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第5話

 早朝。  灰を溶かしたような空はまだ白い。街の片隅まで染みわたるモノクロームの世界。あと少し待てば、最初の青が薄く広がり始めるだろう。まだ今は、霞がかったような境界線のない時間。  街路に車通りはほとんどない。ごく稀に行き交う車は、配達中か、夜勤帰りか。新聞を配るカブは最近減る一方だ。信号機の黄色が虚しく点滅し、誰もいない交差点を睥睨している。地方都市特有の裏寂れた朝。  神谷の瞳に、歩道をゆっくり歩いている老人の姿が映る。スウェットの上に色あせたウインドブレーカーを羽織って、犬の散歩中らしい。  昼間の喧騒が夢のような、緩慢で静かな一日の始まり。駅前の大型スーパーの位置を知らせる看板だけが、妙に鮮やかな色を放っている。いつ見ても変わらない街並み。どこにでもある風景。  淡々と流れる車窓の外、ひときわ高いビルが見えてくる。周囲の建物を見下ろすように聳え立つその建物は、この都市でも指折りの価値を持つタワーマンションだ。地方の限られたステータスシンボル。今の神谷の住居も其処にある。窓からの眺めはいい。しかし、何を眺めればいいのか、神谷にはわからない。  タクシーが大通りを逸れ、脇道へ入る。  見えてきた、いつもの公園。朝露に濡れたベンチ。誰も座っていないブランコ。小さなジャングルジム。これから一日が始まるというのに、妙に時間が止まったような景色。  ハザードを点灯させ、タクシーが停まる。タイヤが小石を噛む小さな音。  幾度となく繰り返されているルーティン。ひと呼吸の間の後、無言のまま、流れるように高沢がドアを開け、神谷が降りる。それが二人の、決して口にしない約束事――のはず。  しかし、今朝は。  ドアはまだ開かない。  神谷は運転席に視線を向けた。見えるのは、身じろぎもしない高沢の頭部だけだ。少し長くなった後ろ髪。いつもより深く刻まれた首筋のしわ。  神谷も、身じろぎもせずに待つ。――何を待っているのか、自分でもわからないまま。  エンジン音だけが車内に響く。沈黙。  ドアが開いた。  その瞬間に広がったのは安堵か失望か。それも、神谷にはわからない。  わかっているのは、いつものように降りなければならないということだけ。  いつものように、終わりにしなければならないということだけ。  機械的に車を降りる。端正な革靴の音。  やや間を置いて、ドアが閉まる音。  高沢は視線だけを上げる。ルームミラーに映る背は、真っ直ぐに伸びている。  姿勢の良さは昔から変わらない。抜け殻に成り果てても、その背筋は歪まない。いや、歪んでいるからこそ、無理に真っ直ぐを保っているのかもしれない。  ハンドルにかかった指で、無意味に合皮の表面を柔らかく叩く。不規則なリズム。  いつも同じ。毎月同じ。端然と歩くその背は、決して振り返らない。  遠ざかっていく真っ直ぐな背中を、ミラー越しに静かに見詰める視線は、決して離れない。  ウォーキング中らしい男性が、規則正しい歩調で通り過ぎていく。すれ違う神谷には目もくれない、規則正しく健康を維持しようとする姿。  嗤うように口端を僅かに歪めながら、アスファルトを踏み、歩き出す。  背後にエンジン音は途切れず聞こえている。まだいる。はず。  けれど音だけなら幻聴かもしれない。確かめたい。高沢がまだそこにいることを、振り返って確かめたい。しかし、自分が決してそうしないことを神谷は知っている。  公園の脇を通り過ぎる。植え込みに放置された、子ども用の小さなタオル。  曲がり角が近付いてくる。  無意味に記憶が蘇る。――朝の光の中で停車するタクシー。流れるように開くはずのドア。  しかしなぜ今日は。  ドアは、すぐに開かなかったのだろう。  高沢は、タクシーをゆっくりと発車させた。エンジン音が少し高くなる。  緩やかな速度で前へ進む。いつものように、次の日常へ。  しかし今日は、少しだけ遅い。それが何を意味するのかは、高沢自身にもわからない。ただ、いつもと少しだけ違う今日の別れ。  高沢の目線は道路に注がれるべきなのに、何度もルームミラーへと戻ってしまう。いつもはしないことだ。  角を曲がりながら、背後へ一瞥を向ける。  いつもはしないことだ。しかし今日は、無意識のうちに振り返っていた。見えたのは、遠ざかる白いボディ。朝もやに溶け込んでいくタクシー。  ――ほんの一瞬だけ、ミラーに映る高沢の目と視線が合ったような。  虫の良い幻想を振り払う。  神谷は再び前を向き、歩き出す。  いつもの朝。いつもの道。いつもの自分。空っぽの部屋へ。  アクセルを踏みながら、ルームミラーから視線を引き剥がす。前を見なければならない。それが、ドライバーとしての責任だ。  しかし、最後に見た神谷の姿が、目に焼き付いて離れない。  ――ほんの一瞬だけ、いつも角を曲がって消えていくだけの神谷が振り返ったような。  見間違いか、幻か。それとも。  高沢は無言で首を振り、ラジオのボリュームを上げた。  朝のニュースが流れ始める。いつもの一日の始まり。  最後に交わった視線は、お互いに自覚されることはなかった。  朝六時十五分。  街は、ただ静かに動き始めていた。 【終】

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