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2 ふたりとふたり(2)

 安珠は東雨を相手に、歌仙での出来事をあれこれと聞いていた。特に興味を持ったのが、犀星が連れてきたという玲陽である。  そもそも、安珠が犀星から、従兄弟の名前を聞き出したのがことの発端だった。  犀星にとって、弱った心の唯一の支えが玲陽であった。医者という安珠の立場から、玲陽は、犀星の回復には必要不可欠な存在ということになる。 「それで、その玲光理という方は……」  安珠は少し思案してから、 「色々と苦労したようだな」  と簡単につなげた。  東雨は難しい顔をして、 「俺には想像もつかないような大変な目に遭ったみたいです」  東雨は、いかにも心配しています、という顔を作って見せながら、 「若様と涼景様で、つききりで手当てをしてましたけど、普通に歩けるようになるのに、一ヶ月はかかりました。それでも、回復が早いくらいだと……」  安珠はうなずいた。  涼景は医者ではないが、自分ともよく話をし、医療の心得も充分にある。その涼景がそばにいたという事は、犀星と玲陽にとって、幸運であっただろう。  本当は自分も歌仙に同行したかったが、長旅は安珠の老体には応える。余計な迷惑をかけるかもしれないと思い直し、涼景に託していた。  東雨は、安珠の心配顔を見ながら、次は何を話そうかと考え込んだ。言いたい事は山ほどある。  しかし、余計なことを告げ口して、後から犀星に叱られるのも面白くない。気難しい主人を持つと、話題選びも大変である。 「若様、遅いですね」  東雨は、回廊を振り返った。  玲陽と、何をしているのだろう?  ふと、よからぬ想像をしてしまい、東雨は勝手に嫌な気持ちになった。  ちょうどその時、音もなく犀星が姿を見せた。その後ろにぴたりと玲陽が立っている。  安珠は立ち上がると、形ばかり、丁寧な礼をする。犀星も同じように返して、礼を示す。  犀星の後ろで、玲陽は一瞬こわばった顔をしてから、静かに頭を下げた。  東雨はちらりと玲陽の顔を見た。少々緊張しているようだ。  四人は毛氈の上に腰を下ろし、向き合った。玲陽の手は、犀星の膝の上で、しっかりと握られていた。時折、犀星の指が優しく励ますように玲陽を撫でる。  その手の重なりを見て、安珠はわずかに眉を寄せた。非難するのではない。案じているのだ。  東雨の話を聞く限り、玲陽もまた、心に深い傷を負っている可能性が高い。 「ご気分は、いかがですか」  安珠は表情を和らげ、犀星を見た。  視界の端に玲陽を捉えるが、あえて目を合わせることはしない。  犀星は肩の力を緩めた。 「ここ数ヶ月は、故郷の空気も肌に合って、気持ちが落ち着いています」  少しばかり嘘も含むな、と思いながら、犀星は答えた。  実際には、父・犀遠の死があり、玲陽の身に起きた悲劇があり、心穏やかではない時間の方が長かった。  だが、こうして都に戻ってきた今、それらは遠い夢のようでさえある。  何より、この瞬間に、自分の側に玲陽がいるということは、何にも勝る幸福であると犀星は感じる。  自然と肩の力が抜け、頬が緩んで優しい表情が浮かぶ。  安珠は犀星の様子を伺い、何度もうなずいた。 「歌仙様のお顔を拝見して、安心いたしました」  安珠はあくまでも穏やかに続けた。 「お渡ししていた薬は飲まれましたか?」 「旅の途中で、何度か……」  犀星が素直に答える。 「夜は、お休みになれていますか?」 「疲れもあって、昨夜はよく眠れました」  疲れだけではなく、玲陽が向いの部屋にいるという安心感だろう、と、東雨は思った。  玲陽は、ずっとそのやりとりを伏目がちに伺いながら、時折思い出したように、ちらちらと周りを見る。  特に何かがあるわけではない。だが、玲陽は、わずかな鳥のさえずり、風の音、空気のゆらめきにまで、敏感に反応する。  その様子を、安珠はしっかりと捉えていた。  犀星は、そっと首を傾けて、問いかけるように玲陽の横顔を覗いた。わずかに目を上げた玲陽と、視線が交わる。  かすかに、玲陽は頷いた。 「安珠様」  思い切ったように、犀星は切り出した。 「少し、相談したいことがあるのですが」  来た、と、東雨は思った。  絶対に光理様のことだぞ……  東雨のその予感は当たっていた。  犀星はそっと玲陽の左手を撫でた。自分の手の下で、その指はかすかに震えている。 「古い傷が痛むようです。うまく動かすこともできず、難儀しております」  玲陽はそっと犀星の頬を見た。目を合わせることはなかったが、その視線には、支えを求めているような気配がある。 「わかりました。いつ頃、怪我をなさいましたか?」  安珠が努めて穏やかに犀星に問いかける。 「九年ほど前と聞いています」  犀星が答える。玲陽は何も言わない。目もあげない。  東雨はふと、玲陽がこの部屋に入ってきてから、一言も発していないことに気がついた。  様子がおかしい気がする……  東雨は犀星よりも、玲陽の方ばかり見ていた。  