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2 ふたりとふたり(4)

 やはり夜のうちに東雨が知らせたものと見えて、宝順は終始驚いた様子もなく報告を受けた。呼び止められないうちに天輝殿を出て、その足で右衛房に立ち寄る。留守を任せている遜蓮章の居場所を尋ねれば、行き違いで暁番屋へ行ったと聞いた。  蓮章を引き留めるように言いつけて正解だったな。  涼景はほんの少し、仕事が減った気がした。  そのまま近衛武場に顔を出すと、整然とした衛士たちが彼を迎えてくれた。暁隊とは違って、近衛は出自もよく、素行の良い者たちばかりである。だが、人が集まれば何らかのいさかいが生じるのは、近衛も都番も同じことだった。見栄の張り合い、功績の奪い合いなど、暁隊とはまた違った揉め事もある。  火急の要件はない、と判断して涼景は都へとって返すと、中心を突っ切り、城壁近くの暁隊の訓練施設、暁武場に急いだ。  涼景の経験上、ここが一番、手がかかるのだ。  良い返事を期待することもなく、喧嘩がなかったか、と確認をする。  ないはずがないでしょう、と、古参の責任者が苦笑した。  隊士同士の殴り合いから始まり、訓練中の乱闘が原因の柵の破壊、野営訓練でのボヤ騒ぎ、湯の温度をめぐっての喧嘩、物干場を巡る陣地争い、果ては、どちらがより涼景の役に立っているか、という意地の張り合いまで、枚挙にいとまない。涼景も最後には笑って首を振った。 「まったく、おまえたちは……」  可愛いな。  と、思わず出かけた言葉を、そっと飲み込む。  怪我人の容体を確認し、適宜処分を下し、注意喚起を残して、暁番屋に戻った頃には、とうに昼を過ぎていた。  ようやく、三ヶ月ぶりのご対面だ。  と、涼景は気合を入れるかわりに一息をついた。  暁隊と右近衛隊で、自分の参謀をつとめている遜蓮章は、涼景の幼馴染である。  五歳で都に上がってすぐ、ふたりはふとしたきっかけで知り合い、中書侍郎をつとめていた文官のもとで、共に学問を修めた。  武芸にも興味があった涼景に比べ、蓮章は知略に秀でた軍師のような気風で、二人はよい取り合わせとして師匠からも可愛がられていた。  幼いころから、蓮章はその容貌が秀でて美しかったが、成長とともに、それはより顕著となった。  女性的な線の細さと、どこか憂いのある表情と仕草。彼は何をするにも、人目を引いた。  中でも印象的なのは、左右異彩の瞳だった。蓮章は右が黒、左が薄い灰色の瞳を持っていた。これは生まれついてのもので、髪や肌も体の左側が若干色素が薄い。片側にだけ白髪が混じるのを嫌い、蓮章は頻繁に髪を染めている。そこまでしなくても良いと涼景は思うが、蓮章にとっては、重要な身支度の一つである。  花街で蓮章を知らぬ者はいない。男女共に堪能で、その自由な気質は、さすがの涼景も黙り込むほどだ。  そんな、女と見まごう蓮章だが、その気性は誰より激しい。涼景は早いうちからそれを見抜き、何かにつけては自分のそばに置いた。  涼景の見立ては的確だった。  荒くれ者ぞろいの暁隊を相手にしても、蓮章は一歩も引かなかった。自分より体格も良く、腕力も武力も勝る隊士たちに、正面から相対して譲らない。それどころか、ことあるごとに衝突し、それを楽しむほどである。  ここまで喧嘩っ早いとは思わなかった、と、酒を飲むといつも涼景は愚痴をこぼす。そんなとき蓮章は決まって、嬉しそうに笑っていた。  性格に多少の難はあっても、蓮章は涼景の信用を勝ち得ていた。それは確固として揺るがない。  蓮章は誰より涼景の気性を理解して、どのような無理難題にも、辛辣な不満を口にしつつ、的確に応えてくれる頼もしさがあった。  そのため、今回も涼景は蓮章に留守を任せていた。  しかし、三ヶ月という時間は長すぎた。涼景は暁番屋の自分の部屋に入るなり、鋭い視線に容赦なく射抜かれた。 「遅すぎる」  蓮章はその妖艶な容姿に合う、軍人とは思えない艶やかな出立ちで涼景の席に座っていた。どう見ても、花街の男娼が休日にくつろぐ風体である。  涼景は苦笑しつつ、蓮章の隣に腰を下ろした。 「遅すぎる」  蓮章は繰り返した。久方ぶりに会う親友が心底不機嫌であることを、その形よく歪められた目元が雄弁に語っていた。 「悪い」  涼景は少しだけ、肩をすくめた。 「この埋め合わせはちゃんと考えるから」 「そういうのはいらない」  蓮章は乱暴に息を吐き、 「まったく、こんなに長いこと……俺を過労死させる気か」 「すまない」  涼景は繰り返した。それからふと真顔になって、 「もう一ヶ月、遅く帰るべきだったな」 「はん?」 「そうすれば、お前の不機嫌な顔も見なくて済んだかもしれん」  暗に、お前はとっくにこの世にいなかっただろうから、という含みである。  蓮章は無言で涼景を睨みつけた。にやにやしながら見ている涼景は、今朝からの忙しさを忘れているようだった。  