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第1話

 午前零時ちょうど。  日付の変わるその瞬間、神谷孝史はドアの前で身支度を整えていた。  糊の効いたワイシャツに袖を通し、カフスを留める。  臙脂色のネクタイを丁寧に結び、ダークグレーのスーツを羽織る。  黒革の靴を手に取り、布で丹念に磨く。  ひととおり準備が終わると、最後に姿見の前に立ち、一分の隙もない姿を確認する。  かつては周囲から持て囃されたこともある顔だった。しかし今は、切れ長の瞳の下に深い隈が刻まれ、青白い細面からは虚ろな疲労と剣呑さが滲み出ている。  神谷は四十五歳。かつては中央官庁で将来を期待された官僚だった。現在は地方の出先機関で誰も見向きもしない仕事を黙々とこなす身だ。  時計が午前零時十五分を指す。スマートフォンをポケットに滑り込ませ、靴を履いた。  扉を押し開けながら、神谷は小さく眉を寄せた。自分でも理解できない行動だった。なぜわざわざ夜中に、こうして身支度を整えて部屋を出るのか。  数え切れないほど繰り返した問いに、未だに答えは出ない。  エレベーターが下降する。密閉された空間に、階数を刻むデジタル表示の音だけが響く。  ドアが開いた。小さな音が、暗闇の中、明瞭に響き渡る。  タワーマンションの無機質なエントランス。昼間は洗練された光とデザインを誇る空間も、深夜の今は白々しく、うそ寒い。革靴がタイルを踏む硬質な響きもどこか虚ろだ。  外に出た瞬間、冷たい夜気が頬を撫でた。  前には既に一台のタクシーが停車していた。ハザードランプが規則正しく点滅している。  神谷は無言でタクシーに近づいた。完璧なタイミングで後部座席のドアが開く。 「今月もご指名ありがとうございます」  乾いた、皮肉げな笑みが微かに混ざる男の声。神谷は応えなかった。  後部座席、運転席の真後ろ。  いつもの位置に移動しながら、神谷の視線が一瞬だけ運転席を掠める。後ろからでもわかる、大柄で逞しい体躯。彫りの深い横顔と、一瞬にも満たない刹那、視線が交わる。  高沢恭平という名の二つ年上のこのタクシー運転手が、かつて警視庁捜査二課の組織犯罪対策課に所属していた過去を、神谷は知っている。神谷の過去を高沢が知っているように。  タクシーがゆっくり走り出す。  神谷は窓の外に流れる景色を無表情に瞳に映した。日中は人で賑わう大通りも、今はひっそりと静まり返っている。まばらに立つ街灯が人気のない通りを淡く照らし、自販機の灯りだけが妙に明るい。かつて二人がいた都心の不夜城とは比べ物にならない、寂れた夜。  二人の間に会話はない。 神谷は窓の外を向いたまま。 高沢は片手でハンドルを握ったまま。  毎月の沈黙に二人とも慣れていた。そして、互いの目が冷めていることを、二人とも知っていた。  ルーティンと呼べるほど規則的な、異様な夜の始まり。この奇妙な習慣とともに季節が幾度巡っただろう。  タクシーはメインストリートを離れ、徐々に暗く狭い町はずれへ進んでいく。まばらだった街灯が更に少なくなる。町工場が密集する地域を抜け、更に先へ。複雑な小道、いくつもの角。十年以上の乗務経験を重ねた高沢の運転は、丁寧で無駄がない。  神谷の瞳は、窓ガラスに映る自分の顔を映していた。完璧に整えられたスーツと無表情な顔。こけた頬、張りのない肌、生気の失せた瞳。官庁の廊下を颯爽と歩いていたあの頃と、変わらないのは服装だけだ。  自分は何を求めてここにいるのか。数え切れないほど繰り返した自問が、また頭を擡げる。  高沢を呼び出し、この先で始める行為に何の意味があるというのか。  わからない。それでも神谷の指は気づけば高沢の連絡先を表示させ、発信している。「これで最後だ」と思いながら、今月も、また。  着信音が鳴る数秒間、彼はいつも後悔と期待が入り混じる感情に襲われる。そして高沢の声が応えた瞬間、その後悔と期待は、失望と安堵に姿を変えるのだ。いつも。  車は工業地帯の外れへ進んでいった。周囲はもうほとんど闇に包まれている。  神谷の膝の上に置かれた手が拳を作る。外は塗りつぶされたような闇一色。だが、もうすぐ到着することを身体が覚えている。  タクシーが停車する。エンジンが止まり、一瞬、耳の痛くなるような沈黙が降りた。

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