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第2話

 古い水銀灯が、闇の一角を青白く染めていた。  その頼りない光の一端が、古ぼけた建物の入り口を薄く掠めている。外壁は痛み、雑草が我が物顔で繁っている。赤く錆びた金属の扉は太い鎖と南京錠で施錠され、今なお誰かの所有物であることを示していた。  高沢はポケットから鍵を取り出した。どこで手に入れたのか、神谷から尋ねられたことはなかった。  鍵穴に差し込み、回す。金属音。少し力を込めて押すと、重く軋む音と共に開いていく。埃とカビの匂いが鼻をつく。  闇で塗り潰された空間に、薄く淡く白い光が歪んだ矩形を描いた。  埃をかぶった機械類、錆びついたラック、隅に捨てられたように置かれた古びたソファ。ひと月前と寸分も変わらない内部を、高沢の感情のない瞳が映す。かつてはここで何かが作られていたのだろう。今は何も生み出さない、空っぽの箱。  割れたガラス窓からは月の光すら差し込まない。唯一の光源は、開け放たれた入口から漏れる水銀灯の青白い光だけだった。その淡い光が、二人の顔に不自然な陰影を作り出している。  迷いなく奥へ進む高沢からきっちり三歩遅れて、神谷の足音が響く。  底が擦り減った高沢のそれとは違う、端然とした硬質な足音。何もかも変わってしまった二人だが、足音の違いはかつてと同じだった。そんな、どうでもいいことが。  込み上げる嗤いを消し、高沢は足を止めた。いつもの、壁際のラックの前。  振り返る。  視線の先、神谷の瞳に感情はない。慣れた相手を見る冷めた視線。自分も同じ目で神谷を見ている。  くたびれたスーツの内ポケットから煙草とライターを取り出す。かつてそのポケットには、高沢の身分を示すチョコレート色の革製の証票入れが入っていた。「警視庁」の記章を失ってから、もう何年経っただろう。  チープな使い捨てライターの金具が音を立てる。小さな点火音。闇に、深紅の点が灯る。  どちらが決めたわけでもない、いつもの合図。  神谷が機械的に高沢の前に膝をついた。今の高沢の月給が軽く飛んでいくだろう値段のスーツが、こんな得体の知れない場所の得体の知れない埃で汚れていく。  高沢の視線の先で、白く骨ばった指がベルトのバックルにかかり、微かな金属音と共にそこを外した。丁寧な手付きでジッパーを下ろし、下着をずり下げる。  外気に触れた性器は、直ぐに神谷の唇に啄まれる。先端に幾度も繰り返される甘いキスは、まるで其処を愛でるように柔らかだ。一方、根元を遠慮がちに支える白い指はひどく冷たい。粘膜の熱と指先の冷たさ。その落差は、神谷がちゃんと生きて動いている人間なのだと高沢に思い出させる。 「――、っ……」  掠れた呼吸音。神谷の口唇の動きは徐々に大胆になっていく。舌先は下へ潜り込み、根元から幹を幾度も舐め上げる。それから舌の全面を押し当てるように幹を舐めて柔らかく圧を咥えてから、今度は先端へ戻り、尖らせた舌先で窪みを擽り、括れを辿る。  神谷の舌が、唇が蠢くたび、籠った水音と微かな息の気配が混ざり、淫猥に闇を揺らす。  上手くなったな。  他人事のように思いながら、高沢は煙を吐いた。薄く広がる紫煙が、股間に顔を埋める神谷の上に広がる。  以前は酷かった。歯を立てるな、と何度言ったことか。そのたびに神谷は、悔しそうに高沢を見上げては、すぐ諦めたように双眸を伏せたものだった。  高沢は目を細めた。記憶は煙と共に消えていく。かつて官僚として将来を約束されていた男が、今は埃にまみれ、彼の前に跪いている。  別にやらせたいわけじゃない。そして、神谷も別にやりたいわけではないのだ。  唾液で濡れた性器が緩く熱を帯びる。神谷はためらわず唇を開き、硬く頭を擡げ始めたそれを口中いっぱいに含む。性器が熱い粘膜に包まれる。  自らの反応にすら、高沢は冷めている。舐められれば勃つ。ただの生理現象だ。  