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3 知らぬ思いのその色は(1)
さて、どうしたものか。
涼景は、片手で餅と干肉をかじりつつ、犀星の私邸へと急いでいた。昼食を食べる間も惜しかった。慌ただしい彼の毎日の、日常の一幕である。
蓮章は落ち着いた顔をして、少し後ろをついてくる。涼景に反して、蓮章はいつも飄々としていた。涼景が戻ったことで暁隊の混乱は少しは収まるだろう。涼景がいるのといないのとでは、隊士たちの態度はまるで違う。蓮章も体を張って止めてはきたが、彼らの自由奔放ぶりを本当に制御できるのは、国広しといえども、涼景だけである。
「どう思う?」
涼景は前を見たまま、出し抜けに問いかけた。
「なにが?」
蓮章は興味なさげに応じた。
「だから、陽のこと」
蓮章は、
「そう言われても、俺はその玲陽という人間を知らない」
と、少し拗ねたような口ぶりだった。涼景もそれ以上は黙った。
先ほど番屋を出る時、突然、町医者の安珠が訪ねてきた。犀星に会ってきた帰り道だという。安珠の話では、初めて玲陽に会ったが、少々様子が気がかりで、涼景にも気をつけて見てほしいとの頼みだった。
蓮章は安珠の話を思い出しながら、
「辛い経験がたたって、気持ちが病んでいるっていうんだろ? その玲陽ってのは、どんな目にあってたんだ?」
と、気軽に聞いた。涼景は返答につまった。
玲陽が過去に経験したことは、一言では収まらない。また、白昼堂々と、人前で話せる内容ではなかった。
「本当のことを言うと……まあ、なんだ」
と、言い淀み、間を持たせるように肉を噛み締めた。
「つまり、だな……そういうわけで……」
「…………」
「だから、何が起きてもおかしくないってことだよ」
そう言って、もうそれ以上勘弁してくれという顔をする。
まったく意味がわからない。
しかし、蓮章はこういうときには無理に聞かなかった。
「そうか、わかった」
と、だけ、そっけなく答えた。
脇道の奥の奥に犀星の邸宅がある。涼景が貸したきり、そのまま使っている建物だ。空き家にしておくよりは人が住んだほうが良いからと、涼景は家賃も取らずに放ってある。
その代わりと言うように、よく訪ねては飯を食っていく。犀星は倹約家で、美味いものが出てくることはない。飯の質や量より、犀星と語り合える時間が涼景にとっては貴重で、月に何度も戸を叩く。おかげで東雨には、すっかり嫌われてしまった。厨房の壁には、東雨が書いた『涼景様の食事代、未納分』の記録が、わざと大きく掲げられていた。
屋敷の周りで何人かの暁隊の隊士を見かけた。手をあげて挨拶すると、彼らも笑顔を返してくれた。このような日常が涼景には嬉しい。
涼景たちは黙って門をくぐり、前庭に入る。勝手知ったる家だ。
「星、いるか?」
と、涼景は気のない声で呼びかけた。返事がなくても、一向に気にしない。
居間に面した回廊から中庭を覗くと、見慣れない光景が広がっていた。
回廊の軒下に東雨と玲陽がいた。二人は談笑しながら、大根を紐にくくりつけている。
「光理様、無理しないでくださいね、左手、痛いでしょう?」
「大丈夫です。紐を結ぶだけなら……」
彼らの頭上には、すでに等間隔に麻紐で吊るされた大根が揺れている。
「東雨どの。どれくらい干すのですか?」
「この時期なら、だいたい七日くらいです。そのあと塩漬けにして……春には美味しく食べられますよ」
「楽しみですね」
それは、あまりに平和な日常風景だった。
「うまくできたら、俺にも分けてくれ」
涼景が声をかけた。玲陽たちがこちらを向く。
「涼景様」
と、玲陽は嬉しそうに微笑んだが、
「あ……」
涼景の後ろにいた蓮章に気づいて、玲陽は全身が固まった。目を見開いて、大根を右手に持ち、左手に麻紐を持った姿勢のまま、頭の中が真っ白になる。
東雨がそれを見て、慌てて庇うように、玲陽の前に出た。
「あー、蓮章様もご一緒でしたか」
と、わざと声を張り上げる。聞きつけて、奥の部屋から犀星が顔を出した。そして、硬直している玲陽に気づく。
「陽、大丈夫だ」
言って、犀星は音を立てずに玲陽の隣に立った。
「心配ない」
優しく声をかけながら、玲陽の手から大根と紐を受け取って、東雨に渡す。
犀星の顔を見て、玲陽は、やっと息ができる、というように肩を揺らした。無意識に犀星の陰に隠れるように体をずらし、そっとその髪に鼻をすり寄せる。かすかに震えながら、まるで匂いを確かめるように浅い呼吸をする。
犀星は何も言わずに玲陽を受け入れ、肩に触れる。それから、ちらりと涼景たちを振り返った。
少し待ってくれ、と目で伝える。
犀星は、玲陽の引きつった顔に、静かに微笑みかけた。
「陽、彼は遜蓮章だ。涼景の幼なじみだよ」
玲陽は、こわばっていた関節をゆっくりと動かして姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
犀星は玲陽の横にピタリと体を寄せて、支えるように腕を取った。
それを見ていた蓮章は、明らかに異様な顔をした。驚きとも困惑ともつかない、とにかくどうしていいかわからないという顔だ。それを見て涼景が吹き出した。
「やはり、そういう反応になるよな」
