 「……み…き」 何故、ここに義理の弟だった今加幹がいるのか、疑問を持つより、幹が目の前にいる事態、非現実的で夢境にいるような感覚だった。 余程衝撃的だったのか、和弥は目を見開いたまま、ぴくりともしない。 最初に沈黙を破ったのは、幹の方だった。 「朝ご飯、食べるだろ」 「───」 黙り込む和弥をちらっと見ると、幹は二人分の朝食が準備されているテーブルに着き、淡々と食事を始めた。相手の意図が理解出来ない和弥は、ゆっくりと下唇を噛んだ。 「……俺に同情して、助けたつもりかよ」 自分が幹に"拾われた"と、漸く気が付いた和弥は、屈辱に絞り出すように吐き捨てたが、幹は食事の手を止めない。顔も上げない。自分を見ようとしない。 馬鹿にしている 爪が肉に食い込む程、拳を握り締めた。 自分はもう、数ヶ月前と違う。今の自分は、幽霊のように窶れ、醜くなった。女の金を盗み、最後には暗闇の公園に横になる惨めな自分を、幹だけには知られたくなかった。 悔しい。 幹はどうだろう。美しい美貌を覆っていた火傷の痕がすべて消え、今加グループと言う最強の権力が付いた今、大勢の人間が幹の周りに群がる。トップから転げ落ちた自分とは、全くの正反対だ。 嫉妬は、幹が全ての原因という錯覚を作り出す。 「答えろよっ!本当は心の中で笑っているんだろっ!」 無言で食事をする幹に、かっと頭に血が昇った。反射的にテーブルの上にある全ての物を、腕で振り払った。ガラスや食器が割れる激しい音が、部屋中に響き渡る。 「人を馬鹿にするのも、大概にしろよっ!」 唾が飛ぶ程、怒鳴りつけた。緊迫した雰囲気の中、ゆっくりと箸を下ろすと、射抜くような眼差しで幹が顔を上げた。 「あんたは弱すぎる」 「!!」 かっとなった和弥は、乱暴に幹の襟元を持ち上げた。 「何が言いたいんだよっ」 「あんたは地獄の底を見たと、自分でそう思っているけど、地獄の底はそんなに優しいもんじゃない。あんたに同情をしているのは、あんた自身だ」 「てめえに、俺の何がわかるんだよっ!」 激昂して顔を殴り付けたのに、幹は避けようともしない。余計に神経が逆撫でされた。 「てめえっ───!」 「もう少し、強くなれよ。あんた」 再び拳を上げた和弥がビクッと反応した隙に、幹は乱暴に和弥の手を振り払った。 「あと、その短気な性格も直せよ」 憮然と言い放つと、幹はポケットから鍵を取り出しテーブルの上に置いた。 「出て行くなら、鍵を閉めてポストの中に入れてくれ」 「……っ!」 残ろうが、出て行こうが、興味ないと言わんばかりの態度に、和弥は悔しくなった。 「ああ!出て行くさ!誰がてめえの家にいるかっ!」 喚く和弥に一切振り返らずに、幹は立ち上がって部屋を出た。ドアが閉まる音が聞えた時、腹の虫が治まらずにテーブルの脚を蹴った。だが、間違って割れた皿の破片を踏んでしまい、痛みに小さい悲鳴を上げた。 言われた言葉が、ガンガンと頭を殴るように甦る。 悔しい。悔しくって、腹が立って。 下唇を強く噛み締めた時、ふと床に散らかっている食べ物が気になった。じっとそれを見つめていると、少しずつ冷静さが戻ってきた。───もしかして、幹が作ったのだろうか。自分の為に…… 「まさか」 はっと喉で笑って否定する。今の幹は昔と違う。今加グループの養子だ。家政婦に作らせたに違いない。 震える指でそっと食べ物の粕を拾うと、口の中に入れた。家政婦が作ったには、薄味過ぎる。 不意に、意味もわからずに涙が簡単に零れた。 小さい刺が刺さったように、胸の奥が少し───痛い。 金も美貌も全て失った自分を誰も見向きしなかったのに、何故幹は拾ったのだろうか。膝を抱え込んで、床に座り込んだ。幹の考えている事が判らない。 太陽が沈む頃、薬物の中毒症状が出始め、和弥は異常に汗を流して震えるようになった。