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1 紅蘭の朝(3)

 いつもの東雨なら、疲れているのだから仕方がない、と優しい気持ちにもなるかもしれないが、今朝はあまり余裕がない。  宝順の指示が蘇った。  玲陽と信頼を築くこと。それが東雨にとっては非常に重たい任務となっている。  だというのに、東雨は実際、玲陽の姿を見て、違和感を覚えた。  自分と犀星だけの屋敷に、他の人間がいるということへの抵抗が拭えない。涼景などが押しかけてきて、ただ飯を食っていくことはあるが、それとて一晩の客の域を出ない。しかし、玲陽は違う。彼はこれから、ずっと、ここにいるのだ。  二人の世界に、投げ込まれた一つの石。その波紋はどんなふうに自分を飲み込んでいくのだろう。  なんだが、面白くない……  それが東雨の素直な感想だ。だが、そんなことはおくびにも出さず、東雨は大根を手に、玲陽に歩み寄った。  薄い着物一枚で、その上から褥を肩に乗せている。足元は素足で、とてもこの季節の格好ではなかった。玲陽が暮らしていた歌仙であれば、素足で過ごすことも珍しくはなかっただろうが、紅蘭は違う。もうじき雪も降る時期だ。 「光理様、おはようございます」  東雨はそっと話しかけた。ぼんやりとしていた玲陽は、静かに東雨の方を向いた。なぜか返事がない。  無視すんなよ……  東雨の心は逆だった。 「光理様?」  と、もう一度、呼びかけた。  玲陽の表情は、かすかに戸惑ったようだ。 「大丈夫ですか? まだお疲れが残っていらっしゃるのでしょう?」  気遣うそぶりの東雨の声に、玲陽は徐々に意識が戻ってきたような仕草で、息をはいた。 「あ、すみません。なんだかぼーっとしてしまって」  はにかむ。そして少し首をかしげるようにして笑う。東雨はこの仕草が可愛いと思う。今もそう思ったが、次の瞬間、それを否定する。  ……笑えば、許されるわけじゃないぞ。  少し意地になりながら、東雨はそんなふうに考えた。  東雨は、皇帝の命を受けて、今ここにいるのだ。これから玲陽と会話をし、信頼関係を深める真似事をする。それもすべて、皇帝の命令だからだ。  玲陽を受け入れた訳ではない。 「光理様、朝食の支度がまだなんです。ここは寒いので、お部屋に戻りませんか。もう少し横になっていても大丈夫です」  東雨の丸い声を聞きながら、玲陽はまた、ほんの少し微笑んだ。  その笑みに、東雨も思わず笑い返してしまう。  やっぱりずるいなぁ。きれいな人はこれだからずるい。  そう思いながら、胸の奥が暖かくなる。  そしてまた、それを否定する。  嫌いだ……  そうでもしなければ、自分が何をしているのか、わからなくなりそうだった。 「光理様、どうしてもここにいらっしゃるのなら……せめて、お着物だけ整えさせてください」  動こうとしない玲陽に、東雨はそう言った。 「少し待っててくださいね」  軽々と回廊に上がり、東雨は衣装部屋へ向かった。  この屋敷に引っ越してきた時、東雨は衣装部屋をあつらえた。親王である犀星にはたくさんの衣装が必要だろうと考えてのことだった。  しかし、残念ながら、犀星に着飾る気はなかった。おかげで、今に至るまで、この部屋は日の目を見なかった。  今回は役に立つ。東雨は、今こそ、その時、と意気込んで、裏地に羊毛をあしらった綿の着物を取り出した。  黒地に、柔らかい橙の模様が織り込まれた、質素だが気品のある生地で仕立てられている。  いつだったか、市場の一角で開かれていた古着市で手に入れたものだ。  一国の親王が古着屋を頼るなどおかしな話だが、すでに東雨の感覚は犀星に合わせて狂い始めている。  申請すれば、身に付けるものは現品支給される。だがそれすら、犀星は必要がないと断ってしまう。  しかし、玲陽が来た今、明らかに物は不足する。  ここは若様に言わねばならない、と東雨は改めて気持ちを引き締めた。  生活の維持のため、来たるべき冬に備えて、必要なものはたくさんあるのだ。  東雨は思いつく限りの着物を抱えると、回廊に戻った。  相変わらず玲陽はぼんやりと庭を眺めている。  なに、お客様気分でいるんだよ。  東雨は玲陽の仕草が、いちいち癇に障る。  歌仙で、玲陽は、犀家の当主として気を張っていたようであった。それがここにきて、ふっと切れたように思われた。  もともと長い間の幽閉生活、大怪我、体力の低下、心労、最後は、犀遠を失った悲しみと、犀家を背負って立つという重責。それら全てを味わった玲陽は、周囲が思う以上に疲弊してしまっているはずだ。  ……考えたら、この人も気の毒だ。  と、元来、素直な東雨は思ってしまった。 「光理様、お待たせしました」  東雨はもともと着ていた着物の上から、さらに重ね着をさせた。最後に、白い足先を見る。まるで雪のようだ。  東雨は衣装部屋を出る時に懐に入れて温めていた、綿の入った布履きを取り出した。 「足元だけは、絶対に油断しちゃだめですよ。足を温めるだけで、全身が暖かくなりますから」  東雨は人形のようにされるに任せている玲陽に、布履きを履かせる。