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18 十六夜(2)
涼景は犀星の呼吸が少しおさまるのを待って、懐から短刀を取り出した。
そっと几案の上に置く。
「こいつは、歌仙で、東雨に渡したものだ。昨日の夜、返しに来た」
犀星と玲陽が顔を見合わせた。
「これは俺の御身刀だ」
涼景は鞘を撫で、
「誰かに見られたら、俺の関与が疑われる。だから……」
と、悔しげに顔を歪めた。
「何をするつもりなんでしょうか……」
玲陽は青ざめていた。ただでさえ白い肌が、さらに血の色をなくす。
犀星はそっと、玲陽の手を握り、そのまま涼景の顔を見た。
伝わってくる玲陽の不安、涼景の苛立ち、そして、二人のかすかな絶望。
沈黙を続けていたが、犀星の頭の中では、目まぐるしくことが動いている。
今こそ、力が試される。
犀星はそう、直感した。
どうするべきか、何ができるか。
いや、考えるのはそれではない。
……何をしたいか。その一事だ。
今までの記憶、現状の把握、未来への展望。何もかもを絡み合わせる。
玲陽は、東雨を失う恐怖を見ている。
涼景も、震えるほどに自分を押さえつけている。
二人とも、己と戦っている。
犀星は、深く息をし、玲陽の手を強く握り、そして涼景を見つめた。
今、一人で動いても、敵が大きすぎる。
自分がどれほど無力か、友がどれほど心強いか、このわずかな間に、犀星は身に染みていた。
「取り戻す」
その声に、二人は顔を上げて、犀星を見た。
声は静かだったが、深く揺れるように響いていた。
「でも、どうしたら……」
「陽」
犀星は玲陽に顔を寄せ、頬に額をあてた。
「東雨が言っていただろう?」
「え?」
玲陽は迷った目をした。
「ひとりで難しいことも、一緒ならできる、と」
玲陽の息が、ひとつ、短く震えた。
犀星はわずかに微笑んだ。涼景は、その笑みに目を見張った。
それは、いつもの、何か確信を得ている頼もしい友の顔だ。
「そうだな!」
玲陽より先に、涼景が頷いた。
「星、俺たちを使え」
玲陽は驚いて涼景を見た。涼景も、笑っていた。玲陽は少しだけ、力が抜けるのを感じた。
「わかりました」
笑えなかったが、頷くことはできた。
「どうしたらいい? 東雨はおそらく、天輝殿だ」
「涼景、おまえは、すぐにでもあそこに入れるな?」
「右近衛の管轄だ。問題ない」
「ならば、急ぎ向かって欲しい。おそらく、無事ではいないだろう。おまえなら、傷の治療もしてやれる。命に関わる恐れがある。適任だ」
「わかった」
涼景は短刀を懐に収めた。
「陽」
呼ばれて、玲陽は姿勢を正した。
「おまえはこれから緑権を連れて、録坊に向かって欲しい」
「録坊?」
「ああ。承親悌の名を出せば、無理も通せる」
玲陽は頬を引き締めた。
「書類は俺が書く」
そう言って、犀星は自分の几案に寄った。箪笥を探り、手が止まる。
「王印……」
「ないのか?」
涼景が振り返った。
「あ」
玲陽が、何かを思い出したように、足早に緑権の几案に近づいた。足元に乱雑に置かれていた毛氈の中を探る。
「ありました」
嬉しそうに、玲陽は見つけ出した王印を掲げた。
自ら望んで、天輝殿の階を上がったことが幾度あっただろうか。
涼景は、五亨庵から天輝殿までを駆け通し、禁軍の兵の間を堂々とすり抜けた。
月ごとに変わる天輝殿の警備は、今月、右近衛隊が担当している。隊長である涼景が出入りする事は容易だった。
だが……
涼景は急ぎ、階段を駆け上りながら思った。
自分は昨夜ここにいた。だというのに、東雨に気づくことができなかった。そばにいながら、助けることができなかった。
何のための近衛だ? 何のための友だ!
東雨はいつしか、友と呼びたい相手になっていたと気づく。
東雨は幼い頃から間者として犀星の元に潜み、その情報を全て宝順に流した。それが結果的に無関係な人々を傷つけることにつながったとしても、東雨を責めることはできない。
あの少年は、昔からずっと仮面をかぶり、素顔を殺し、嘘と偽りで自らを封じてきたのだ。その姿を警戒という目的のもと、自分は誰よりも見つめてきた。だからこそ、涼景は知っている。どれほどに彼が傷つき、崩れていったのか。
救いたかった。
不器用な自分には難しかった。せめてきっかけとなれば、と、懐刀を託した。
自分を頼って欲しかった。どのように利用し、巻き込んでくれても構わない。その刀で道を開いて欲しかった。
だが、東雨が選んだのは、涼景が思っていた以上に危うい道だった。
このまま、見殺しにしてなるものか!
