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18 十六夜(3)
いつも、我慢ばかりさせ、自分の古着を東雨にまわし、新しいものを仕立ててやることもしなかった。
恨まれても仕方がないというのに……
きっと、東雨なら笑って言うだろう。
『若様の着物が、一番嬉しいです』と。
玲陽や涼景の前では泣けなかった。東雨の血を吸った、自分の着物を前にして、一気に堰を切った。
胸が潰される思いに、犀星はしばし、泣き崩れた。
絶対に、助けてやる!
犀星は目を見開いた。蒼い眼に、鬼気迫る炎が燃える。
乱れた息を整え、犀星は丁寧に荷物を確かめた。帯は刀で切られていた。襦袢には引き裂かれた痕があった。まさぐる手が震える。それはやがて、玉佩を探し当てた。
白く丸い石の表面には、『龍令』の二文字が刻まれていた。それは確かに、東雨が、皇帝の密使であることを意味していた。
驚きはしなかった。ただ、静かに受け入れる。
犀星は、自分がずっと目を背けてきたその現実を、しっかりと握りしめた。
これは、鍵だ。今度は俺が、扉を開けてやる。
犀星は一呼吸をつくと、背を伸ばした。
広間で声がして、慈圓と緑権が入ってくるのがわかった。
二人とも、何が起きているのか、まだ知らない。
犀星は、まるでいつも通りだ、という顔で挨拶を交わし、緑権に、炉に火を入れるように言いつけた。緑権がそれを苦手としていることは充分承知の上だ。
慈圓が席につくと、犀星はそっとそばに寄り、何事かを耳打ちした。そして、先ほど書き上げた木簡をこっそりと見せた。
慈圓は驚いた顔をしたが、やがて、面白い策を得た、というように笑った。犀星はその頼もしい笑みに大きくうなずいた。
炉の準備に手間取っている緑権は、ふたりのやりとりに気づいていない。
謀児は何も知らない方が良い。
それも、犀星の計画のうちだった。
ようやく緑権が薪に火をつけた頃、玲陽が戻ってきた。
入ってくるなり、犀星へ、大切そうに何枚かの木札を差し出した。そこには、安珠の字が記されていた。
犀星は自分が作ったものと合わせて、丁寧に紐で綴った。最初の束と分けて、それぞれを別の布で包み、玲陽に託す。玲陽はわずかに緊張した面持ちで、二つの荷物を受け取り、しっかりと抱きしめた。
「……なんだか忙しそうですけど?」
それを見ていた緑権は、自分だけ、のけものにされている気がした。
犀星は感情を見せず、
「謀児、陽を録坊まで案内してくれ」
「え?」
犀星が玲陽を手放したことがないことを、緑権はよく知っている。まさか、自分が案内役に抜擢されるなど、思っても見なかった。
「光栄です!」
緑権は顔を輝かせた。
「お任せください! しっかり、案内させていただきます! いただきますとも!」
と、鼻息荒く、出かける支度をする。
犀星たちは視線を交わし、少しだけ、表情をなごませた。
玲陽は緑権の道案内を頼りに、五亨庵を出た。ここから先、宮中の奥へ足を踏み入れるのは初めてだった。
軽い足取りの緑権に反して、玲陽の歩みは堅実で、そのひとつひとつに落ち着きと静かな強さがあった。
緊張した面持ちで、緑権の後に続いて歩く。
玲陽の服装は質素で、髪も結わず飾り気がない。
だが、その姿は周囲の目を引く。
白と灰の雪景色の中で、玲陽の柔らかく煙る金色の髪が、ふわりと風に揺らいだ。穏やかな眼差しには奥深い慈愛と、見るものを惹きつけてやまない魅惑の色が感じられた。
高価な衣装を纏った女たちが、何度も振り返り、そわそわとささやき合いながら玲陽を見る。
玲陽はわざと、そちらへ視線を向けた。
まるで射抜かれたように、女たちは飛び跳ね、声を高めて歓声を上げる。
