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2 ふたりとふたり(1)
歌仙親王が都に戻ったという話は、明け方の東雨による市場訪問によって、あっという間に広範囲に知れ渡った。
市場の人々の犀星に対する人気は非常に高い。彼らの興味関心は、常にこの美しい親王に向けられていた。
それは、犀星が都に来た当時からのことだった。
宮中や、朱雀門前の地区ではなく、市場の裏に親王が住んでいる、という衝撃的な現実が、彼らの好奇心に火をつけた。
その親王は若干十五歳、蒼い髪と蒼い瞳を持ち、肌は玉のように白く滑らかに輝き、その容貌は仙女のそれとまごうほど。
仙女なんて、見たこともないくせに……
噂を聞いて、幼い東雨さえ呆れ返ったものだった。
噂には尾ひれがつくのが必定である。
此度、歌仙親王が半年以上前から体調を崩し、心がすぐれないようだ、ということは、皆が心配していたところだ。そんな中、燕涼景と共に故郷である南陵郡へ旅立った、との話は、街の人々の話題の中心だった。
街頭でも、客同士の会話でも、暇な店の屋台でも、誰もが二人の噂をした。
歌仙親王と暁将軍。そもそも、犀星が都に来た当初から、この二人にはつながりがあった。同郷の出であり、年も近く、そして二人とも男前だ。
しかも、涼景は犀星を重んじ、自らの屋敷を提供して住まわせた。これは、民衆の格好の肴になった。
暁将軍が、歌仙親王を囲った。しかも、浅からぬ仲らしい。
誰もが二人の間を詮索し、そのほとんどは、東雨がぎょっとする内容だった。しまいには、犀星は実は女性なのだ、ということまでが、まことしやかに囁かれた。人の想像力とは、限りを知らぬものである。
歌仙からの帰り道、犀星の一行は、夕暮れの暗がりに紛れて都に戻った。できるだけ目立たず、静かに行動したつもりだったが、その途中、玲陽の姿を見覚えていた者がいた。
歌仙親王が、故郷から、人を連れてきたらしい。
その話は、暁将軍との三角的な関係にも発展し、あっという間に『歌仙の麗人』という新しい話の種へと成長していた。人の口に戸は立てられないのは常である。
そんな状況であったから、町医者として病人を診て歩いていた安珠の耳に、歌仙親王の帰還の情報が入るのも早かった。
本当の名前は別にあるようだが、彼は街の中で、安珠の名でよく知られ、皆に重宝される医者として、日々忙しく走り回っていた。
安珠は、宮中で典医を務めていたことがある。今からもう四、五年ほど前の話だ。犀星と知り合ったのは、その頃だった。
年若く、体も心も発達途上であった犀星は、安珠によく様々な相談を持ちかけた。
体の事だけではなく、生活の中での健康管理、薬の話、食文化の話、気温の変化に対する対応の仕方、刀の稽古の際の関節の痛み、東雨が腹を壊した話。
安珠は人づてに、歌仙親王は口数が少ないと聞いていた。しかし、実際に話してみると思ったほどでもない。大人数は苦手な様子だったが、一対一で話せば会話がきちんと成立する。
しかも犀星が非常に賢く、一度話したことをしっかりと覚えていることに、安珠は感心していた。
多くの貴人は周囲に任せるばかりで、自分で何かを覚えたり、記録を取ろうとはしない。犀星も筆を取る事は稀だった。そうしなくても、彼の頭の中には安珠の語った事は一文字残らず入っているようだった。
当時から、安珠は犀星をたいそう気に入っていた。
そんな事情で、宮中を下がって、都で町医者の生活に切り替えた際にも、犀星の屋敷にはよく通った。機嫌伺いと称して尋ねては、それとなく相談事に乗った。
犀星も典医の頃と変わらず、安珠を信頼し、丁重にもてなした。
犀星が気鬱に倒れた際にも、安珠が手当てに当たった。むしろそういう時の方が、馴染みの医者が重宝されるものである。宮中から派遣されてきた医者に、犀星は一言も話をしなかった。帝の勅命を受け、安珠は犀星の治療に当たった。
そして、犀星の心から、『玲陽』という名を引き出した。
午前中の診察を一通り終えて、昼時に時間が空いた安珠は、自分の食事も後回しに、犀星の邸宅を訪ねた。
犀星のことだから、何も言わなくても、いずれ挨拶に来るだろうと思ったが、その容体が気に掛かる。こちらから訪問しても悪いということはあるまい。
「疲れているところに押し掛けて、申し訳ない」
安珠は門の外で呼びかけた。中から軽い足音がして、手拭いで手を拭きながら東雨が出てきた。
三ヶ月ぶりに会う少年は、どことなく大人びて見えた。
「東雨、長旅ご苦労だったなあ」
安珠は好々爺の顔で、東雨の頭を撫でた。
とは言え、とっくに東雨の方が安珠の背を抜いている。しかしいくつになっても、安珠にとって東雨は可愛い孫のようなものだ。
「安珠様」
東雨は礼儀正しく礼をした。犀星が大切にしている相手には自分も尽くすべきである、とまっすぐな東雨は黙って従う。本当は腹の中で、少しは薬に糖蜜を混ぜてくれたらいいのに、と思っている。
