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20 祥雲、出る
厳しい冬が、ぬくみはじめた陽射しに溶け、凍りついていた雪の下から、すこしずつ、春が芽吹いてくるころ。
五亨庵の裏庭に、静かに玲陽は佇んでいた。
午後近くの日の光が、黄金の髪にやわらかく宿っている。
庭の残雪も、あと数日で大地へ帰るだろう。
吹く風は、確実に新しい季節の到来を告げている。
胸深く吸い込む空気は、優しい土の香りだった。
玲陽は桂の木のそばで、その枝を見上げていた。足元には、小さな石の塚があった。
この木を愛した少年のために、緑権が作った供養塚だ。
結局、言いそびれた。
玲陽は浮かない顔をした。
すっかり落ち込んでしまった緑権に、犀星さえ、真実を告げる勇気がでないまま、冬が終わろうとしていた。
録坊で、東雨の死を告げた。
それは事実上、一人の少年がこの世から消えたことの証明だった。
そして同時に、新しい名を得た青年の、旅立ちでもあった。
兄様、素敵な|字《あざな》をくれましたよ。
初めて木札に書かれた『弟』の名を見て、玲陽は幸せだった。
名は、実を取るための武器であり、生き残るための道だ。
犀星は確かに、ひとつの名と引き換えに、守るべき命を生かした。
誰もが諦めていた扉を、開いた。
さすがは、私の見込んだ人です。
玲陽は誇らしく、微笑んでいた。
「新芽がでましたね」
枝の先の透き通る緑色を見て、玲陽が小さく、独り言を言った。
「早く戻ってください。一緒に摘む約束です」
この葉が開き、ひとつふたつの季節を超えて、燃え上がるように輝いて命を遂げるとき、自分たちは並んでその色を見ていることだろう。
玲陽の胸の鼓動が、力強く時を打った。
気配に気づいて振り返ると、そこには眼に涙を溜めた緑権が立っていた。
緑権は黙って、供養塚の前に、しゃがみ込み、手を合わせた。
塚の下には、東雨が最後に身につけていた袍が埋められていた。
あれ、兄様の着物なんですけどねぇ。
と、玲陽は複雑な気分だった。
第一、東雨は安珠のもとで順調に回復している。
玲陽は、緑権の丸まった背中を見下ろした。
謀児様は、一体、誰に祈っているのでしょうか……
「謀児様、誰のお墓ですか?」
突然、若々しい張りのある声が、庭に響いた。
玲陽は振り返ると、満面の笑みを浮かべた。
犀星に付き添われ、青年がそこに立っていた。
「誰って……」
こちらに背を向けたまま、緑権がすすり泣いている。
「東雨どのの……」
言って振り返り、緑権は凛々しい眼差しを向ける青年を見つめた。
一瞬、誰かわからない。
犀星が、少し首を傾げた。
「謀児、紹介する。近侍の犀|祥雲《しょううん》だ」
「……よろしく! 謀児様」
祥雲は、にっこりと笑った。
五亨庵に、緑権の絶叫が響き渡った。
小道の山桜に、最初の一輪が花開いた日の出来事だった。
新月の光 第二部 完
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