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19 月欠けるとも(3)
慈圓はようやく、犀星を呼び、その顔を見ることができた。
犀星は穏やかに慈圓を見つめた。その表情には、苦痛から脱した疲労が残っている。しかし、眼はしっかりと意志をたたえ、自信に満ちている。
「まこと、無茶をなさいましたな」
慈圓が皮肉めいて笑う。
「おまえこそ。さすが年の功だ」
犀星はわずかに微笑んで言い返した。
宝順の無体を、犀星自らが囮となって周囲に見せつけ、効果ありと見極めて慈圓が収める。捨て身と博打の大芝居だ。
裳の裾を正して、犀星は立ち上がった。優雅に官僚たちを見回す。ざわめきがおさまり、彼らの視線が十分に自分に向いたことを確かめると、犀星はまるで舞うように、美しい仕草で深々と礼をして見せた。身を起こし、かすかに首を傾げて微笑する。
それは、皇帝に降った親王ではなかった。
勝利を得た者の風格だった。
官僚たちは呆気にとられ、ただ、立ち尽くして、玲親王の立ち去る後ろ姿を見送っていた。
それは、蒼氷の親王が、さらに存在感を高めた見事な幕引きであった。
全身を焼く痛みの激しさは、東雨にこれ以上ないほどの、生きている実感をもたらした。
大声でのたうち回りたい激痛が、容赦なく突き刺さってくる。それでも、何も感じなくなるよりはマシだった。
一晩のうちに自分に起きた、ありとあらゆる出来事は、全てが東雨の制御を超えて、ただただ、翻弄されることしかできない現実だった。
その嵐は、いまだ続いている。
この体に何もかも、刻み込まれ、そして、奪われた。
それでも奥底に隠した、たった一つの魂だけは、まだ確かに自分の身の内にある。その証明こそが、今、自分を焼いている、この痛みなのだ。
判然としないくぐもった響きで、自分を呼ぶ声がする。
もっと呼んで欲しい。もっと強く、何度も何度も自分を呼んで欲しい。その声がどれだけ自分を救ってくれるか、力づけてくれることか。
優しい響きだ。
繰り返し、この声に呼ばれてきた。
もっと聞きたい。
それが誰の声なのか、東雨には考える余裕はなかった。ただ自分が望む声だと言う事だけは、間違いなかった。
それだけでいい。
体の中に、焼けた火の棒でも差し入れられているような痛みが、おさまることなく東雨を苦しめていた。時折それは激しく蠢き、火花を散らして、心まで焼け焦げる。
耳元で、一際大きな声が自分を呼んだ。
「目を開けろ」
乱暴な口調なのに、安心できた。
知っている。俺はこの声の主を知っている。
東雨は、うなるようにその名を呼んだ。
聞き取れたのだろうか。声はより一層強く自分を呼び、この熱い世界から引き上げようとしているようだ。しっかりと腕を掴まれた気がした。
「目を開けろ。いい加減に、安心させてくれ」
泣き声のように聞こえた。
東雨は、その声にすがって、目を開けた。
どこにいるかも、何を見るべきかもわからなかった。ただ、目に映ったものを受け入れた。
真っ先に、自分を覗き込む、必死な顔をした男が見えた。
初めて見る涼景の表情が、そこにはあった。
「おまえ、泣けるんだな……」
一番はじめに、東雨はそんなことを言ったように思う。よくは覚えていなかったが、その言葉を聞いた涼景の目が、ふっと緩んで優しくなった。低く震える声が言った。
「うるさい。寝ちまえ」
目を覚ませだの、寝ろだの、わがままだ。
東雨は笑ったつもりだった。
体は辛いのに、心は素直だった。
涼景の大きな手が、そっと額に触れた。
力強い手に、優しく撫でられるのも悪くない。
東雨は目を閉じた。意識は、途切れ途切れで、時間の感覚がおぼろげだ。
そして、目覚めるたびに、体を襲う痛みは、その性質を変えていった。少しずつ荒れ狂う業火は、揺れる炎へと変わり、赤い炭のようにじりじりと灼けつく熱になる。
何度目だろうか。東雨が目を覚ましたとき、部屋の中は暗かった。灯火が一つ、視界の隅にあったが、周りは闇に沈んでいて、誰がどこにいるかもわからない。
傍に気配があって、人がいることだけはわかった。
「だ……れ?」
やっと自分の意思で、言葉を紡ぐことができた。
「誰?」
答えて欲しくて、東雨は繰り返した。
気配がふっと調子を変え、衣擦れの音がして体を動かしたのがわかった。
「東雨」
疲れて、かすれた声が自分を呼んだ。灯火が動いて、自分の枕元に寄ってきた。その光の中に涼景の顔があった。
東雨は少しがっかりした。それが涼景にも伝わったらしい。唇の端を歪めて、小さく皮肉っぽく笑う。
「星じゃなくて、悪かったなぁ」
そういった声は、深い優しさに溢れている。
東雨は、まつげのあたりがヒリヒリと痛むのを感じた。眠たいような、汗が染みるような、そんな痛みだ。
「俺、生きてんのか」
思わず、東雨はそう言った。
「ああ、死に損なったぞ」
「……あんたのせいで?」
「俺のせいだけじゃない」
涼景は首を振った。
「おまえを知る、みんなの力だ。わかるか?」
「……ああ」