「歌仙様が戻られたと聞いてな。お顔を見たかったのだが?」
無理にとは言わないが、と、安珠は少し遠慮した。その優しい物言いに東雨は安心した。
「安珠様がいらっしゃったこと、伝えてきます。少々お待ちください」
東雨は客間に安珠を通して、素早く茶を用意すると、犀星を呼びに向かう。
その頃、犀星は自分の部屋で、これから用意しなければならない玲陽の私物や、歌仙との連絡の取り方、そして、長く都を空けていたために、溜まりに溜まった自分の仕事の整理などに追われていた。
午後には、この屋敷の警備に関わる相談で、涼景が訪ねてくるはずである。
休む間もなく、慌ただしい。
それでも、と、犀星は木簡を整理する途中で、目を上げる。
向かいに座って、玲陽が、これからの予定に目を通していた。
その静かな顔が、自分の目の前にある。
住み慣れたこの屋敷の部屋に、夢にまで見た人の姿がある。
この部屋に、玲陽は暖かい体で息づき、柔らかく所作を整え、そして、その優しい目で自分を見てくれる。この部屋に玲陽の声が響く。
これが現実だと、しばらくは信じられそうもない。
犀星は思わず顔が緩み、とてもではないが、この顔で仕事には行けないと思う。
そんなよそ行きの体裁をすっかり忘れてしまった犀星のもとに、東雨が安珠の来訪を告げに来た。
正直、犀星は一瞬迷った。
よりによって安珠である。間違いなく、自分の心情を見透かされてしまう。
安珠には、気鬱で辛いさなか、玲陽に会いたくてたまらないと告白してしまった。今さら取り繕う気はないが、それでも気恥ずかしさはある。
「わかった。すぐに行くから、失礼のないようにな」
自分の顔をどうにかしてから行く、という具体的なことを避けて、犀星は余裕のある素振りを見せた。全てを承知している東雨は、ニヤニヤしながら、はい、と一言だけ言って部屋を出る。
玲陽が顔を上げた。
「安珠様というのは?」
「昔から世話になっている医者だ。ちょうどいい、お前のことも聞いておこう」
「はあ……」
玲陽はわずかに目をそらせた。
「どうした、怖いのか?」
からかうように犀星が言う。
「怖いわけでは……」
玲陽は言いよどんでから、
「ただ、新しく人に会うことが……どう接していいか、少し不安なのです」
玲陽の素直な言葉を、犀星は心底ありがたいと思う。
玲陽は他人に対して遠慮し、常に笑顔を向け、自分を押し殺してでも、その相手の心に添おうとする。
それは優しい心根ではあるのだが、それが自分に向くことを犀星は嫌う。
自分に対してだけは、正直であってほしい。辛いことも嫌なことも全てぶつけてほしい。
玲陽の本心を受け取ることができるのは犀星だけだ。
それがひとつ、犀星の喜びにもつながっている。
この人の救いでありたい。
その一途な気持ちは、長い年月を超えても、犀星の胸に消えない光となって灯り続けている。
犀星の行動は、全て玲陽のためだ。
すべては知り尽くすことはできないが、それでも考え得る限りのことを、玲陽のためにしてやりたかった。
恩を売るわけではなく、自らの心がそれを喜びとして感じる以上、犀星の行動が変わることはない。
「心配ない」
犀星はそっと玲陽の指を撫でた。
玲陽の左手は、中指と薬指をうまく曲げることができない。
玲陽の話では、ずいぶん前に負傷し、自分で手当てをしたが、治りきらずに不自由になったと言う。
外からはわからないが、触ってみると、指の骨が中で不自然につながっている様子が感じられる。
無理に動かさなければ痛みはないと言っているが、それでもどうにかしてやりたいと思ってしまう。。
「俺のそばにいればいい。答えたくないことは答えなくていいし、不安になったら手を握って。目を合わせてくれたら、俺が助けるから」
玲陽は、その透き通る、どこまでも深い青い瞳をじっと見た。
その目は、あまりにもまっすぐに自分に向けられる。これは何かの間違いなのではと思うほどに、ひたむきだった。
安堵とともに、玲陽は犀星の手に右手を重ねた。
しっかりとうなずき返す犀星に、玲陽は口元を緩めた。一瞬目を彷徨わせ、それから、そっと犀星の唇に指を一本押し当てた。
これは合図だった。
口づけを交わすことができない二人の、暗黙の合図。
『今、私はあなたに口づけます』
その心を伝えるための、ささやかな儀式だ。
心地良さそうに目を細めて、犀星は応えた。
応接室の毛氈の上にあぐらを書いて、東雨が出した茶を飲みながら、安珠は庭の景色を眺めていた。
中庭に面したこの部屋は、この屋敷で唯一、まともな内装をしている。犀星は度がすぎるほどに、質と倹約を旨としている。だが、この部屋だけは、貴人の屋敷にふさわしく、客人を迎えるために礼を欠かないよう、整えていた。
犀星は、決して、物事を知らないわけではない。ただ、人よりも少し、効率を重んじる。なかなかに味わい深い男である。
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