錯覚も現われ、和弥は幹の部屋中を掻き回して、あるはずのない薬物を探した。 すると、リビングにある机の引き出しに、1万札と数枚の小銭を見つけた。 躊躇いなくそれを掴むと、鍵も閉めずにマンションを飛び出した。ハイな頭で街に出かけ、慣れた手つきで馴染みの外国人から薬を買う。悪霊に取り付かれたように勢いよく裏道に入ると、ストローを使って白い粉を鼻から吸う。 その瞬間、全ての苦しみや苛立ちから解放され、快感が体中に伝わる。陶酔感に目を閉じて、ゆっくりと目を開くと───自分は深い森の中にいた。 微かな鳥の鳴き声、涼しげな水の音が聞こえる。そして…… 舞い上がる蛍を追い駆ける妖精の姿が、見えた。 自分は何故かその妖精の名前を知っていて呼び止めると、妖精が振り返った。胸が痛む程の優しい笑顔に、和弥は溢れ出す涙を止める事が出来なかった。 ───幻想の世界に心を奪われたまま、和弥は幸せな笑みを浮かべて、汚い地面に寝込んだ。 結局、和弥に行く所なんてどこもない。だけど、幹に助けを求めるようにマンションに戻るのも、プライドの高い和弥には我慢が出来ない。幹の冷めた眼差しを見るは、堪えられない。 マンション近くの駅で降りると、和弥は改札口を出ずにホームの中のベンチに座っていた。数時間座っていると、やがて雨が降り出す。1月の雨は凍える程冷たい。 最終電車が目の前を通り過ぎた後、駅員に嫌そうな表情でホームを追い出された。どうする事も出来ずに、憂鬱な気分で俯きながら改札口を出ると、突然前を誰かに遮られた。 ムッとして顔を上げると、2本の傘を持った幹がいた。 驚いた和弥は、暫くの間、頭が真っ白になった。息の仕方も忘れたように、固まった和弥が口をパクパクさせると、すっと傘を差し出された。 「雨が降っているから」 不機嫌な声で言うと、状況を把握出来ずに呆然としている和弥に無理やり傘を押し付けた。咄嗟に受け取ってしまった和弥が声を発する前に、幹は踵を返す。 雨の中、傘を差して去って行く後ろ姿に、和弥の頭が混乱する。 もしかして、迎えに来たのか?俺を?雨が降っているから?……いつから? 戻るかわからない自分を、幹はずっと待っていたのだろうか。こんな寒い夜に─── 今まで感じた事がない感情が、激しく揺らいだ。 コントロール出来ない激しい感情に、立つ事もままにならない。 遠のく背中を見て……手が届かなくなる気がして、和弥は思わず追いかけた。だけど、届きそうになった時、伸ばした手を下ろした。 その背中は、和弥を拒絶している 昔から幹は和弥に触れられるのを何よりも嫌っていた。異常と思える程、激しい拒絶をする幹を思い出して、胸の奥が痛んだ。 そのくせに、幹は何故か、和弥に優しさを見せる。 何日も風呂に入らず、ホームレスのように公園で寝る不潔な自分を助けたり、雨が降る中、何時間も駅で待つ。矛盾した幹の行動は、切ない程和弥を苦しめる。こんな、息が出来ない程苦しくなる感情が、存在するなんて───。この感情は何だろうか。 静かに幹の背中を見つめながら、問い掛けた。 +++ 二人は第三者から見れば、奇妙な関係を続けていた。 薬物依存症にかかっている和弥は、頻繁に幹の持ち物を盗んでは売り払い、白い粉の薬物を買っていた。幹は誰かからの贈り物か、高価な持ち物を沢山持っていた。それらの高級品は使われた形跡はなく、高く売れた。 元々高級品に興味がないのか、幹は物がなくなっている事に一切気が付いていないようだった。 金が出来ると、和弥は幹のマンションには戻らず、適当に声をかけた女と一緒に過ごした。そして、金がなくなるとフラッと幹のマンションに戻り、物を盗んではまた、街に出る。そんな暮らしを1ヶ月近く繰り返していると、いつの間にか立春が過ぎていた。 幹は幹で、全く和弥に干渉しない。自分がいてもいないように、普通に生活する幹を見ていると、何だか意固地になってしまう。