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第3話
高沢の手が無造作に伸び、神谷のスラックスのポケットを探った。
「……っ、」
毎回されていることなのに、神谷の肩はどうしても小さく跳ねてしまう。着衣と空気と、幾層も隔てているはずなのに、大柄な高沢の、逞しい肉体が持つ熱を感じてしまう所為だ。
そんな神谷の反応に構わず、高沢はポケットから小さな袋を取り出した。神谷がいつもそこに携帯用ローションを準備していることを知っている手付きで。
背後で、パッケージが破られる微かな音が聞こえる。縋るラックを意味もなく握り直す。ざらつく錆が指を汚す。
この時間は苦手だった。だから一度、ゴムを着けるところからすべて自分でやろうとしたら、高沢に制止された。その制止にはどんな意図があったのだろう。
衣擦れの音と同時に、尻が剥き出しにされる。何度繰り返しても慣れない羞恥。頬が熱くなる。
高沢の指が腰を捉える。意図せず、小さくそこが強張る。
「――……!」
押し当てられた熱も、慣れない。いつも声が漏れそうになる。
ゆっくりと、しかし確かな質量をもって侵入してくる高沢の熱。
高価なスーツの下で神谷の肌が粟立つ。拒絶と同時に、確かに湧き起こる渇望。
神谷の中で、ローションとローションが混ざり、淫靡な水音が響く。
「いつも通りだな」
高沢が無機質な声で呟いた。その平坦な声に込められているのは、諦観か、それとも慣れという名の無関心か。ただ、「いつも通り」という言葉が、鈍器のように神谷の胸を打つ。
自分で入念に準備したはずの内壁が、それでもなお軋みながら高沢の熱をきつく締め付ける。
「……ッ…っぅ、……く、ッ」
いつまで経っても痛みなしに繋がることはできない。当然だ。高沢以外を受け入れたことなどない。声が漏れそうになり、きつく歯を食いしばる。ラックに肘を預けて上体を支える。古びた金属が重みで揺れて壁に擦れ、耳障りな音を立てた。
――自分は、何をどこから間違っていたのか。
空しい自問がまた浮かぶ。
自らの能力に絶対の自信を持っていた。成功のためには多少の汚い手段も必要悪だ、と信じていた。
とある政治家から持ち掛けられた、とある後ろ暗い相談。難題だったが、神谷にとって恩を売る絶好のチャンスだった。成算もあった――高沢の協力さえあれば。
そして高沢は、何も聞かずに引き受けてくれた。もちろん後から相応の謝礼は渡したが、頼んだ時点では条件の話などしなかった。つまり、最初から断るつもりなどなかったのだろう。子どもの頃からそうだった。口数は極端に少なく、それでも神谷が言えば動いてくれた。いつも。
それはいったいどういうことなのか。高沢に尋ねたことはない。――そうだ。なぜ自分は今まで、何も聞かないまま。
「ぅあ、ッ、――!」
「おら、集中しろよ」
いきなり最奥を突き上げられ、思わず声が漏れた。余裕のない所作で袖口を噛む。カフスがラックに擦れ、キ、と不快な音がした。
ふう、と、高沢の呼気が深く吐き出された。同時に薄く広がる紫煙の匂い。反射的に神谷は眉を寄せる。普段は喫煙者になど近寄りたくもない。
律動が始まる。一定の間隔でラックが軋む。袖口を噛む歯にきつく力を込める。声は堪えても、乱れる吐息はどうしようもない。
集中しなければ。
余計な記憶が溢れる前に、この行為に没頭しなければ。
そう思うのに、思うそばから、過去が勝手に扉を開ける。
ある日突然上司に呼び出され、突き付けられた週刊誌のゲラ刷り。「不正献金」。そこには、高沢が秘密裏に動いて揉み消してくれたはずの醜聞が大きく印字されていた。
何もかもが世間に露見し、謹慎を言い付けられた日々。高沢がクビになったこともニュースで知った。そもそもの相談を持ち掛けてきた政治家は別人のように素っ気なく、自分が切り捨てられたトカゲの尻尾に過ぎないという事実を否応なく神谷に突き付けた。
「どこへ行きたい」
生活だけは保障してやるといわんばかりに提示された選択肢。抜け殻になった自分はなぜか、高沢が移り住んだ街の名を口にしていた。
そして高沢と再会した。久しぶりに見た高沢が、刑事らしくくたびれたスーツではなく、かっちりとしたタクシー会社の制服を身に着けていたのが滑稽だった。
その夜、初めて高沢を誘った。
なぜ突然そんなことをしたのか、未だに神谷にはわからない。お互い異性愛者だと知っていたのに。他に言いたいことも聞きたいことも山ほどあったはずなのに。何よりも先に神谷は高沢の前に跪き、何のためらいもなく性器を咥えた。
それ以来、ほぼ毎月、こうして身体を重ねている。いつからか高沢の服装は、かっちりした制服から、くたびれたシャツとネクタイとベストに変わっている。
「ふッ…、ぅ、っ――ん、ッく…」
ゆったりとした律動。「快感混じりの痛み」が、「痛み混じりの快感」に変わっていく。微かに漏れる吐息が艶を帯びる。その響きを、神谷は嫌悪しているのに。勝手に。
既に神谷の性器も、身体の下で頭を擡げている。そしてそのことを高沢も知っているだろう。
なぜ自分は、こんなことを。わざわざ高沢を呼び出して。先月、今度こそこれで最後にしようと、確かにそう思っていたはずなのに。
贖罪のつもりなのか。それとも、少しでも忘れようとしているのか。
だとすれば、ひどくされたいのか。
神谷の脳裏に、何度も繰り返した自問がまた浮かぶ。答えはわからない。
「――く、ぅ、ァ…ッ、う、……っン、っんん――ツ」
無機質な律動が徐々に速くなる。腰を掴む高沢の指が熱い。中を抉る熱と、腰を捉える指。そのふたつの熱だけが神谷の世界の全てになる。
なぜこの関係を始めたのかも、なぜ続けているのかも、何もかもわからない。ただ、ひとつだけ、優しくされることだけは望んでいない、それだけはわかっていた。もし高沢に優しくされれば――きっと自分は、壊れてしまうだろうということも。
「出すぞ」
煙草を咥えたままの、やや不明瞭な声。
神谷の返事を待たず、中で熱が弾ける。ゴムを隔てたそれは、ひどく遠く感じられた。
「……、――ぁ、っ……」
やや遅れて、神谷も精を零す。いつの間に自分は、後孔だけで射精できるようになったのか。
膝が震える。ゆっくりと、その場にうずくまる。ぼろきれのようだと自嘲しながら、荒い呼吸に肩が上下する。しばらく動けない。
背後で、踵を返す気配がする。これもいつものルーティン。互いに精を吐き出した後、高沢は一度建物を出て行く。――神谷が身支度を整える間を作るように。
ただ、今夜は。
いつもならすぐに遠ざかるはずの足音が、僅かに止まった、気がした。
そして、ふと。神谷の髪に、ひどく不器用に何かが触れた、気がした。
――すべて、荒い呼吸と乱れ切った鼓動が作り出した幻かもしれないけれど。
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