偶然に手が触れた玲陽の足は、驚くほどに冷たかった。 「暖かいです」  玲陽が目を細める。東雨は嬉しそうに、ニッと笑った。  甘いな。  笑顔の下で、東雨も目を細めた。それは、玲陽への嘲笑が、己への自嘲か、わからなかった。 「あの……東雨どの?」  玲陽はどこか戸惑いながら言った。 「朝食の支度、手伝わせてください」  玲陽の申し出に、東雨は目をしばたいた。 「できるんですか?」  我ながら失礼な質問だ、と思ったが、止めるよりも早く声が出ていた。玲陽は照れたように笑った。 「もう、随分料理はしていないので、うまくできるかどうかはわかりませんが」 「ぜひ、お願いします!」  ここは遠慮するべきところではない。  東雨は大きく頷いた。経験上、共同作業は相手との距離を詰める有効手段だ。  よし、絶対に光理様の心を落としてやる。見てろよ……  楽しいおもちゃか、か弱い獲物を見つけたような、子供じみていて、同時に残酷な気持ちで、東雨は玲陽を厨房に案内した。  とは言え、東雨のもとの性格から、攻撃的な行動に出るつもりはない。あくまでも、自然と、当然の流れのように、友情を育まねばならない。第一、玲陽にもしものことがあれば、犀星が黙っていないことくらいは明白だ。  演技に徹してみせる。  彼は作戦方針を定めた。本気で友達になる、その方向性にブレはない。  色々と気に入らないこともあるが、それはこの際、棚に上げる。  しかしながら、本心を許す友人などいたことがない東雨にとっては、やはりどこか借り物の気持ちだ。それでもいい。重要なのは結果を出すことだ。 「光理様、厨房の仕事は子供の頃以来ですか?」  さりげなく探りを入れる。玲陽は揃っている道具を確かめながら、うなずいた。 「昔は手伝っていたんですけど……その後は料理なんてするような環境ではなかったので……」  上げ膳据え膳ではなかったということくらいは、東雨もわかっている。むしろ、食べるか食べないか、という瀬戸際だったはずだ。 「それは、料理どころじゃないですよね」  素直に東雨は言った。生きていることで精一杯、花の蜜さえ貴重な栄養となる。そんな暮らしをしていたのだから、飯の炊き方一つ忘れていても仕方がない。東雨がそんなことを思いながら、とりあえず粟を炊こうか、と腕を組んで思案していると、玲陽は手際よく、鍋をかまどの上に乗せた。 「これ、使ってもいいですか?」 「もちろん。ここにあるのは、全部自由にしてください。俺に許可を取る必要はありませんから」  東雨は気軽にそう言った。気を遣われるのは好きではない。そこだけは、犀星と意見が合致する。  玲陽は少し笑って、次に、素焼き壺の中の粟を探った。 「これ、使っても……」  と、言いかけ、 「使いますね」  と、ひっそり笑う。思わず東雨は見惚れて頷いた。慌てて顔を作り直す。 「光理様、粥を任せてもいいですか?」 「はい」  玲陽は升で粟を計り、鍋に入れる。水は本来であれば甕の中に残っているのだが、今はもう全部抜いていて、井戸に行く必要がある。玲陽は手桶を手に、勝手口を見た。 「井戸なら、ここを出てすぐですよ」 「では行ってきます」  にっこりとして、玲陽は出ていった。  なんだ、結構使えるじゃないか。  てっきり、何もできない御曹司かと思っていたが、どうやら生活力は充分ありそうだ。これは家事が楽になるかもしれない。と思う一方で、あの過保護な犀星が本当に玲陽に家のことをやらせるかどうか、という疑問も湧く。  一緒に暮らす以上は、やることはやってもらおう。面倒を見る義理はない。  と、少し強気の東雨である。  その時、回廊の向こうから慌ただしい足音がしてきた。東雨はわずかに驚いた。この屋敷で、回廊を走る人間と言えば、自分だけだと思っていた。というよりも、犀星が屋敷内を走るということ自体が不自然だった。彼はいつも余裕を持って、特に足音を立てるようなことはしなかった。 「東雨!」  自分を見つけて、犀星が叫んだ。 
「おはようございます、若様」 「陽を、見なかったか? 部屋にいないんだ!」  犀星はまるで、大切な物が盗まれた、というような顔をしている。  これは……まずい。  東雨は思わず頬を引きつらせる。まさか井戸に水を汲みにやったなどと言ったら、犀星が怒りだすかもしれない。わずかに返答にためらいが生まれる。  その沈黙を怪しんだ犀星が、勝手口のほうに目を向けると、ちょうど玲陽が手桶に水を汲んで戻ってきた。 「陽……」  犀星の顔に安堵の表情が満ちる。  東雨は珍しそうにその様子を伺い、それからなんとも言えない表情で、ため息をついた。  こんなにもコロコロと表情を変える主人を見ることになるとは。  これからは、きっと、こんな毎日になるのだろう。  そしてそれが、日常であることに慣れていく。  犀星と玲陽が並んでかまどに火を入れるのを見ながら、東雨は目元を曇らせた。  何かが、壊れていく気がする……  その日常の中に、自分の居場所はあるのだろうか。

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