「二度と戻るもんか」と捨てセリフを残して出るが、結局は金がなくなってこのマンションに戻る。───全てを失っている和弥には、もうここしか戻る場所がない。 1ヶ月近く一緒に過ごすと、少しづつ幹の生活が見えてきた。国立大学入試ある2月は、自宅学習期間で登校する必要がないはずだが、幹は頻繁に出かけていた。夕方に大量の本を抱え込んで帰宅するのを見て、和弥は半ば驚いた。幹は毎日図書館で勉強していたのだ。……塾も家庭教師なしに独りで。 国立大学の医学部を受験する幹は、驚く程勉強している。初めて幹が菊池家に来た時を思い出した。幹はそれまで学校すら満足に登校できない環境に関わらず、全国でトップクラスの中高一貫校で首位の成績を取っていた。 毎日科目別の家庭教師に教えて貰っていた和弥にとって、信じ難い事だった。だが、こうして毎日勉強している幹を見ていると、何だか、納得してしまった。人の上に立つ為に勉強をしていた和弥と比べて、幹は少し違う気がした。真剣な眼差しは何かを志しているようで、少し羨ましかった。 あと、もう1つ気が付いた事がある。 昔からそうだったが、幹にはあんまり友達はいないようだ。このマンションに誰かが訪ねに来たことないし、携帯も持っていない。 酷い火傷の痕がなくなった今、美しい美貌に近づいてくる者は多数いるに違いないのに、幹は誰とも友達になろうとしない。 たまに二人が一緒に家で過ごす時も、二人の間に会話は殆どない。 自分の家のように好き勝手に過ごす和弥に、幹は何も言わない。和弥が映画を見ている傍で、幹は勉強する時もあれば、ソファに座って本を読んだりもある。 静かな時間が流れる。 時々、息詰まりを感じる時もあるけど、決して和弥は幹と過ごす静かな時間が嫌いではなかった。 ある日、ふと考える。 今まで散々酷いことをしてきた和弥を、何故、幹は助けるのだろうか。母親の死も───。 時々、もう幹が全てを許しているような錯覚に襲われる。夢想に聞きたくなる。幹の気持ちを。 「お前……俺が憎いんじゃないのか」 震えを抑える為に拳を強く握り締め、覚悟を決めて聞いた。読んでいた本を閉じると、静かに幹が顔を上げた。ガラスのような色素が薄い瞳が和弥を捕らえる。 「あんたが憎いよ。あたり前だろ」 無感情な声。 ナイフで心臓を引き裂かれたような鋭い痛みに、顔を歪めた。涙が零れそうになって慌てて俯いた。どこかで、期待していた。「もう気にしていない」と答える幹を、どこかで期待していた。考えてみれば、当然だ。存在もしない罪で母親を死なせ、幹を絶望のどん底に突き落としたのは、他でない和弥なのだ。それで忘れて貰うなんて、そんな事、有り得るはずがないのに。 なのに、自分は期待していた。 「……ああ、そうかよ。だったら、出て行ってやるよっ!誰が好き好んで、てめえの所にいるかっ!金さえあれば、誰でもいいんだよっ!」 怒鳴りつけると、和弥は幹のコートを羽織って乱暴にドアを閉めて出て行った。二度と戻ろうもんか。 そう心に誓うが、胸にぼつんと穴が空いたように虚しかった。眩しい太陽を見上げると、我慢していた涙が一滴頬を伝った。 死にたいと初めて思った。 どんな惨めな生活をしていても、恐怖心が勝って死にたいなんて一度も思わなかったのに。 優しくされると嬉しくなり、冷たくされると死にたくなる。幹の一挙一動に振り回されている自分が嫌だった。 三日間、和弥はマンションに戻らず、夜の街で知り合った女の家に転がり込んだ。痩羸して醜くなった和弥だったが、女は彼氏に浮気をされて自暴自棄になっていたからなのか、何故か、家に居させてくれた。 あんたが憎いよ 誰といても、どこにいても、幹の言葉が頭から離れない。眠れない夜を過ごしては、何で自分がこんなに振り回されるのか、わけがわからなくなっていた。