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2 ふたりとふたり(3)
だが、犀星には、自分自身が心の病に苦しんだ経験と、玲陽を守りたいという強い意志がある。
ふたりで、生きていく。
その気持ちは、誰にも劣るつもりはない。
それは傲慢かもしれない。
それでもかまわない。
この人を守りたい。
玲陽がこれほどまでに傷ついたのは、自分を待ち続けたからだ。
歌仙で浴びせられた、いくつもの言葉。
玲凛や玲博の、犀星を責める、痛々しい思いと叫び。
それらは犀星に、自覚と覚悟を促した。
それに、何より、自分の心が、玲陽を笑顔にしたい。彼にそばで、ただ、笑っていて欲しい。
玲陽が自分を生かしてくれる。犀星は誰よりも、そのことを知っている。
涼景には過保護だと笑われ、東雨には、またかと呆れられる。
それでもいいではないか。
ふたりで、並んで歩きたい。
十年間、隣にいることさえできなかったのだ。
その悔しさも寂しさも、これから埋めていけば良い。
犀星は、白く色の抜けた空を見た。
冬が近い。
それでも、その先にある春を信じて、ふたりで歩みたい。
もう、一人ではない。玲陽も、そして、自分も。
それが、犀星の頬に、自然と優しい朱を差し込む。
何かを察し、玲陽は立ち止まって、そっと犀星の顔を見る。
潤んだような琥珀の瞳に、しっかりと想いを宿して。
犀星はしっかりと結んでいた手を離すと、指で、薄紅の玲陽の唇に触れた。
ここにいる。あなたは一人ではない。
そんな気持ちを、指先にありったけに込めて。
かすかに浮かぶ、玲陽の微笑み。
それが何よりも愛しい。
そっと玲陽の体を抱き寄せ、包み込む。
玲陽は黙って受け入れた。
犀星の頬に、わずかに冷えた、玲陽の肌の感触が触れた。
「がんばったな」
犀星は囁いて、目を閉じた。
玲陽は何も言わない。
ただゆっくりと、犀星の背中に腕を回して身を預けるように寄り添う。
今日の午後は、少し暖かくなりそうな気がした。
涼景は、昨日、無事に犀星たちを都の邸宅に送り届けると、その足で、都の警備に当たっている暁隊の詰所、暁番屋へと向かった。
あいつら、ちゃんとやっていただろうなぁ?
涼景は疲れた顔を、心配そうに歪めた。
自分が留守にしていた三ヶ月の間、暁隊が、平和であったはずはなかった。
街の中のあらゆる問題に関わったであろうことは、言うまでもない。だが、日常業務の範囲内でおさまらない事件が多発するのが、暁隊の宿命である。涼景がまとめるこの隊は、もともと、荒くれ者の集まりだ。内輪の火種も尽きない。
戦場を巡る間に、涼景は不思議と、様々な人種に好かれてしまった。涼景を我が子のように可愛がってくれる老兵にも出会った。兄のように慕う若者にも、喧嘩をしつつも、時折本音で弱気を見せられる友にも出会った。一人ひとりに様々な人生があり、その激しい感情の波を鮮やかに見せられるたびに、涼景は自分が生きているという実感を味わう。暁隊は言わば、涼景にとって、人生になくてはならない刺激そのものである。
そのような隊であるから、涼景の留守中、間違いなく隊士同士でのいざこざや、喧嘩、処罰の案件が山積しているはずだ。
涼景は宵闇の中を、市中の治安を確認しながら、犀星の邸宅から暁番屋まで歩いた。
犀星が住んでいるのは、庶民街の一画である。
この地域は比較的落ち着いているが、人口が多く、火災や暴動の際には被害が拡大しやすい。衛士が巡回する頻度も高く、常に人の行き来がある。特に犀星の邸宅は、敷地内には入らないにせよ、その周囲を誰かしらが見守るように配置されていた。
そこからさらに西へ向かうと、商業区へとつながっている。
こちらは、文字通り、市場を中心とした商人の街だ。人の出入りが頻繁で、外部から交易に来る者や旅人も、ここに立ち寄る。暁隊が本領発揮するのは、まさにここである。窃盗、賭博、喧嘩に傷害。荒事が絶えない。
涼景が目指す暁番屋は、さらにその向こうだ。行政機関の都の出張所が立ち並び、下級役人の家もある、半ば公的な空間である。他の区域と比べれば規律が保たれているが、それゆえの秘密主義や、役人が多いことによる政治的な噂、陰謀など、頭を使う事件が多いのが特徴だ。
最も西側には、寺院や学問所が集中している。住んでいる者たちは、どこより真面目で規律正しい。ここは形式だけの見回りにしておこう、と涼景は思っている。夜間は静寂を好むため、隊士たちの立ち入りは逆に嫌われるのだ。
これらの四つの区画は、暁隊と三番隊によって、輪番制で管轄を分散している。
日によって管轄が変わるが、暁隊は荒事を得意とする性質から、問題が起こるとどこにでも呼び出されることが多い。暴力沙汰は暁隊、政治案件三番隊、と、人々は自分たちで使い分けていた。
暁隊による都の警備は、涼景の仕事の一端に過ぎない。
彼には、宮中で右近衛隊の指揮官という重責もある。さらに戦時中は、直接、正規軍を指揮するという激務を負う。
