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1 紅蘭の朝(2)

 どちらも、もともと下級貴人の出身者が多い、気位の高い連中である。  だからこそ、貴人たちの邸宅の警備などという面倒くさいことが務まる、と東雨は思っている。  その一帯は宮中の延長のように、整然とし、美しく整った街路樹や、石畳が続いている。  広々とした邸宅が並ぶため、見晴らしは比較的良いが、人の出入りは少ない。  落ち着いた雰囲気だが、どこかよそよそしいかった。  その中を、一番隊と二番隊の兵士たちが、規則正しく巡回して歩く。  彼らは東雨を一瞥しただけで、特に呼び止めることはなかった。  警戒されねばならないことをしているわけではないが、それでも疲れが溜まっている東雨はほっとした。無用な悶着は避けたかった。時には、うさを晴らすように難癖をつけてくる衛士もいて、東雨は随分と迷惑をしていた。  昨夜、夕刻に都に到着して以来、東雨は休みなしである。  屋敷に着くやいなや、掃除をし、換気を行い、炉に火を入れ、簡単な食事を作った。湯殿の準備には時間がなかったため、体を拭けるように用意を整え、着替えを準備し、馬の世話をした。瑣末な事柄で、あっという間に日が暮れ、犀星と玲陽が寝静まった頃、屋敷を抜け出したのだ。  早く帰って一眠りがしたい。だが、すぐ朝餉の支度が必要だろう。  東雨はそんなことを考えながら、ゆっくりと馬を進めた。  歌仙地方は随分と朝靄が多かった。自分はあの、どこか憧憬を呼び起こすようなぬるい空気には、慣れられなかった。  紅蘭は逆に、空気がしんと冷えて透明度が高い。  ここの育ちである東雨は、それが当たり前の景色になっていた。知らない土地でしばらく過ごしてみると、今まで気づかなかった特徴がよくわかる。  俺はやっぱりこっちの方がいいな、と彼は素直に思った。  馴染んだからだけではない。この空気は、自分の肌に合っている。  鋭く、常に緊張感を孕むような、ぴりりと張った匂いがする。  心を許せるものでも、安心感を得られるものでもない。優しさから程遠い、突き放す棘がある。  常に張り詰めた孤独と、胸をつつく冷ややかさ、そしてどこまでも明朗に透き通って抜けるような空の青。冬が近く色が薄いが、それもまた、冷たくて心地よいと思う。  そうだ。自分にはこの空が似合っている。  目を向けると、日が昇るにつれて、徐々に空は色を増してくる。  白から青への緩やかな色の移り変わりと、冷たい空気とが相まって、胸に迫る。帰ってきたのだという実感が湧く。  貴人たちの邸宅の区域を過ぎると、次はいよいよ、自分たちが生活する地域である。  商人や職人の出店、旅館や飲食店、様々な身の上の者たちがひしめき合って、狭いながらも、活気がある雰囲気で暮らしている場所。  この、せまく入り組んだ道の奥に、犀星が住む邸宅がある。  もともとは涼景の持ち物であったが、犀星が気に入り、借り受けている。  まさか、民の住む地域の奥の奥に仮住まいをしている親王がいるなど、簡単に想像はしないだろう。  それほどまでに、犀星の偏屈ぶりは顕著であった。  昔はそれを恨み、もっと豪華な屋敷に住みたいと嘆いたこともあった。  当時の東雨には、犀星の好みは決して受け入れられるものではなかった。慣れてしまった今となっては、逆に気が楽だった。  近所付き合いで貴人たちの機嫌を取る必要もない。身分の違いを理由に、嫌がらせを受けることもない。  すれ違うのは皆、見知った都の人々だ。  東雨は少しだけ、ここでは力を抜くことができる。  朝が早い市場の者たちは、みんな声を掛け合って、お互いに挨拶をしながら、今日の無事を祈り、そして繁盛を願う。  そんな活気あるやりとりが、そこかしこから、東雨の目にも入ってくる。  一人の商人が東雨に気づいて声をかけた。 「久しぶりだな。歌仙様が戻ったのか?」 「はい、昨夜戻りました」  にこっと笑って、東雨は馬から降り、頭を下げた。厳しい顔で物思いに耽っていた少年とは、まるで別人だ。  商人は、野菜を乗せた荷車の荷物を探りながら、 「それじゃ、早速これを持って行け」  と、麻の袋を差し出した。中を覗くと、じゃがいもである。そこから連想できる料理がいくつも、東雨の頭に浮かんだ。彼は笑顔で袋を受け取った。 「ありがとうございます。長く家を空けていたので、食料を調達しなきゃいけないと思ってたところです。後で、店に行きますね」  男は笑って頷いた。 「必要なら、少しだが薪も出せるぞ。歌仙様が戻ったら、売り付けに行こうと思ってたところだ」  商人の男はそう言って、明るく笑った。そのやりとりを見ていた何人かが、犀星の話を聞こうと東雨に集まってきた。 「東雨、胡麻を持っていかないかい?」 「歌仙様に、これも渡しておくれ」  こんなふうに東雨は、道を歩くだけで荷物が増える。  それもこれも、すべては、犀星の人柄、と言えば良いのだが、なんだかほどこしを受けているようで、東雨としては少々体裁が悪い。  親王なのだから、充分に俸禄はあり、経済的には豊かなはずだ。だが、犀星はそこはかなりの倹約家だ。  