蓮章はしぶしぶと嫌味を引っ込めて、代わりに木簡を丸めた太い束をふたつ、涼景の前に差し出した。 「涼、おまえがさぼっていた間の記録だ。見ておけ」 「おう」  涼景は閉じ紐を解いた。じゃらじゃらと、紐で綴られた木の札が床にまで落ちて広がった。木札には、蓮章の細く震えるような繊細な文字が、びっしりと並んでいる。最初の数行は、涼景が歌仙に発った日の、暁隊の動きについてだった。 「それから、こっちは近衛の分」  蓮章は脇にあった竹籠から、同等量の記録を出すと、涼景の膝に乗せた。 「え?」  涼景が目元を引き攣らせた。 「それからこれが、番屋に直接持ち込まれた民の要望一覧」 「…………」 「それから、宝順が言いつけてきた、今後の警備依頼をまとめておいた」  と、次から次へと、木簡を重ねていく。 「……手の込んだ嫌がらせを……」  合計九巻を積み上げると、蓮章は気が晴れた、というように険しかった顔をすっかり緩めた。 「読んどけ」 「俺が悪かった!」  涼景は思わず、匙を投げた。  ちょうどそこへ、衛士の一人が顔を出した。 「お楽しみのところ、すみません」  一部始終を見ていたらしいその衛士は、にやにやしながら、 「梨花様、頼まれていた資料、お持ちしました」 「まだ何かあるのか……」  涼景の顔が蒼白になる。 「最新の情報が必要だと思ってな」  蓮章は立ち上がって衛士から一枚の木簡を受け取ると、ひらひらと手を振って見送る。 「蓮、それは?」 「ああ」  振り返った蓮章は、もう、笑ってはいなかった。今度は涼景の前に座り、整った指先で資料を差し出す。 「まず、目を通してくれ」  涼景は言われるままに書面を確認した。目で追うにつれて、次第と表情が険しくなる。 「花街でこんな……」  涼景は声を低めた。 「今朝の事件だ。時間の猶予はなかったが、仔細を報告するように頼んでいたんだ」  蓮章は目を半分閉じて、床の板目を睨むように見つめた。  涼景はもう一度、丁寧に報告を読んだ。  都の北西にある花街で、今日の未明に発生した傷害事件のあらましが書かれていた。被害者は一人の女郎だった。昨夜から客をとり、今朝、店の主人が見回りをしている際に、寝間で気を失っている女郎を見つけた。その背中には、焼印のようなものでつけられたと見られる火傷のあとが残されていた。遊廓には他に何人もの人間がいたが、誰も悲鳴は聞いておらず、また、その部屋にいたはずの客も行方知れず、とのことだった。 「場所が場所だからな」  蓮章は声を抑えた。 「このことが歌仙親王の耳に入れば、どうせおまえが出ることになる。ならば、他の隊が介入する前に、暁が動いた方が早い」 「そうだな」  涼景は頷いた。  花街と犀星には深いつながりがある。  都に来た当初から、犀星は自分の力をどこかで試したいと考えていた。  そこで取り組んだのが、治水工事を通して成果を上げるという道である。もともと歌仙は水の扱いに慣れた土地で、犀星にもそれなりの心得があった。しかし、実際に都で試すとなると、場所が問題だった。  貴人たちの縄張りである宮中は、紅蘭で最も設備が整っていた。しかし、犀星の目には充分とは思われなかった。早速、手をつけようとしたのだが、わずか十五歳の少年に任せてもらえるはずもなく、官僚たちから許可は下りなかった。また、市街地も、あまりに広大で、犀星が手出しできる状況にはなかった。  検討を重ねた結果に浮上したのが、花街だった。当時の花街は、宮中の誰もが見向きのしない、放任された場所であった。そこをどうしようが、誰からも文句は出ない。その無関心をよいことに、犀星は迷わず花街を選んだ。  都の北西に位置し、面積も広すぎず、さらに、都の外を流れる川との位置関係も都合がよかった。  犀星の治水工事に関わる計画は年月を経て、花街の人々にも受け入れられ、大きな成果をあげた。犀星もそれに感謝し、大切に思っていた。  こうして築かれた歌仙親王と花街とのつながりは、今なお、続いているのである。  蓮章が心配したように、花街で事件が起きれば、犀星が放っておくわけがない。犀星が関わるということは、すなわち、涼景も道連れだった。  花街は三番隊と暁隊の管轄ではあったが、もともと自警団を組織しており、排他的である。そのため、涼景たちが巡回することはない。しかし、歌仙親王の王旨があれば、介入も容易い。 「このあと、ちょうど、星のところにいく。俺から話そう」 「ああ。どうせならさっさと動きたい」  蓮章は気だるそうにため息をついた。報告書を懐に入れながら、涼景の頭に、唐突に疑問が浮かんだ。  ……待てよ?  すかさず、蓮章を見る。 「蓮、おまえ、今朝、未明に起きた事件のことを、どうしてこんなに早く嗅ぎつけた?」  蓮章は、眉ひとつ動かさなかったが、静かに目をそらし、そっぽを向いた。

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