そのような彼が三ヶ月もの間、辺境に身を隠していたのだから、都が多少混乱していてもおかしくはなかった。
詰所に戻ると、夜間の当直に当たっていた兵たちが笑顔で出迎えた。いや、笑顔に見えたのは最初だけで、すぐに、留守中に起きた出来事をまくしたてた。
誰と誰が喧嘩をした、三番隊が自分たちの管轄に口を挟むのが気に入らない、酒に酔った隊士が飲み屋で面倒事を起こした、という内輪の話題から、最近起きた強盗事件、旅人を装った詐欺事件、偽通貨の流通、一部の食品の買い占めによる値段の高騰、引いては、官吏同士の色恋沙汰までが、涼景の目の前に並べられた。普通の者なら閉口して目を背けただろう。だが、涼景は、やっぱりな、というため息をついただけで、黙って話を聞いていた。
暁隊のこの雰囲気が、涼景は好きだった。長年にわたり、中核を担っている気苦労を共にしてきた者たち、涼景を慕い、その自由な気風に憧れて入隊した志願兵。隊士のほとんどが、他の隊ではやっていけそうもない、個性的で力を持て余している連中だ。
その場で裁断ができるものにだけに答え、涼景は奥の仮眠室へと逃げ込んだ。
夜が明ければ、多忙な日常が戻ってくる。
歌仙での日々も決して楽ではなかったが、ここの毎日はまた質の違うものだ。
涼景はひとつ息をつき、硬い牀の上で久々に体を伸ばした。暗闇の中、目を閉じると、つい先ほどまで旅路にいたことすら忘れてしまう。何もかも、遠い日の出来事のようだった。
全てが終わったのか、それとも、これが始まりなのか。
大きな変化は、涼景に未知なるものへの期待と、わずかな不安をもたらした。
とりあえずは、日常を取り戻すことが先決か。
それが、どれほど慌ただしいものであっても、だ。
眠りに沈む中、涼景の瞼の裏に、留守を任せた親友の顔がぼんやりと浮かんだ。
……文句を言われるのだろうな。
そんなことを思いながら、涼景は長く、息を吐いた。
よほど疲れていたらしい。夢を見ることもなく、彼はすっかり眠りこんで、明け方過ぎの点呼の声で目を覚ました。重たい体のまま、涼景は起き上がった。軽い頭痛がするが、これ以上休むことは許されなかった。やるべきことが山ほどある。
今日の午後には犀星と、今後の警備体制について話をせねばならない。玲家の血を引く玲陽が、これから宝順の興味を引くことは明らかだった。
玲陽だけではなく、犀星もまた、身の安全を確保するため、手を打つ必要がある。犀星を試すように難題をもちかけてくる宝順への警戒は、怠ってはならない。歌仙からの帰り道は、もっぱら、そんな話ばかりしていた。
東雨のやつ、夜のうちに動いただろうな。
涼景はあの少年間者のことを思った。
玲陽を連れ帰った犀星の動きは、既に宝順の知るところとなっているはずだ。
どのみち宝順には、今日中に、帰着と現状の報告しなければならない。結果は同じだ。
歌仙での出来事は、空いた時間に文書にまとめてあった。
先に、天輝殿へ届けておこう。
目を閉じて時を稼ぎながら、頭の中で予定を組み立てる。
暁隊の朝の点呼に顔を出し、緩んでいるであろう隊士に喝を入れる。それから一度自宅に戻り、身支度を済ませ、慣れた都の食事でも口にして、気持ちを切り替えてから天輝殿へ参上する。自分が面会を求めている事は昨日のうちに伝えてあるから、すぐに会えるはずだ。手早く済ませて、右近衛隊の詰所にも顔を出したい。それから、訓練を視察し、都外苑にある暁隊の演武場にも立ち寄らねばならない。
それから……
と、涼景はさらに考えをつなげた。
それまでに暁隊の犀星邸警護の素案を頭の中でまとめ、蓮章を連れて直接訪問しよう。となれば、蓮章と落ち合うのはこの番屋がいいだろう。
涼景は、蓮章を見かけたらここに足止めしておくように、と隊士たちに伝えると、立てたばかりの計画を実行に移した。
番屋から少し北に、涼景の私邸がある。まずはそこで身支度を整え、朝食を済ませる。家人たちからは、労いの言葉よりも先に、今年の秋は実りが少なく、厳しい冬になるだろうという話を聞かされた。
そういうことならば、と宮中に向かう馬上で、涼景は考え続けた。官僚たちが、薪や食糧についての緊急合議を行う可能性がある。当然、宝順や犀星も参加する。急ぎ、予定外の警備配置を準備せなばならない。気の利く部下が、草案を作成していると助かるのだが。
また、近衛でも暁隊でも、薪の備蓄量を確認をしておくべきだろう。使用計画についても、節約する旨、すぐに再考せねばならない。近衛は心得ているが、暁隊には、不平不満を抑える対策も欠かせない。代用に酒を多めに用意してやれば、彼らも少しはおとなしくなるはずである。
厳しい冬となれば、当然、都の治安も悪くなる。物価高騰、盗みの横行、餓死や凍死への対応、など、警備責任者としての気配りにも心を向けねばならない。
考えを巡らせながら、涼景は天輝殿の階を上がった。
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