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第4話

 高沢が戻ってくる足音が聞こえているはずなのに、水銀灯の下に佇む神谷はぴくりとも動かなかった。  もし別の誰かだったらどうするつもりなんだ、と高沢は思うが、きっとその場合でも神谷は無反応だろう。高沢と過ごすときの神谷は、常に虚ろな抜け殻のように表情を動かさない。  差し出した缶コーヒーを、神谷は無言で受け取った。その身なりは辛うじて整ってはいるが、夜の始まりに比べればスラックスやジャケットの各所が汚れ、どこか着崩れた印象を隠せない。きちんとセットしていた髪も乱れている。  タクシーのボンネットに、どちらからともなく並んで腰を預ける。  二人の間の距離は拳ひとつ分。  ライターの金具が音を立て、闇の一角に炎が揺らめく。  神谷は思わず視線を向けた。暖色を久しぶりに見た気がした。揺れる橙色に浮かぶ、煙草を咥えた精悍な顎の線。  深く紫煙を吐き出され、反射的に眉を寄せる。 「まだやめないのか」  まともな言葉を発したのは久しぶりだ、と神谷は思う。  煙草を持つ高沢の手が僅かに止まった。  二人の視線がほんの一瞬だけ絡む。 「やめるつもりねえからな」  神谷はそれ以上は言わなかった。新聞沙汰を引き起こした自分が喫煙の有害性を説くのも滑稽な話だ。  夜はまだ深い。ボンネットの金属が、二人の体温を緩やかに奪っていく。水銀灯の青白い光に浮かび上がる世界は、まるで凍り付いたようにも見える。  スチール缶が、神谷の手の中でゆっくりとぬるくなっていく。いつも通り、眠気は遠い。  官僚時代は完徹は当たり前のことだった。眠る時間が惜しかった。しかし、今の神谷が眠れないのは、そういうことではない。  何もやることがない、何からも必要とされていない、虚ろな闇。  高沢と別れた翌夜から、一人で乗り越えるにはあまりにも空虚で空しい闇が、少しずつ少しずつ、神谷を侵食し始める。やがて、ひと月も経つ頃、神谷の夜はすべてその虚ろな闇に塗り潰されてしまうのだ。そして神谷は、スマートフォンに手を伸ばす。「これで最後だ」と言い聞かせながら。  しんと冷えた夜闇。  宙に浮いた煙草の火が、小さく熾る。  深く息を吐き出す音と、ふわりと漂う煙草の匂い。  高沢は、緩く眉根を寄せた神谷の横顔を見遣り、僅かに口端を緩める。昔から神谷は煙草が嫌いだった。普通にしていれば綺麗な線を描いている眉が、そうしてわかりやすく歪んでいる様はどこか可笑しい。  そういえばあまり神谷の表情を知らないな、と高沢は思った。無表情か、今の嫌そうな顔か。子どもの頃は、さすがにもっといろんな表情を見た気はするが。  お互い様ではあった。高沢も、神谷の前で表情を動かした記憶はない。いずれにせよ今更すぎる感慨だ。  煙草を咥えながら視線を上げる。  闇の奥、遠く山の稜線がうっすらと白み始めていた。  灰を落としながら、下がった高沢の視線が、一瞬、二人の間の空隙を掠める。  拳ひとつ分。いつもそうだ。  中途半端なこの距離は、二人の関係とよく似ている。  セックスがしたいだけなら、終わった今、さっさと帰ればいい。そうじゃないならもっと、……――もっと?  そこでいつも高沢の思考は止まる。  短くなった煙草を弾き捨てる。擦り減った革靴の底が、落ちた火を、ざり、とねじり消す。その視界の端で、神谷の髪が僅かに揺れた。  そうして高沢の肩先に触れる、ほんの微かな感触。――触れ合う、肩と肩。  凭れるというほどの重みではない。しかし偶然にしては、触れたそれは、じっと動かない。  明確に、控えめに。それは、行為以外で初めて神谷が高沢に触れる時間だった。  高沢が視線を肩先へ落とす。  目を閉じた神谷の睫毛が陰影を作っている。  この時、自分がどんな顔をしているのか、神谷は知らないだろう。  どこか泣きそうな、しかしひどく穏やかな表情。  だから高沢は知っている。神谷が本当に求めているのは、セックスの後のこの時間だ。  馬鹿な奴だと思う。そして、自分も馬鹿だと思う。  自分がどうしたいのかもわからない、いい年をした馬鹿な大人達。  空虚な夜にお似合いの二人だ、と高沢は一人嗤いながら、白み始めた空へ視線を上げる。  やがて新たな煙草に火を点ける高沢の傍らで、神谷の手がほんの僅か、空隙を超えようとして、止まった。

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