61 / 63
19 月欠けるとも(2)
犀星の髪を結うために、櫛で梳かしていた時、ちょうど録坊から玲陽が戻ってきた。そして、目が合うなり、凄まじい剣幕で怒鳴られた。おとなしかった玲陽がここまでになったかと、蓮章は思わず吹き出した。
誤解は解けたが、それでも玲陽の機嫌は収まらなかった。今にも爆発しそうな玲陽に遠慮しつつ、犀星の髪を整え、化粧を施し、衣服を選び、着付けまで手を貸した。
まるで白菊のように清らかな姿に犀星を仕立てあげ、天輝殿まで護衛した。送る間、慈圓からはここ最近の言動について説教を喰らい続けた。
「とんだ災難だ」
と、蓮章は頭を振った。
「自業自得だ」
涼景が少し眠そうに、それだけ言った。
蓮章は、東雨の体を目で追った。
大きな傷は、下腹部のものだけだが、致命傷だ。
回復したとしても、東雨の人生を一変させることは間違いなかった。
「なぜ、こんな真似を? 殺すなら、一思いにやればいいものを……」
狂った宝順の性癖、と言えばそれまでであったが、そのむごさを呪わずにはいられない。
涼景はゆっくりと声を低め、
「東雨を殺せない事情が、あったのだと思う」
そう言って、涼景はそっと東雨の左耳の後ろを蓮章に示した。覗き込んだ蓮章の目に、薄く赤く蝶の形の痣が見える。
涼景は苦しそうに、
「宝順も、同じ場所に、同じ痣がある」
その声は平坦で、努めて感情を押し殺している。蓮章の目がゆらめき、そして涼景と同じように歪んだ。
「殺せはしないが、せめて、落胤を絶った、と?」
身の毛がよだつ。蓮章は知らず知らずに、手に力が入った。
「その場では止めを刺さなかっただけだ。助けたわけではない」
「そのまま死んでも、構わないってか」
「それが、あいつだ」
涼景が、狂うほどの怒りを抑えていることが、蓮章にはわかっていた。
「涼、おまえ、少し眠れ。酷い顔をしてる」
薬を選んでいた涼景の手が、止まった。
「こいつが目を覚ましたら、いくらでも寝てやる」
東雨の呼吸は乱れているが、息があるということ自体が救いだった。
蓮章は、閉じられたままの東雨の目を見た。つい先程まで、同じように、開かれることない白い瞼を見つめていた。
「目ぇ、開けろよ」
聞き取れないほどかすかに、蓮章はつぶやいた。
涼景は黙って、その顔を少し後ろから盗み見た。
蓮章が、ひとつの死を見届けてきたことを、涼景は直感した。
長くそばにいると、見えてしまうものだな。
涼景は薬草に水を足し、鉢で練り合わせた。新しい布に塗布し、蓮章と交代する。東雨の傷から滲む血は少しずつだが、確実に減っている。そこにさらに薬を重ね、油を塗り、紙を置き、圧迫する。
そのままでは傷口が盛り上がり、尿道が塞がって命に関わる。そのため、細い管を差し入れて癒着を防いでいた。
わずかな手当の遅れが命に関わる瀬戸際で、考えられる限りの処置が施されていた。
東雨の身体的な負担が大きいことは、言うまでもない。だが、それ以上に、生き残った彼が背負う、精神の痛手は想像を絶した。
この少年に、いったい、どんな罪があったというのだろう。
蓮章はふと、東雨の手を見た。柱の布で固定された色褪せた指の中に、汚れた緑の髪紐が、しっかりと握り締められていた。
蓮章にはなんとなく、その意味が察せられた。
ふと思い出して、蓮章は、腰紐に下げていた小さな油紙の包みを、その枕元に置いた。涼景が目で追い、問うように蓮章を見た。
「先ほど、親王から預かった」
「薬か?」
「いや、杏の蜜漬け」
「は?」
「東雨が、好きだから、と」
これだからあいつは……
犀星の行動は、いつも自分の想像を超えてくる。涼景は暗がりの中に、光を見つけた気がした。
犀星を見下ろす宝順の気配が、少しずつ変わっていく。
それは、ゆっくりと夕暮れの空が闇に染まるような、光の浸透に似ていた。
飾らず、ただ無垢なままの犀星の姿は、宝順にとって、散らすに値する花だ。
「顔を上げよ」
その場の者たちが、息を殺した。
顔を上げる、それは目を見ろということである。
そして、目を合わせることは、すなわち心を許し、体を開くこと。
それが暗黙の了解だった。
慈圓は息を呑んだ。引き際の判断は、慈圓に任されていた。
……まだだ。まだ早い。
堪えた。
誰もがみな、犀星と宝順から目を離せずにいる。
犀星はゆるゆると時間をかけ、瞳を上げた。
犀星の目が宝順の胸元をすぎ、喉に這い上がり、唇を撫でて頬に届く。
待ち構えるように、宝順は目を開いた。
今、その目を見ることを許されたのは、犀星一人である。まなざしが重なった。
刹那。犀星の青い目が、激しい恐怖と動揺で震えた。
目の前が真っ暗になる。
暗闇に落ちたと思った次の瞬間、今度は、まばゆい光が視界を埋め尽くした。
全てが光に飲み込まれた世界で、犀星は目を閉じることも叶わなかった。眩しさと、それがもたらす未知の不安、恐怖の波に飲み込まれる。
その中で、何かが自分の背中に触れた。犀星は思わず、振り払いたかった。だが、今、自分は皇帝の前にいるのだ。無作法は許されない。その理性が彼の行動を止めた。
背中に触れた何かは、ゆっくりと肩へと動き、そのまま鎖骨をたどり、喉の中心に迫る。緊張を飲み込むと、震えた喉がさらにその感触を強くした。指先でたどられているかのような怪しげな刺激が、喉から耳を這って、首の後ろへと続いていく。
犀星は呼吸を浅くし、動揺を周囲に知られることのないよう、身を縮めた。
感覚はひとつではなかった。大勢の人間に、指一本ずつ、触れられているようだった。それらは押しては引き、速さも、加える力の強さも変えながら、執拗に体をなぶる。柔らかい肉に迫り、誰にも許したことのない肌の奥、そこにまで何かがしのんでくる。誰の手かもわからないそれらは、だがすべて、宝順の意志によって動いていると感じた。
短く吐息が漏れる。犀星の膝が崩れ、床の上に身を投げ出した。
両腕で自らを抱え込み、爪を立てて声を殺す。だが、熱のような昂りが全身を貫いた。
それは苦しみなのか、快楽か。逃れる術がわからない。
抵抗も虚しく、体は意思に反して、痙攣を繰り返し、びくりと跳ね上がった。
目を見開く。
大切なものを失う予感がした。
このまま堕ちるのか!