見下ろした視界に、神谷の端正な鼻梁が映る。潔癖なほどに白い輪郭。伏せられた睫毛が、外からの微かな光の下で震えている。  あの日の神谷の横顔を思い出す。首都のど真ん中、抜けるような青空と摩天楼を背にした横顔。不自然に高沢から顔を背け、どこか遠くを見ていた切れ長の瞳。 『お前にしか頼めない』  そう短く口にし、視線を俯けた。その睫毛の陰影を目にして、妙に落ち着かない気分になったのを覚えている。子どもの頃からやたら偉そうで、うんざりするほど自信に溢れていた神谷が、初めて見せた影。国の中枢で将来を嘱望され、輝かしい出世街道を威風堂々と闊歩していたはずの男が、初めて見せた闇。  頼みを引き受けたことに、大した理由はなかった。寛容でも優しさでもない。そんな情はない。ただ「しゃあねえな」と思った、それだけだ。自分がそんな風に思う相手は神谷以外にはいないかもしれないが、そのことにも大した意味があるとは思わない。  神谷の手が、控えめに高沢の腰を掴む。その指先が微かに震えているのも、もう高沢は見慣れてしまっている。  神谷が唇を窄め、性器を扱き上げる。小さな頭部が前後に揺れる卑猥な動き。ワックスで完璧に整えられたはずの髪が、その動きの所為で僅かに乱れかけていた。  苦しげな呼吸音が微かに響く。粘膜が粘膜を吸い上げる卑猥な水音。  神谷は、自分の「頼み事」の所為で高沢が失職したことを、未だに気に病んでいるらしい。  おかしな話だ、と高沢は思う。頼んだのは神谷だが、引き受けたのは自分だ。強制されたわけではない。高沢が選択した責任を、なぜ神谷が引き受けようとしているのだろう。  しかし高沢は、その疑問を神谷にぶつけたことはない。神谷が何も言わないからだ。  「頼み事」は失敗した。高沢は失職し、神谷は左遷され、偶然のようにこの街で再会した。  そのときも神谷は無言で、高沢を夜の公園へ誘った。そして「そこに立っていろ。何もするな」と命令し、高沢の前に跪いて、前置きもなしに口淫を始めた。  お互いにストレートだと知っていたから、正直驚いた。いや、驚いたという表現は生易しい。まったく理解できなかった。本当にただ突っ立って神谷の行為を受け入れたのは、どうしていいかわからなかったからだ。  それから始まったこの奇妙な関係を、いつでも止めることはできたはずだった。簡単なことだ。電話に出なければいい。それでも止めなかったのは、神谷の望みがわからないのと、――  じゅぷ、と、ひときわ卑猥な音が響いた。  高沢の性器に血が集まり、硬く頭を擡げ始める。  見下ろす高沢の視界で、神谷が苦しげに眉根を寄せるのが見える。乱れた髪がひとすじ、白い額にかかっている。手を伸ばそうとしてやめる。その手で、一体何をすればいい。  なぜこの関係が始まったのかも、なぜ続けているのかも、何もかもわからない。ただ、ひとつだけ、神谷が優しくされるのを望んでいないことだけは理解している。  ――では、自分は。  ――自分は、いったい「どうしたい」のだろう。  その問いが頭をよぎった瞬間、高沢は少し狼狽えた。子どもの頃からずっと、今の今まで考えたこともなかった問いだった。  性器が吐き出される。十分に猛ったそれへ、執拗なほど丁寧に這う舌、啄む唇。まるで愛しい何かのように。  高沢は眉根を寄せた。なぜか、口淫している神谷をこれ以上見たくないと思った。 「もういい」  断ち切るように短く言い、煙草を放り捨てる。  その合図があることを知っていた動きで、神谷が唇を離す。  立ち上がる気配を感じながら、ポケットからゴムを取り出して慣れた手付きで装着する。  再び高沢が視線を向けると、既に神谷はスラックスをずらし、高沢に背を向けて立っている。闇に浮かぶ、無防備に此方に向けられた薄く引き締まった白い尻と、錆び付いたラックに縋る白い両手。 

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