蓮章ならば、きっとここで不敵に微笑んだことだろう。
緑権は、行きすぎる人々が玲陽に見惚れ、あれこれと騒ぎ立てて興奮する様子を、実に満足そうに見ていた。羨望を集める玲陽を連れて歩けることが嬉しくてならず、これでもか、というほど、自慢げな笑顔である。
対して玲陽は、静かな表情を崩さず、それはどこか寂しげにも見えた。
ふたりの前に、録坊の入り口が見えてきた。
宮中を出入りする人間の登録はすべて、この役所が管轄している。
玲陽を承親悌に任ずる際にも、犀星はここで手続きを行った。
あの日が、懐かしいな。
思いながら、玲陽は緑権に遅れないよう、足を早めた。
格式高い作りをした、いかにも厳格な控え室へと通される。承親悌である玲陽の扱いは、親王と同じだ。その言葉は、犀星の言葉と同等の力を持つ。
私に、押し通すことができるだろうか。
いよいよとなって、玲陽は一抹の心細さを感じた。だが、すぐにそれを振り払う。玲陽は決してひとりではない。犀星が託してくれた木簡は、勇気づけるかのように温かい。
隣で、笑顔のまま座っている緑権を、ちらりと見る。
緑権は何も知らない。その方が良い、と犀星が判断したのだから、玲陽はそれに従うだけだ。
少しして、控えの間から、正式に奥の部屋へと招かれた。
ここからは、玲陽が先に立つ。緑権はきょろきょろしながら、落ち着きがない。それがかえって、玲陽の心を平静に保たせてくれた。
部屋で待っていた担当の官吏が、玲陽の髪と目に、息を飲むのがわかった。
だが、玲陽は眉一つ動かさない。ただ少し物悲しそうな顔をして、礼儀正しく立っている。
ここにおいて、玲陽は、歌仙親王の承親悌・犀陽である。
玲陽はおごそかに、荷物の一つを解き、中の木簡を開いた。
「こちらを、受理していただきたいのです」
玲陽の声は、かすかに震え、まるで涙をこらえているかのようだった。その横顔を見て、緑権は笑顔をやめた。
緑権には、どうして玲陽がそれほど悲しそうなのかが、理解できない。案内を任されたことが嬉しくて舞い上がっていた緑権は、今になってようやく、用件を聞いていなかったことを思い出した。
緑権は、わざとらしく咳払いをして玲陽の横に立ち、机上に広げられた木簡を横目で覗き見た。
文字を辿る。
そして、決定的な一文を見つけ、悲鳴をあげた。
そこには、東雨の死亡が明記されていた。
緑権は乱暴に木簡を取り上げ、慌てて目を通した。
犀星が書いた死亡証明書、安珠の死体見分書、そして、遺品として、白い玉佩が添えられていた。犀星の署名も、王印も、全てが揃っていた。
「そんな……」
緑権は目を見開き、震えながら内容を確かめた。
「死因……間諜の疑いにつき……親王自ら、誅殺……っ!」
緑権はその場に崩れ落ちた。わなわなと震え、そして、大声で泣き出した。
「そんな、酷すぎます! あんまりだ!」
その取り乱しようは、あまりに現実味があった。
申し訳ないけれど、今は泣いていてください。
玲陽は胸の中で、そっと詫びた。
官吏は、緑権が床に投げ出した木簡を拾い上げると、サッと目を通した。
それから、哀れなほどに泣き崩れている緑権と、それを辛そうに見つめる玲陽を見比べた。歌仙親王が侍童を斬るなど、思いもよらないことではあったが、二人の様子は、嘘をついているようには見えなかった。
官吏は、なぜか自分まで、涙が滲んできた。
「……わかりました。受理させていただきます」
そう言って、木簡を引き取り、死亡通知の札を玲陽に渡した。
「それから……」
声を震わせ、玲陽はもうひとつの木簡を差し出した。同じように、几案の上に置く。
「つきましては、一名、登録したい者がおります」