犀星の心が大きく揺れた。
その時、どこからか鐘の音が聞こえた。高く、鋭く、長く響く。
犀星の意識がすっと醒める。
「それまでです!」
聞き慣れた慈圓の声が、耳に届いた。
犀星の視界が、瞬時に戻った。
体に感じていたあらゆるものが遠のき、ただ、全身に汗が浮いて、震えが止まらなかった。
背後から歩いてくる足音が、床の振動として伝わってきた。
そっと、両肩に手が添えられ、上体を起こされる。
犀星は肩越しに、慈圓を振り返った。慈圓の顔は、どこか、犀遠を思い出させた。途端に熱い涙がこぼれ落ち、犀星は下を向いた。
慈圓は犀星を支えたまま、静かに顔を上げた。
宝順の胸のあたりの、龍の紋様へ視線を据える。
「これ以上は、お控えなされませ」
物怖じしない慈圓の声は、その場の浮ついた空気を一言で制した。宝順とは違う、別の迫力が備わっていた。
官僚たちは我に返り、互いに取り繕うように目配せをする。
慈圓は至って冷静だった。
「陛下、ご承知のこととは存じますが、父が子を誅するは、天に咎を問われる重罪。ならば、兄が弟を辱め、血を流させるなど、いかなる書にて、許されましょうや?」
ちら、と慈圓は、斜め前に目を向けた。
「学識深い左相様ならば、ご同意いただけますな?」
周囲の目が、一斉に左相に向く。突然巻き込まれて、左相は焦った。出世のために、兄を殺害したと噂のある男だった。動揺を隠すように髭を触り、時間を稼ぎながら、
「無論、そうあるべきかと……」
と、慈圓の肩を持たざるを得ない。慈圓はさらに続けて、
「玲親王は、あくまで陛下に忠を尽くし、進んで御前に額づいておられます。この上、何を望まれることがございましょう。その御姿を、ここに控える大都督もご覧の様子」
と、今度は大都督・禁軍大将へと矛先を向ける。こちらも、慈圓に弱みでも握られていると見えて、黙って目をそらした。
「陛下の御威光を、ご自身でおとしめては元も子もございますまい」
慈圓の追い討ちに、ふぅっと宝順が息を吐いた。
慈玄草が宝順に疎まれるのは、まさにこの正論と人脈による、がんじがらめの論法だった。
慈圓の弁舌は止まらない。
「玲親王を辱めたその瞬間から、忠を退ける帝、と噂されるのは火を見るより明らか。中書令殿、都の風評というもの、甘く見てはなりませぬな?」
次は自分か、と中書令が怯えた顔をした。政敵を追い落とすための虚偽の噂を得意とする、自分への牽制であることは間違いなかった。
慈圓の目が、さらに他へ移った。
「高潔な花を散らして悦ぶのは、お遊びとしては一興。ですが、その花が皇帝の弟だったとなれば……権威を手ずから穢した、と後世は記します。そうでしょう、尚書令?」
「もう、良い」
たまらず、宝順が声を発した。
「そなたの申すところ、あまりに衆知の理にして、今さら論ずるに値せぬこと」
上滑りするような声色で、宝順は場をねめまわした。
「朕は兄であり、皇帝である。弟を導き、臣を用いることこそ、君たる責務に他ならぬ。見誤るなどありえぬものぞ」
さすがは宝順帝、勝てぬ戦はしないと見える。
慈圓は、口を閉じ、じっと成り行きを見守ることに徹する。
居並ぶ者たちは誰もが慈圓に習い、息をひそめて宝順の決定を待った。
「玲親王の罪、こたびはこれを咎めず。以後、心得違いのなきよう、しかと肝に銘じよ」
伯華様に罪がないこと、おまえがもっとも、知っているはず……
慈圓は、腹の中が煮え繰り返ったが、それを微塵も表には出さない。
宝順は裾をひるがえした。
「……本日は、これにて散会とする」
告げると、部屋の奥へと姿を消した。
その場に張り詰めていた緊張が、緩やかにとけていく。
「伯華様」
ともだちにシェアしよう!