ほっとけばいい。あんな暗い男、もう関わる必要はない。 そう自分に言い聞かせるが、冬の雨の中、何時間も自分を待つ男の姿を思い出して、俯いた。 やがて、和弥は後戻りが出来ない程の重度の薬物依存症になりつつあった。精神障害が出始め、意味なく喚き、笑っては怯え───正常と思えない不気味な行動に、女が怖くなって、和弥をアパートから追い出した。 再び、あの公園のベンチで寝ていた和弥は、もうまともな思考を持っていない。ふらふらと立ち上がり、近くのホテル街をゾンビのように歩くと、太った中年男が和弥に声をかけて来た。 和弥が最も嫌う太った気持ち悪い男だったが、金欲しさに男に連いて行った。厭らしく腰に触る男と一緒にホテルに入ろうとした時、何気に後ろを振り返った。 視界がぼやけていてはっきり顔まで見えないが、離れた道角で二人組みの男がいた。片方の男がじっと和弥を見つめている。 目を擦った時、もう片方の男が不思議そうに、和弥を見つめている男に声を掛けていた。 『幹、何、見ているんだよ。何かあるのか』 その名を聞いた瞬間、ハンマで頭を殴られたような衝撃だった。ぼやけていた視界が段々とクリアになる。 感情を映し出さない瞳で、和弥と、和弥の腰に手を回している男を見つめる。 カッとなって、腰を掴んでいる男の腕を振り払って顔を上げると、幹は一緒にいた男と去る。 「…っ……幹っ」 呼び止める中年男を無視して、咄嗟に幹の後を追いかけた。何度も名を呼んだのに、幹は決して振り返らない。 「幹っ!」 懸命に走るのに、ふらつく足取りでは追いつけない。人混みの中、遠のく背中を追いかける。わけもわからなく、必死に追いかける。 「幹っ!幹っ!」 絶叫した時、くらっと目眩が襲って来て道の真ん中に倒れた。通りすがりの人々が、驚いて次々と足を止める。 「……み…き」 惨めな姿。もうどうしようもない所まで落ちてしまった。 最後には君まで、見捨てられてしまった。これ以上の絶望はない気がした。 ───和弥 幻聴が聞こえる。決して和弥を名前で呼ばない幹の、透き通った声。 視線だけ上げると、眉間に皺を寄せて立っている幹が見えた。 「……み…き」 そっと頬に触れてくる冷たい指の感触に、涙が溢れ出した。どうして、こんなに簡単に涙が出てしまうのだろうか。こんな感情知らない。こんな苦しい想い、知らない。 そっと抱き上げられながら、和弥は目を閉じた。幹の胸に頬を押し付けて、幹の動悸を必死に感じ取ろうとする。 死ぬなら、今がいいと思った。 +++ 目を覚ました時、和弥はベットの上だった。再び幹の部屋に戻ったことに気がついた時、隣のリビングから話し声が聞こえた。 そっとドアに耳を押し当てて盗み聞きすると、幹が誰かと話している最中だった。気になってドアを少し開けて覗き込むと、医者らしき白衣を着た中年男がいた。 『彼は重度の薬物依存症の患者だよ。精神障害の兆しも見られるし、このままでは危険だ』 『……』 頭から血が引いていくような感覚だった。どうしよう、幹に知られてしまった。 『君はどうして、そんな危ない人物を家に置いているんだ』 『───』 医者の質問に、幹は何も答えない。 『専門の病院に連れて行って、治療した方がいい。その方が彼にとっても良いし、君にとっても安全だ。重度の依存症の患者は、何をするかわからないから本当に危険なんだ。寝ている最中に、吐物の誤嚥によって窒息死することもある。24時間目が離せないんだよ』 そう続ける医者の言葉に、和弥は真っ青になって震えた。ここを追い出される。病院に連れて行かれたら、きっとここには戻れない。下手したら、少年院行きだ。 『わかっています。すみませんが、この件は、警察にもあの人にも黙って貰えないでしょうか』 幹の頼みに、医者は少し戸惑うような声になる。 