食料どころか、燃料に至るまで、徹底的に切り詰める。一ヶ月の予算が三十文という、生命維持に関わるような財政を、東雨はどうにかやりくりしていた。  そうこうして、浮かせた金を、犀星は公共事業の投資に充てる。権力を強化するためや、汚職に使われるわけではなかったが、だからこそ、東雨としては文句のつけようがなく、いかんともしがたい思いでいっぱいである。  そのような倹約の中であったから、甘いものが食べたいと思っても、どこかからおこぼれが来るのを待つしかない。好物の杏の蜜漬けも、もう何年も口に入っていない。  みんなは羨ましがるけれど、これはこれで結構ひもじいものだぞ、と東雨は苦笑する。  それでも本当に食うに困るということはなく、身の安全も保証されている。  東雨はふと、少し先の道に目を向けた。軽装の鎧をまとった兵士が数名、歩いているのが見えた。  この区画を任されているのは、三番隊と、そして暁隊である。特に東雨が気にかけているのが、暁隊だ。  東雨は鳶色の皮の甲冑を纏った衛士を見た。  やっぱり、人相が悪いなぁ。  そうは思うものの、どこか親しみのこもる顔で眺める。  都警備の連番隊は国の組織だが、暁隊だけは違う。燕涼景の戦果に惚れ込み、その人望に惹かれて集まった集団が、暁隊の前身である。はじめは涼景の私兵に過ぎなかったが、彼が都の警備を任されるにあたり、他の連番隊に並んで起用され、今に至る。  その成立過程が特殊であるため、所属する者たちはほとんどが平民の出である。中には少々人に知られたくない経歴の者も多くいる。そんなならず者集団が衛士として機能し、その上、他の隊よりも民衆の信頼を得ている現実の裏には、涼景の並々ならぬ砕身があることは言うまでもない。  東雨は市場で手に入れた食材や日用品を馬の鞍に結わえ、すでに空気がいくらか温み始めた中を、路地の奥へと進んだ。  涼景、どうしたかな。  東雨は不意に、暁将軍を思い出していた。ここしばらく毎日顔を合わせていたが、都の生活に戻れば、そう頻繁ではなくなる。  三ヶ月の間、涼景は相当な心労を味わったらしく、随分老け込んだ印象があった。特に犀遠が亡くなってからは、犀家の軍事的な事柄を全て引き受け、取り仕切っていた。当主不在の犀家が私兵を維持できる仕組みを作ったのは、彼の功績である。  東雨はそっと、懐を探った。着物の深くに、涼景から渡された短刀を忍ばせてあった。刀身に毒が塗られ、非力な東雨でも相手を仕留められるようにと、涼景が渡してくれた護身用である。  必要なわけでもないが、なんとなくそのままにして手放さずにいる。東雨が皇帝を第一の主人としていることに勘づいている涼景が、どうしてわざわざ自分にこのようなものを渡したのか。それは、東雨の理解の及ばないところである。  考えてもわからないような、それでいて、答えに辿り着くのが躊躇われるような、複雑な気持ちになる。東雨は顔を上げ、行手に集中した。  犀星の住む屋敷は、表通りから三本分、奥へ入ったところにある。路地が入り組んでいて、初めて来たときには道に迷った。  それでも十年も通っていれば、距離感や、その辺の景色のなじみ具合で、親近感が湧いてくる。もっと良いところに住みたいと思っていたのに、いつの間にかすっかり慣れてしまった。  東雨は馬を引きながら、門を潜った。前庭の左手には厩舎があり、そこで馬を休ませ、玄関に向かう。すぐに朝餉の支度をしなければならない。東雨は市場でもらった物品を抱えて厨房へ入った。隣接する食料庫に一度しまい、それから、すぐに使えそうな食材を見繕う。犀星の倹約思考が効いていて、長期保存できる食材は、ある程度揃っている。  そうだ、庭の野菜はどうなっただろう。  東雨は中庭にある畑に向かった。長期間留守にしたせいで、収穫間近な野菜を放置してしまった。犀家で畑の恵みを見るたびに、こちらはどうなっているかと気が気ではなかった。東雨にとって、少ない生活費のやりくりは最優先事項なのだ。  三か月も放置していた割には、食べられそうなものも残されているようだ。  大根、まだ大丈夫かも……  東雨はとりあえず手当たり次第に、その辺の野菜を物色した。すでに枯れて、収穫期を過ぎてしまったものも多いが、今日の朝食にはどうにか間に合いそうだ。  雑草の生えた土を踏み分け、隠された宝を探す心持ちで、東雨は大根の葉に手をかけた。  冷たい。  そろそろ、初霜が降りる季節だ。  東雨は丁寧に大根を掘り出した。放っておいた自分たちを恨むこともなく、大根は丸々と膨らんでいる。東雨は自然と笑顔だった。大根でこれだけ幸せになれるのだから、犀星の方針も悪くないのかもしれない。少なくとも、金でを払って全てをまかなう貴人の暮らしよりは、多くのことが経験できる。  荒れた畑の中をうろうろしていた東雨は、振り返って目を上げ、一瞬体が固まった。  見慣れない人影が、そこにあった。玲陽である。彼は中庭に面した居間の前の回廊に座って、ぼんやりと景色を眺めているようだった。  声くらいかけてくれたらいいのに……

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