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1 紅蘭の朝(1)

 夜明けの星は、地平線の下から太陽を招く。  初冬の白い朝に、少年は息を軽くはずませた。  馬の背に揺られ、東雨は一人、清らかな朝の中を、都の犀星の屋敷へと戻る最中であった。  先ほどまで、彼は、身の毛が逆立つような生きた心地のしない部屋で、主である皇帝と向き合っていた。  その記憶は、天輝殿を出た後も、頭の周りにまとわりついて離れない。  天輝殿の中殿にある、石造りのあの小さな部屋は、いつだったか、皇帝に逆らった咎で、近衛兵の一人が無惨な死を遂げた場所であった。  その同じ場所に、皇帝と自分は二人きり、その緊迫した空気は、あの時の刺殺を思い出させた。  幼かった東雨には、あの時、近衛兵がどのような罪で殺されたのかは理解できなかった。  しかし、それでも、兵の体から流れた血が、部屋の隅の排水溝の乾いた石の上を、細い蛇のように這っていくのを、今でもはっきりと覚えているのだ。  油灯の光がわずかに揺れる、あの薄暗い闇の中で、自分は皇帝に、歌仙で見聞きしたありとあらゆることを告げた。  南陵軍歌仙地方、犀星の故郷。  遥か南の地で、何が起きていたのか。  秋の初めにあの地を訪れた東雨は、およそ三月の間、都を留守にした。  その間に起きた数々の出来事。犀遠や玲陽との出会い、犀星や涼景のはたらき、そして、何やら理解を超える怪しげな黒い影。  不明瞭なところはあるものの、東雨はできる限り丁寧に、そして皇帝の機嫌を損ねないように、静かに語った。  自分の記憶のすべてをそこに置き去りにするように。それはどこか、自らの冒した罪の告白にも思われた。  宝順帝は、黙ってそれを聞いていた。  東雨は顔を上げず、じっと、皇帝の着物の裾の龍の模様と、小さな玉飾りを見ながら、淡々と話した。 「これより、玲陽は都の屋敷に滞在することになります。いずれ、五亨庵へも現れるでしょう」  東雨は、長い話の最後を、その言葉で締めた。  宝順からの反応はなく、石壁に揺れる油灯の燃える音までが、大きく聞こえる気がした。やがて、するりと衣擦れがして、宝順が何やら動いたのがわかったが、東雨はあえて目を閉じた。  東雨には、皇帝のすべてが恐ろしい。  ただこうして指示にしたがい、命令を遂行している中でさえ、常に怯え続けている。突然に咎められて、次の瞬間、胸に刃が突き立っている、そんな恐怖がどうしても拭いされなかった。  宝順帝の怒りに触れれば、誰であろうと容赦はない。それが、このような密室の中、自分のような孤児上がりの無力な侍童など、この世に存在さえしなかったかのように消されるだろう。 「あいわかった」  宝順はようやく、一言、そう吐いた。  閉ざされた部屋の匂い、重たい空気そのものが、東雨の呼吸を狭めているようだった。深く吸い込めば、途端に気を失いそうになるような、心理的に追い詰められた臭気が、そこには満ちていた。 「そちに命ずる」  その言葉に、東雨は最大限の集中力で耳を傾けた。 「引き続き、玲親王の身辺を報告せよ。そして、その、玲陽とやら……」  東雨はごくり、と飲み込む。 「実に面白そうではないか」  東雨は自然と体が震えた。宝順が玲陽に興味を持った。それは、玲陽が無事ではすまないことを意味していた。 「いずれ、ゆっくり話がしたい」  話すだけで終わるはずがない。  東雨にも、それくらいのことはわかっている。不幸にも宝順の関心を得た者が、天輝殿から無事に帰ることはできない。よしんば生きて門を出られたとしても、すでに廃人とされているだろう。その加虐嗜好は異常を極める。  特に、宝順の犀星に対する執着は凄まじかった。  東雨を使い、情報を把握しようとするのも、ひとえに犀星を精神的に支配するための手段だった。  宝順にとって、犀星の苦しみは愉悦にほかならない。そのためならば、いかなる手段も問わなかった。  過去に起きた、いくつもの悲劇。  心が思い出すことを拒んで、東雨は浅い呼吸を繰り返しながら、じっと身を固く縮めた。 「そちは、玲陽の信頼を得よ。いかようにも動かせるようにな」  玲陽を、動かす?  東雨はなぜか、心苦しさを覚えた。 「……はい」  しっかりと声を出したつもりだったが、その返事はあまりにか細かった。  つまるところ、玲陽と仲良くなれということだよな。  東雨は自分なりにそれを咀嚼し、飲み込んだ。  上辺の人付き合いがうまい東雨にとっては、それは、それほど難しくはない。  笑顔で向き合っていれば、大抵の相手は向こうから気を許してくれる。  それは東雨の幼さや無邪気さ、明朗快活に見える気性が相手の警戒心を解くためだった。しかし、東雨は腹の中でいつも、愚かな奴らだと嘲笑っている。  幼い頃から、皇帝と犀星との板挟みで、偽りを続けてきた東雨は、周囲を信用するということに常に抵抗感を抱いている。  相手を信じたら負けだ。  そうでなければ、誰かに利用され、簡単に捨てられる末路しかない。  生き残りたければ疑うこと、信じないこと、許さないことが、何よりも肝要である。  