玲陽は木簡をめくって、中を示しながら、
「不忠の侍童に代わり、私の弟を、新たに親王の近侍として任命したい」
それを聞いて、緑権は真っ青になった。
「……なんてことをおっしゃるんですか!」
その声は泣き声というよりも悲鳴だ。甲高く部屋の中に響く。
玲陽は、思わず顔を伏せた。唇の端が、震えていた。
緑権は鼻水をすすりながら、玲陽の裾にしがみついた。
「見損ないました! 東雨を殺して、すぐに次を選ぶなんて、どうかしてます! そういうの、人でなしって言うんですよっ!」
なんと言われようと、今は通すしかないんです。
玲陽は、必死に感情を殺し、緑権の叫びを無視した。
官吏は、ちらっと玲陽を見る。なぜか、官吏までが自分を責めているように思われて、玲陽は苦しかった。
「登録、いただけますか」
玲陽は、冷静を装った。
官吏は、じっと木簡の文面を追った。札をめくる音が、緑権の泣き声に混じって聞こえた。札には必要な情報があますところなく記載され、ひとつの不備も見当たらない。断ることはできなかった。
官吏は、どこか残念そうに、頷いた。
「わかりました。では登録を行います」
官吏は、木札に証明する文言を書き、印を押した。その様子を、玲陽はただ黙って見守っていた。
死亡証明と、登録証明。
二枚の木札を重ねて襟の間に入れて、玲陽は部屋を出た。
玲陽の後ろから、緑権が、大声で泣きながら着いてくる。
周囲の者たちがその様子に驚いて、こちらを振り返った。いまや、玲陽よりも緑権の方が、注目の的だった。
散々に犀星と玲陽を避難して、東雨を悼み、やがて緑権は泣き疲れた。その顔は土気色になり、こすった目元が腫れている。
玲陽は、自分がとてつもない悪人のような気がした。
録坊を出ると、冷たい空気が、心地よく火照った身体を冷やしてくれた。
門の近くで、小柄な男とすれ違った。
玲陽は気に留めなかったが、男の方は何かを感じ、玲陽をちらっと見た。通り過ぎてから、立ち止まる。気配に気づいて、玲陽も足を止めた。
緑権が玲陽の背中に、ぶつかる。その衝撃で体が揺らいだが、玲陽は何も言わず、男を見つめていた。
男は小柄で、見慣れない形の着物を身に付けている。雰囲気が、どことなく不気味だった。
男は細い目で、頭から足の先まで、玲陽を見ていた。
「そなた、光理……」
と、男は玲陽の字をつぶやいた。しかし、玲陽には相手が誰か、わからない。
玲陽は、失礼があってはいけないと思い、丁寧に礼をした。
緑権が、赤い目で男を振り返った。
「紀宗様……?」
その名に、玲陽は心当たりがあった。
以前、東雨が話をしていた、陰陽官だ。五亨庵の建設時にも犀星に助言し、それからも度々、気にかけていたという。
紀宗は、玲陽の顔をじっと見た。それからふっと胸のあたりに視線をずらした。そして、小さな声で言った。
「面白いものを、お持ちですな」
玲陽は首をかしげた。
紀宗はぶつぶつ、口の中で何か言っている。聞き取れなかったが、玲陽は、いい気持ちがしなかった。
常に他の者には穏やかに、笑顔でいる玲陽だが、今はなぜか、本能的に身構えていた。
紀宗は、玲陽を見たまま、少し大きく口を開いた。
「五亨庵に気をつけなされよ。あれは……」
そう言って、また、独り言を言いながら、ゆっくりと録房へと消えていった。
玲陽は意味もわからず、胸が騒いだ。
見えない何かが、忘れたい過去から、自分を追いかけてきたような気がした。
玲陽は、長袍の袖を握りしめ、首を振った。
今は、何より、犀星の元に帰ることが先だ。玲陽は顔を上げると、しっかりとした足取りで歩き始めた。
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