東雨は、ぼんやりと油灯が照らす天井の陰を見た。子供の頃にも、同じ天井を見上げたことがあった。
「ここ、安珠様の?」
「そうだ。もう、何も心配はない」
「そう」
自分が、誰かとこんな口調で話すなど、想像したこともなかった。だが、それは驚くほどに自然で、苦しくない。心に張り付いていた何かが剥がれ落ちて、そのままの自分が、むき出しになっている。それが逆に心地良い。
自分を焼いた痛みの炎は、自分の仮面を全て、灰にしてしまった。もう、戻らない。
「余計なお世話だったか?」
涼景が太い指で、東雨の額を撫でた。汗ばんだ髪がそっとよけられる。
「余計なことじゃないけどさ」
東雨は、顔を歪めた。
「余計じゃないけど、痛い」
正直な気持ちだった。涼景は、ひとつ鼻で笑った。
「笑うな。本当に痛いんだ」
「我慢しろ」
「死ぬほど痛い」
「死にはしない」
「お前に何がわかる?」
「わかる。お前が死なないってことだけは、わかる」
力強い言葉だった。
「痛くてたまんないよなぁ」
涼景が、少し声を優しくした。
「なら……」
と、東雨の口元にそっと何かを近づける。
東雨の鼻に、かすかに甘い匂いがした。激しすぎる痛みで感覚が麻痺し、嗅覚も鈍っていた。だが、それがとても懐かしい、あの匂いだということだけはわかった。
「おまえの『若様』からの差し入れだ。気がついたら真っ先に食わせろって、うるさく言われている」
東雨はおとなしく口を開いた。涼景はつまんだ杏を、そっと東雨の口の中に入れた。舌の上に乗せ、最後に、指先で柔らかく、乾いた唇に触れる。
口の中に、甘さとかすかな酸味が広がった。
それは、たった一粒で、一生、生きていけるのではないかという味がした。
満足そうに杏の蜜漬けを含む東雨を見ながら、涼景は自分の指についた蜜をぺろりと舐めた。
これで役目は全て果たしたという顔で、ほっと息をつく。東雨は、ただ黙って味わいながら、おとなしくそこに寝ていた。
犀星が届けてくれた懐かしい優しさは、東雨に、現実を受け入れる強さをくれるようだった。
すっかりと手の中に馴染んでいた髪紐を、指先で弄ぶ。その紐の先は、懐かしい日々と繋がっている。
少しずつ、記憶を呼び覚ましていく。
宝順に石の間に連れていかれた時、東雨は最後まで笑っていようと思った。
実際に叶ったかはわからないが、あの瞬間にそう思えた自分が誇らしかった。
俺は最後まで、本気で輝こうとした。
自分をそうさせてくれたのは、犀星であり、玲陽であり、今ここにいるこいつだ。
東雨は、ちらっと横目で涼景を見た。
優しい目で、涼景は自分を見ていた。
明かりは一つしかないのに、その顔は、まるで眩しいと言わんばかりだ。東雨には、そんな涼景こそが眩しかった。
十年間、ずっと自分を警戒し、いつ自分を斬るかわからない相手だった。
敵だと、思い続けてきた。しっかりとその行動を見張る必要があった。
だからこそ、東雨は誰より、涼景を見つめてきた。涼景もまた、信用ならないからこそ、東雨を見つめてきた。
結果として、互いに、深く知りすぎた。それが、自分たちの築いてきた関係なのだと、今、東雨はしっかりと思い知った。
「星がくれたものなら、ちゃんと受け取るんだな」
着物も、紐も、杏も……そして……
涼景は、意味深なことを口にした。
わからない、と、東雨は、眉を少し動かした。
涼景はただ、微笑んでいた。
夜半に、診察を終えて庵に戻ってきた安珠と入れ替わり、涼景は外に出た。
その口元は、満足そうに緩んで、眼にはおだやかな色があった。
片付けなければならない仕事は多いが、今夜はゆっくりと歩きたかった。
暁番屋までの道を、静かにひとり行く。
息は白く、暖かかった。
見上げれば、細く弧を描いた月があった。
明日は新月だ。
暗い雪の夜道は、普段より一層、静かだった。
月はめぐる。
次の満月を、恐れる必要はない。
もう、この世界に『東雨』はいないのだ。
暁番屋の篝火が見えてくる。門番が壁に持たれて腕を組み、うつらうつらとしていた。
涼景はやれやれと思ったが、機嫌は良さそうだった。
花街においても、朱市や矢倉の一件でも、暁隊には救われた。彼らの普段の素行が改善されることはないだろうが、だからこそ、頼りになる仲間たちだ。
こそばゆい気がして、涼景は、襟から、懐刀を取り出した。
柄の青い石に、篝火の火が、まるで水面に映る月のように揺れていた。
「もう、必要ないな」
涼景は、小さく言った。
「おまえには、もう、必要ない」
篝火の薪が、火の粉をあげて崩れた。その音で、門番が目を覚ました。
涼景は短刀を、自分の襟の間に大切そうにおさめた。
「あ!」
「ん?」
涼景が顔を上げると、門番の隊士と目があった。彼は、まずいものを見た、という顔で、少し、顔を背けた。
翌日、暁隊には、ひとつの噂が広がった。
涼景が例の美少女に振られ、懐刀を突き返された、という話だった。
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