玲陽と距離を縮めるように、という皇帝の命令が脳裏をかすめたが、それがなくても、東雨は目が離せなかった。  犀星はそっと自分の手のひらに玲陽の手を乗せ、両手でかざすようにして持ち上げた。玲陽は黙って手を預けたままだ。 「ここの指が……」  言いながら、犀星が、そっと細い指を自分の指先でなぞる。 「拝見しても?」  安珠の言葉に、玲陽が一瞬、身を硬くし、わずかに手を引いた。  それを感じ取って、犀星はそのまま膝の上に手を戻した。 「すみません。今は」  犀星は首を振った。 「動かすと痛みがあるそうです。何か楽になる方法はありませんか」  安珠はそれ以上、追求しなかった。 「わかりました。一番は温めることです。もし可能でしたら、何か柔らかいものを握る練習をしてみてください。こわばりが緩んでいく効果があります。あとは……もし痛みがひどいようでしたらこちらを」  言いながら、いつも持ち歩いている箱から、薬の包みをいくつか取り出す。 「痛み止めです。強い薬なので、あまり服用は頻繁でない方が良い。日に一度にしてください」  そう言って犀星の前に並べる。  続いて薄い黄色の油紙の包みを取り出し、それも同数並べていく。 「こちらは、滋養薬です。お二人ともお疲れの様子ですから、お休みになる前などに服用いただければ」  犀星はしっかりと頭を下げる。 「ありがとうございます。お代はいつものように……」  安珠は首を横に振った。 「いや、これは私からの贈り物とさせてください。お二人が再会したお祝いだ」  犀星は、はにかんだ。それから一瞬、無表情の仮面を崩して、ほっと息をつく。  安珠は、このような犀星を見たのは初めてであった。  感受性の強い犀星の気質を安珠はわかっているつもりではあったが、それを実際に確かめた事はなかった。  気持ちを隠すのが得意な方だ。  と、安珠は思っている。その犀星がここまで抑えきれない思いを抱く。それは、玲陽が犀星に与える癒しなのだろう。  他人事とはいえ、安珠は自分までが心穏やかになる気がした。  だが、同時に、犀星の安らぎが深ければ深いほど、玲陽の様子が気になってならない。  帰り際、犀星は応接室の出口で安珠を見送った。  犀星は、しっかりと玲陽の肩に手を添え、安心させるように抱き寄せていた。そして、玲陽はただ、それを無くしては立っていられないという儚さで、犀星に身を添わせていた。  思わず安珠は、心で唸った。  長年の経験から、玲陽が抱える心の状態がよくわかっていた。  これは重症だな。  安珠はそう自分の中で診断を下した。  丁寧に見送られ、安珠は屋敷を出て表通りに出た。  彼はそのまま暁隊の詰所に向かった。  とにかく急ぎ、涼景と話がしたい。  その表情には、先程までの穏やかな雰囲気ではなく、医者としての厳しさがにじんでいた。  応接室から、私室に戻る帰り道、わずかなその距離を、玲陽はゆっくりと歩んだ。  犀星は肩に手を添え、もう一方の手で玲陽の手を握りながら、彼の歩みに合わせて静かに隣を進んだ。  昼を過ぎた中庭は、ほんの少し緩んだ空気が漂っている。  初冬の風は冷たく、玲陽の体にはこたえそうだった。  犀星も都へ来た頃、最初の冬にひどく苦しんだのを覚えている。  暖かな着物を揃え、暖の取り方を伝えなければならない。厚手の寝具で整えた牀も必要だ。  できる限りの事は全てやる。犀星の決意はゆるぎない。  だが……  と、彼は透き通るような玲陽の横顔を見た。  安珠との対面は、思っていた以上に、玲陽の心には重荷となったようだ。  気軽に受けるべきではなかった。犀星は後悔を胸に抱いた。  玲陽が見せた反応は、今の彼の精神的な不安定さを如実に物語っていた。  玲陽に生じた心の変化は、歌仙を旅立つ頃から少しずつ感じていた。  それまで、優しく微笑み、回復の兆しを見せていた玲陽が、いざ都への旅路につくと、途端に口数が減り、表情が曇るようになってきた。  旅の最中、慣れない場所で寝起きし、体力的に厳しい中で馬に揺られた。単なる疲労では済まず、大きな環境の変化は、玲陽の心の傷を刺激して、長く封じ込めていた痛みを呼び覚ました。  肉体の傷は回復の傾向にある。心はそれに逆行する。  犀星の心配していたことが、安珠とのやりとりではっきりと証明された。  危ない。  犀星の胸が騒ぐ。  玲陽が今まで十年の間、ひたすらに耐え続けてきた、死への恐怖。  心は、その苦しみに疲弊し、既に限界を超えていた。  再び、犀星と会いたい。  たったひとつの希望にすがり、生き残りたいという緊張感だけで持ち堪えてきた。それが、犀星との再会で、ついに切れた。  生きるために、傷つき、疲れた心が、バラバラと崩れていく。  心の形をとどめたように思えた歌仙での日々は、既に過去のことである。  今、この傷ついた人を癒すのは自分の役目だ。  犀星は、改めて、自分に誓った。  涼景のように医療的な知識があるわけではない。

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