と笑いを隠さない。蓮章は面食らった顔で、
「おい、どういうことだ? 親王が……」
と、もう一度、犀星を見つめた。
歌仙親王が、誰かと体を寄せ合い、微笑み、視線を交わし、しかも、相手の腕を大切そうに抱いている姿は、ここ十年間の蓮章の常識を一瞬でぶっ壊すのに十分だった。
「なんなんだよ、これ」
途方に暮れた蓮章の呻きには、どこか間の抜けた無防備さがあった。玲陽は恐々と蓮章を見た。犀星がぎゅっと腕に力を込めた。
「陽、どうする?」
ふたりにしか聞こえない声で、犀星は囁いた。玲陽は少し首を傾げてから、犀星の顔を見つめ、小さく頷いた。
「大丈夫です」
犀星は答えて頷き、抱いていた腕を滑らせるようにほどくと、最後に手を取った。その手は離さない。
流れるような一連の動きを、蓮章はため息をついて眺めていた。これは夢だ。
「ああ、ここ、寒いですから、中でお茶でも!」
と、東雨が大根を木箱に片付け、部屋に上がっていく。
中庭に面した居間に、男が五人、ひとつの一つの火鉢を囲んで座った。犀星が置いた火鉢は、心なしか、玲陽に近い。
蓮章にとって、理解が追いつかない複雑な一時が始まった。
歌仙親王がどのような人物なのか、彼なりに理解していたつもりだったが、その全てが崩れ去った今、新たな人物像の構築が必要だった。それも急務だ。そうしなければ、目の前で起きている出来事が全く飲み込めず、話が頭に入ってこないのだから。
「つまり、だ」
と、蓮章は自分の言葉で整理したい、というような顔で、
「光理は親王の従兄弟で、幼なじみで……そして、まぁそういうことか」
と、最後は言葉を濁した。
「まぁそういうことだ」
と、涼景が湯呑みから茶をすすりながら、ゆうゆうと答える。
斜向かい席で、犀星と玲陽は中庭の方を眺めていた。ただ並んで座っているだけだというのに、そのあたりの空気が甘い。
……やはり、これは夢だ。
蓮章は、現実から逃げるように目をそらした。
決して犀星の変化を拒むつもりはない。だが、現実を受け入れるには心の重労働が必要だった。
話に入る前の時点で悶絶している蓮章を尻目に、涼景は涼景なりに考え込んでいた。
安珠が言った通りだな、と涼景は心の中で深く嘆息した。
面倒見のいいあの医者は涼景に、玲陽の様子を気にかけろと言った。体の怪我のことかと思ったのだが、心の問題だと説明されたとき、はっとした。
砦から助け出されたとき、玲陽は生死を彷徨う大怪我を負っていた。そして、そこから信じられないほどの回復を見せた。彼の強靭な精神力を、近くで治療にあたっていた涼景は見てきた。
だからこそ、見落としていたのだと思う。玲陽は強い。その思い込みに甘え、油断してしまった。
玲陽が、十年間という長い間を、孤独の中でどのような思いで過ごしていたのか。
そして犀星に救い出され、安心と安全を与えられ、ようやく緊張が解けた後、何が起きるのか。
玲陽は今、傷ついた心を無視できない状況に追い込まれていた。その深い傷を、どう癒していけばよいのか。
安珠はそのことを心配していた。
涼景は、湯呑みの湯気の向こうに犀星と玲陽を眺めた。
玲陽は怯えた顔をして、蓮章に対しても、まだ警戒心を捨て切ってはいない。玲陽の仕草は常に落ち着かず、先ほどから小さな物音がするたびに、そちらに目を向ける。風の音にさえ、不安になるようだ。大通りの方から物売りの声が聞こえてくると、犀星の手をぎゅっと握って何かに耐えている。
これは重症か。
さすがに涼景にも、それが見過ごせない症状であることはわかった。玲陽は甘えているのではなく、心底、怯えているのだ。
それなのに、玲陽の本来の性格のためか、少しでも普通でいようと無理をしている様子が見て取れる。物音に体を震わせても、少しすると姿勢を正して座り直す。犀星と蓮章の世間話も、笑顔で聞こうとしているが、その口元は引きつっている。目にいたっては、まったく笑っていない。
そして、ずっと、犀星の手を離さない。まるで、手を離したら生きていけないという切実さが、指先に揺れている。
歌仙で玲陽の看病に当たっていたとき、その手を取るのは犀星の方からだった。
涼景が、いい加減にしてくれ、とぼやくほど、犀星から玲陽への強い依存が見られた。
しかし、今は真逆だ。
落ち着いてきた犀星に対し、今度は玲陽の方が頼り切ってしまっている。このような心理的な病は非常に繊細で、何気ない言動が致命的に心を壊すことも少なくない。
涼景にはその難しさはわかるものの、具体的にどうすべきか、という手段はわからない。安珠からは、観察して報告するだけで良い、と言われている。
確かに、俺には何もできそうにないな、と涼景は諦めと悔しさが入り混じった結論を出した。
それにしても、と、犀星を見る。
自分と同じく知識もないはずの犀星が、玲陽に対して一切の迷いのない態度で接している。玲陽の反応に敏感に対応し、まるですべてを受容するようにそばにいる。
しかもそれは、一つ一つがとても丁寧で、適切である事は明らかだった。
こいつ、どこでこんなこと覚えたんだ? いや、直感か。
涼景は、犀星を見ながら、首をかしげた。
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