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19 月欠けるとも(1)

 天輝殿の謁見の間には、宝順以下、名だたる者たちが揃っていた。十日に一度、皆が会する合議は、残り、歌仙親王の到着を待つだけであった。  いつもなら、決して遅れることのない犀星が、今日は定刻になっても現れなかった。  宝順は、入り口から最も遠い、上手の豪奢な席に座っていた。壁に沿って、左右の宰相、中書令の職にある者、禁軍の主だった将校が並んでいる。どの顔にも、心配の色があった。  やはり、あの噂は本当なのでは?  宮中の噂は早い。今朝方、録坊で起きた騒ぎのことは、その日の昼にはすでに、彼らの耳にも入っていた。あちこちで囁き合いが始まる。  五亨庵の官吏が、録坊で泣き喚くのを見た。  玲親王の侍童が、殺されたらしい。  親王自らが誅したとか。  皇帝から預かった侍童を手にかけたとなれば、玲親王とて無傷では済まないだろう……  犀星が、このような公の場所に、現れるとは思えなかった。  いつまで待つのだ?  誰かの不平が聞こえた。  ちらり、と宝順の席に目を向ける者もいる。  落ち着かない雰囲気が、部屋の中に波のように広がっていく。  その時、 「玲親王殿下、入殿にございます!」  高らかに、声が響いた。  居並んだ官僚たちが、ひときわどよめき、揃って振り返った。  高座から、宝順はまっすぐに入り口に立つ犀星を見て、一瞬、息を止めた。  白と銀の装束に身を包み、玲親王・犀星は静かに佇んでいた。  犀星の肌に、白い衣は美しかった。  それはただの白ではない、どこまでも清廉で、穢れを知らない色だった。絹の光沢が、かすかに虹の色合いを乗せて揺れている。  襟には、銀糸によって金木犀の刺繍が施されていた。首の後ろがわずかに開いて、角度によっては、深く肌を想像させた。  袍の布地は薄く、わずかに透けて、襦袢の藤色が怪しく揺らめいた。  銀鼠の帯を緩く締め、その結び目は、まるで解く手を待つかのように脇に垂れていた。  蒼く艶のある髪は両頬に流れ、後ろは一つに束ねて白銀の紐でゆわえている。髪飾りはなく、それがかえって犀星の生まれ備えたを美しさを際立たせる。  わずかに頬に差した紅が、冷たい美貌にさらなる色香を添えていた。  目元には薄墨を引き、伏せ目がちなまつ毛の影が肌に落ちる。稀なる青い瞳が潤んで輝き、見る者の心を奪った。  |蒼氷《あお》の親王の別称にふさわしく、高嶺に咲いた一輪の花であった。  誰もが、その姿に心奪われ、何人かは惑わされて、直視できなかった。 「そなたの、かような姿、初めて見たぞ」  宝順は満足なのか、それとも警戒なのか、うっすらと口元に笑みを浮かべた。  犀星は、ゆっくりと前に進み出た。犀星の後ろには、ただひとり、慈圓が付き従うのみである。  犀星の歩みに合わせて、玉佩が鈴のように鳴った。袖と裾の銀糸の縫い取りが、静かに揺れる。柔らかい髪が煙るように波打った。  犀星は、左右に並んだ官僚たちの間を通り、宝順の前でひざまずく。そこから、さらに深く、頭を垂れた。  一同からどよめきが起こる。犀星の姿はまるで、赦しを乞うつみびとのようであった。  何人かが、犀星に向けて少し首を伸ばした。うなじから背中へと続く肌が、色めいて覗かれる。  えもいわれぬ沈黙が部屋に満ちる。それは静寂よりも騒がしく、音のない音が、壁と床天井に反響した。 「かように膝を折るとは、いかが致した?」  宝順の声は、犀星の耳に遠く聞こえた。  犀星は静かに声を発した。 「臣、玲伯華、みずからの不明を恥じ、また、改めて陛下への忠誠を明らかにすべく、参上仕りました」  周囲が一斉に固唾を呑む中、犀星は微動だにせず、顔を伏せている。  侍童を殺したというのは、やはり本当だったのか……  数名が眉をひそめた。 「臣に、陛下の御心を損ねる振る舞いがございましたなら、すべては浅学無知ゆえの過ちにございます」  そう言って、犀星はかすかに声を詰まらせた。その沈黙には、涙の気配があった。  官僚の中には、思わず苦しそうに目をそむける者もいた。 「して、いかがする?」  宝順は、感情のない声で促した。犀星は続けた。 「この身は、いかなる御裁きも甘んじてお受けいたします。されど……」  と、肩と息を震わせて、 「されど……恐れながら申し上げます。臣は、心のすべてを以て、陛下を敬い、慕い申し上げております。願わくば、今しばし、陛下のお怒りをお鎮めいただき、御前にて誓う忠節と……愚かなるがゆえの、拙き親愛の情を、お汲み取り願えればと存じます」  ぞっとしたみじろぎが、官僚たちの間をうねって通り過ぎた。犀星の言葉はすなわち、その身を捧げることを意味していた。  ついに、玲親王が屈する。  終わった、と、誰もが思った。雪のような純潔の衣が血を吸うことを覚悟する。  ある者は嘆きを、ある者は期待を、さまざまに込め、宝順と犀星を見守っている。  宝順は、ゆっくりと立ち上がった。  