『しかし……もし、君に何かあれば、私が今加様に殺されるよ。それに、もうすぐで大学試験日だろ』 『責任は僕が持ちます。お願いです』 必死に頭を下げる幹の姿に、和弥はじわりと目元が熱くなった。困り果てた医者は、諦めたように溜め息を着く。 『わかった。君の頑固さは散々知っているからね……だけど、少しでも問題があったら、すぐに警察に電話するからね』 『はい』 『拮抗薬を出すから、これを彼に飲ませなさい。本当に彼には気を付けなさい』 『───』 『では、私はこれで失礼するよ』 『有難う御座いました』 幹が男を玄関まで見送る。暫くして寝室に戻ってくる気配を感じて、和弥は慌ててベットの中に潜り込んだ。 きっと、自分に嫌気を指している。 寝室に入ってきた幹は、そのままベットの傍まで近づく。緊張した和弥は、布団の中で息を殺した。 「起きろよ、あんた」 思わずビクッと肩を揺らしてしまった。和弥が起きていると気が付きながら、幹はそれ以上何も言わない。やがて、長い沈黙に耐え切れずに和弥が覚悟を決めて起き上がった。 「……何か用かよ」 どこまでも不遜な態度。そんな事を言いたいわけじゃないのに、口が勝手に滑る。 「もう、薬物はやめろよ。あんた、死にたいのか」 機械のような口調に、和弥はかあっとなった。 「てめえには関係ねえだろっ!」 怒鳴りながら、いつ見捨てられてもおかしくない状況に、手が震える。すると、無表情だった幹が鋭く睨み返した。背筋が凍る程の眼差しに、和弥は声を失う。 「あんたは、一体何を求めているんだ。昔のような環境が欲しいだけか」 「うるさいっ!てめえも、俺が死ねばいいと思っているんだろっ!俺が憎いんだろっ!?」 ヒステリックな女のように喚く和弥を、幹は鬱陶しがる。幹のちょっとした表情で簡単に傷つく和弥だったが、口から次々と出る暴言を止める事が出来ない。 「俺を助ける振りして、本当は復讐がしたいんだろっ!俺が死ぬところを見たいから、俺を助けるんだろ!」 叫んだ後「クソ野郎」と吐き捨てた。その途端、手加減なしで右頬を拳で殴られた。咄嗟の事に構える事が出来ず、弱っている和弥は呆気なくベットの上に倒れる。 親すら殴られた事がなかったのに。幹が、憎いと本気で思った。 「てめえっ!」 感情がコントロール出来ない和弥は、幹に飛び付く。その勢いに二人は床に倒れながら揉み合う。 「てめえに俺の気持ちがわかるかっ!ふざけやがって!!」 無我夢中で殴る。 「てめえが…っ、てめえが俺を惨めにするんだっ!」 長い間、殴っていた気がする。最初の一発殴っただけで、幹は殴り返さない。漸くそれに気が付いて、和弥は振り上げた腕を止めた。瞼が青く晴れ上がり、唇を切った幹の顔は、酷い状態だった。 「なんで、殴り返さねえっ!?同情かよっ」 目尻に涙が浮かんだ。和弥が腕を下ろした途端、幹は咳き込む。 「…っ」 拳で唇に付いている血を腕で拭き取ると、乱暴に、上に乗りかかっている和弥を振り払う。上半身を起こし、右手で左顔を抑える幹の姿は、癖なのか、少し不自然だった。 「……憎いと思っているけど、死んで欲しいと思った事は一度もない」 「───」 独り語とのような呟きに、和弥は顔を上げた。言われた言葉が信じられなかった。もう一度幹の言葉が聞きたくて黙り込んで待つが、幹は何も言わない。 長い沈黙の後、幹は急に立ち上がる。 「もう、薬はやめろ」 短い一言。たったそれだけの言葉なのに、胸が震えた。 「……っう…」 視界がぼやけたと思った時、ついに涙が溢れ出していた。嗚咽を噛み殺し、屈み込んで子供のように泣き出した和弥に、近づきもしないし、去りもしない。ただ、和弥が泣き止むまで、幹はずっと距離を置いて傍にいた。

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