玲陽に対しても、東雨の態度が変わることはない。表面は親しく接し、その弱点も言動の傾向も理解する。その上で、都合よくあやつるだけだ。  やることは変わらないさ。  東雨はつとめて強気を演じたが、本音では気が進まなかった。  正直なところ、玲陽は苦手だった。  歌仙で玲陽と知り合って依頼、どうしても自分は調子が狂わされている。何かをされるというわけではないが、できればあまり関わりたくない。玲陽のことを考えると、どうしても同時に犀星の顔が蘇ってくる。今まで見たこともなかった、穏やかな犀星の表情。それは、東雨を幸せにもしたが、同時に苦しくもした。  ……なんか、嫌だ。  東雨は眉間に皺をよせ、それから、唇を噛んだ。  馬の背の上で、その馬蹄が石畳に心地よく響く振動を感じながら、東雨は遠くの朝焼けを見た。  昨夜のうちに、犀星と玲陽を都の邸宅に残し、夜の闇に紛れて、皇帝の元へ。  そして、今、あらゆることを語り尽くして、新しい命令を受け、帰路につく。  ひとつの区切りがついたはずなのに、気持ちはまったく晴れない。  東雨は息苦しさを和らげるように、深呼吸を繰り返した。  たとえ自分が気乗りしなくとも、宝順の命令が出た以上、逃れる道はない。逆らうならば、自分はその場で、この世から跡形もなく消されるだろう。  幼い頃、宝順の手によって、東雨は犀星に預けられた。  幸い、犀星の元で落ち着いた生活を送ることがてきた。  変わり者の犀星の相手は楽ではなく、本来の仕事とは関係のないこともたくさん覚えねばならなかった。  それでも、これでよかったのだと感じる。歌仙親王はこの時代に稀に見る逸材だ。その人間のそば近く仕えているというのは、優越感を抱ける条件でもあった。  親王は決して美しいだけではない。寡黙で、何を考えているかわからない部分も多いが、知恵と、賢さ、懐の深さは、そばにいれば自然とわかる。  それに加えて、時折見せる純真さや無防備な仕草も、東雨にとっては魅力である。  特に、玲陽と接する時の犀星はその傾向が顕著であった。  今まで笑わないと思っていた犀星が、急に笑う。それも、柔らかく、深い優しさを滲ませて。  そんな犀星の変化が、東雨にとっては今後が楽しみな一つの要因である。  もっと見ていたい。そう思うのは、東雨の心が犀星へと向いているからかもしれない。  誰も信じない、と言いながら、俺は、若様を受け入れてしまっている?  東雨は、自分自身の揺れる心を押さえつけた。  これは錯覚だ。犀星の信頼をえるための偽装なのだ。  そう、心のどこかで言い聞かせた。  宮中の出口の近くで、東雨は一本の桜を横目に見た。  山桜の古木である。  その奥の道を行けば、犀星が政治の拠点としている五亨庵がある。  葉がずいぶんと落ちた木立の奥に、目が覚めるような群青と銀模様で彩られた、美しい外壁が見えた。  まだしばらくは戻らないだろう。玲陽の体調が落ち着くまで、犀星は、五亨庵への出仕を控えるはずだ。  中央ではなく、宮中の最も南側、都に通じる門のそばに拠点を構えている貴人は、犀星だけである。  この変わり者の親王は、この僻地に位置する南東部の一角を気に入り、あの桜の木を目印にして、さらにその奥の荒地を分け入り、そこに五亨庵を建てた。  それまで何もなかった閑散とした空き地になぜか興味を持ち、自ら設計を手がけ、奇抜な建物を作り上げた。  それは鳥の目線から見れば、五角形をした幾何学的な外観で、屋敷の中には、もとからその空き地に埋まっていた五つの石が配置された。建物の形も、床から石が飛び出している眺めも、普通の貴人の邸宅や、政務を取り扱う場所とは思われない。  しかし、その奇抜さゆえに、幼心に東雨は気持ちが浮き立ったものである。  苦労も多いが、楽しみもある。  特殊であるがゆえに、他の者たちよりも自慢できる要素も多かった。東雨の方から何も言わなくても、周囲は犀星のそばにいるという彼の立場を羨ましがった。  ただそこにいるだけで絵になり、視線を集める。  歌仙新王の人気というのは、そのようなものである。  都に帰ってきたというのは、東雨にとっては安心できる要因であった。  記憶にある最初から、彼はこの場所で育った。正確な生まれは知らないが、どこが故郷かと問われれば、間違いなく紅蘭と答える。  気に入らないこともある。身勝手な貴人たちには腹も立つ。  それでも、東雨にとって、ここは慣れ親しんだ土地である。  五亨庵を過ぎれば、すぐそこに宮中と都の境の門がある。  ようやく夜の閉鎖が解け、門が開かれる時刻だ。  東雨は帯に挟んだ玉佩を、門番にちらりと見せた。そして、馬から降りることもなく、そのまま通過した。  東雨のことは、警備に当たっている兵たちも十分に知っている。  彼らの認識は、犀星の使者、というもので、門をすんなりと通してくれるだけの信用は勝ち得ている。  宮中と都の境である朱雀門を出ると、そのまま大通りをまっすぐに南へ下る。  初めに通るのは貴族たちの邸宅のある地域だ。  この辺は一番隊と二番隊が警備に当たっている。

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