官僚たちが緊張を取り戻し、深々と頭を下げた。 「こちらへ、近く寄れ」  犀星は黙って、その声に従った。  恭しく身をかがめ、宝順の足元にふたたび膝をつく。その薄紅の唇が、かすかに動いた。 「この命、すでに陛下の御ものにございます。これより先、どのような命にも背くことなく、ただ御心のままに、仕え奉る所存にございます」  犀星の声は、政治を語る時よりも、柔らかかった。そしてわずかな冷えと、色香をはらんでいた。 「何ゆえ突然、かようなことを申した?」  試すように宝順が言った。犀星は目を閉じた。長いまつげの間から、きらりと涙が頬を濡らした。  それは、宝順の記憶に火をつけた。  昨夜のこと。  どれほどさいなもうと、東雨は、一度も涙を流さなかった。だが、その身代わりのように、犀星が目の前にひざまずき、涙を見せた。  犀星の息も、仕草も、言葉も、全ては自らを生贄として捧げるものだ。  東雨を失い、心折れたか。  宝順の気配が、静から動へと変わるのを、皆、肌で感じていた。  その中にあって、慈圓はただひとり、冷静だった。  入り口近くから、じっと犀星の様子を見守る。  ひざまずき、涙を流すだけで、宝順をも揺さぶるとは……これほど厄介な相手はおるまい。  慈圓は心底、犀星が敵ではないことに感謝していた。  どうしてこうなった?  蓮章は訳がわからないまま、自分が周囲の事情で奔走せねばならないことに、納得がいかなかった。だが、同時に、頼られるのも悪い気はしない。  いつの間にか、自分も涼景のような、損な性格になりつつあるのかもしれない。  蓮章は、部下たちに軽く目配せしながら、天輝殿の中へと入った。涼景の行き先を尋ねると、一人の近衛が知っていた。  蓮章は聞いた通り、石の間の前を過ぎた。開かれた扉から、何人かの禁軍の兵が、床に水を流しているのが見える。胸がむかついた。  回廊の奥の医房へ向かう。何度か、そこで涼景の面倒を見たことがあった。  蓮章はそっと板戸を開けた。中は火が焚かれ、蒸し暑いほどだ。小さな部屋の壁には、背の高い箪笥や几架が置かれ、怪我の治療に使えるよう、様々なものが揃っている。  このような施設を用意するくらいなら、最初から傷つけなければ良いものを……  蓮章はどこまでも、宝順が気に入らない。  恐怖による支配から得る、悦楽。  それは、誰の心にも潜む闇なのかもしれなかった。蓮章にも多少なりの覚えがある。だが、一線を越えることを許さない道徳心は、彼にも残されていた。  包帯、薬、添木、紐に布。他にも、小刀、のこぎり、針に糸。  隅に置かれた牀は、特別な造りをしていた。四方に柱が建てられ、一部がしっかりと壁に固定されている。柱には、擦り切れた長い布が縛り付けてあった。痛みに暴れる患者を押さえつけるものだ。  今、その紐は、東雨の細い手足に絡められていた。  牀の前に、涼景の後ろ姿があった。足元には血に染まった布が何枚も落ちている。鮮やかな赤。その色だけで、傷の重さが想像できた。  蓮章の額には、すでに汗が浮いていた。据え付けられている炉に薪を足し、火力を強める。  涼景の背中越しに見下ろすと、青ざめた東雨の顔はまるで、死体と同じ色だった。 「涼?」  その声に、涼景が驚いて、跳ねるように振り返った。 「蓮! いつ戻った?」 「さっき」  蓮章は、じっと東雨を見て、一層、顔を歪めた。それは嘆きではなく、怒りだ。 「どうしてこうなった……?」  蓮章のこめかみを、汗が伝い落ちる。  涼景も、全身がぐっしょりと濡れて、顔色が良くない。  蓮章は涼景の手元を確かめた。東雨の出血はまだ、止まっていない。涼景の手は真っ赤に染まり、疲れのせいか、かすかに震えている。   それがどのような傷であるのか、一目見て、蓮章は理解した。  傷口には、中空になった細い植物の茎が差し込まれている。体に近い位置に、縛りつけた麻紐が見えた。傷口に当てている布には、軟膏の類を塗布した色があり、涼景の手は、握り込むようにして強く傷口を圧迫していた。 「代わろう」  蓮章が涼景に体を寄せると、涼景は素直にその役を譲った。手当を引き取る際に重ねた涼景の手は、焼けるように熱かった。  「花街のこと、進展があった。心配はいらない」  布越しに抑える蓮章の指が、沁みてきた鮮血に染まる。 「詳しいことは、落ち着いてからだ」  蓮章は、尋ねられる前に自分から話した。黙って聞きながら、涼景は手ぬぐいで、指の血を一本ずつ、ゆっくりと拭った。 「花街から詰所に戻ったら、お前が親王に会いに行ったと聞いた。文句を言いに五亨庵へ行ったら、着飾りたいから身支度を手伝えと言われた」   涼景は、興味を持ったように目を開いた。だが、言葉は出ない。ただ、気の抜けた顔で、蓮章の話の続きを待っている。   蓮章は、五亨庵での出来事を思い出し、疲れた表情を浮かべた。  まさか、自分が親王の身体に触れるとは思っても見なかった。

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