涼景はまっすぐに石の間を目指した。
宝順が東雨を捉えているのだとしたら、そこに違いなかった。
天輝殿の中程に位置する石の間。その前の回廊は、近衛の巡回路にあたる。
いかに堅牢な石で組み上げられた部屋といえども、明かり取りの窓や通風口から、内部の声はこぼれてくる。近寄りたい場所ではない。
深夜、その扉の前で、中の惨劇の音を聞くのは耐え難かった。衛士たちも早足でその場を過ぎ、何が聞こえても、耳を塞いだ。
涼景が石の間にたどり着いたとき、扉は固く閉ざされていた。部屋の前には一人、近衛が立っていた。
「隊長?」
その兵は、涼景の顔を見て驚いた。まるでここにいるはずがない、という顔だ。
涼景は焦りを殺し、平然を装った。
「気になることがあって、戻ってきただけだ」
近衛は少し眉を寄せ、何かを言い淀んだ。
「どうした?」
近衛が、震える声を出した。
「てっきり……隊長が、中にいるものかと……」
「今夜は、俺じゃない……」
自分であれば、どれだけマシだろう。
「では、誰が……?」
その時、かすかに近くで音がした。水の音だ。足元を見ると、石の間からの排水溝に、室内の水がゆっくりと流れてきた。その水はわずかに色づいていた。
日も昇りきった時刻である。もし、中に東雨がいるというのなら、どれだけの時間、責め苦にさいなまれているのか。
水を踏む音が微かに聞こえた。涼景と近衛は脇に避けた。
内側から閂が外され、扉が軋む。
ひとり分の道が開く。
先に出てきたのは、禁軍の兵だった。鈍い黄金色の皮鎧も、その下に纏った薄黄の袍にも、血の痕があった。涼景は、それを見るなりぞっとした。
別の人物が続いた。涼景は顔を伏せていたが、身に付けた裳で、それが宝順だとわかった。黒地に金の竜紋が織り込まれている。顔を上げずとも、その姿は想像できた。涼景はじっと目を伏せ、そこに立っていた。
涼景の前を通りすぎる時、宝順の言葉が降ってきた。
「片付けておけ」
その声色は愉悦に緩んでいた。
宝順のこの声は、残虐の限りが尽くされた証拠だ。
涼景は最後尾にいた禁軍の兵を押しのけ、中に飛び込んだ。
匂いが襲ってくる。瞬時に胸がむかつく。それは体中の、あらゆる液体の匂いだ。混ざりあって部屋の空気に漂い、壁の油灯の炎で焦げ付き、異臭を放つ。仄黒い石の床に、大量の水が撒き散らされていた。
宝順が歩むため、床の汚れを水で流したのだ。だが、その水には既に新たな血が混じり始め、うっすらと赤い蛇が床を這うように、涼景の方へと近づいてくる。
血をたどる。その先に涼景は見た。
おびただしく汚れた床の上で、少年が一人、無防備な姿をさらしていた。
目にするや、全身に、得体の知れない力が湧き上がる。思考が、真っ赤に焼けて膠着する。
それは涼景の雄叫びとなって、口をついた。怒りの咆哮が、石の壁に響く。衝動に突き動かされ、涼景は少年の体にすがりついた。
両手首が、濃緑の髪紐できつく縛りあげられていた。涼景の顔が憤りに歪む。少し前に五亨庵で会った時、東雨は、犀星が選んでくれたのだと、嬉しそうに笑っていた。
それが今、血で黒く染まっている。
東雨は、紐の端をしっかりと握っていた。自分に何が起きているのか、わかっていたのだろう。それでもなお、手放したくないものが、東雨にはあった。
体中に石の上を引きずられた傷がついていた。華奢な体は、その痛みにどれだけ耐えたのだろう。
アザは、全身に及んでいる。殴られたか、蹴られたか、踏みつけられたか。
美しい黒髪も、柔らかい肌も、飛び散った白いもので穢されていた。かつての玲陽の傷が思い出されて、涼景は素早くまさぐった。中から、泡を立てた体液が流れ出た。血は混じっているが、大量の出血の原因ではない。
まさか……!
涼景は、うつ伏せになっていた体を半分、返した。しなやかな足の間に、真っ赤な血だまりができている。
「水を!」
後ろにいた近衛が、その声に見回した。部屋の隅に水瓶があり、そのそばに手桶が見えた。衛士滑る床に足を取られながら、水を汲むと、手桶を涼景に渡した。
涼景はそれを、東雨の下半身に浴びせた。一瞬、血が流れ落ちて、傷口があらわになる。
陰茎が根本からすっぱりと切り落とされ、その断面が熟れすぎた赤黒い|柘榴《ざくろ》のように見えた。
近衛が、腰を抜かして、その場に座り込んだ。ぴしゃりと血を含んだ水が跳ねる。
この傷は死に直結する。
無理だ!
涼景は、目の前がかすんだ。
何度も、戦場で仲間を見送った。その無力感と喪失が蘇る。
その時、かすかに、東雨の表情が動いた。
そうだ、まだ……
涼景は注意深く、東雨の体を抱き上げた。新しい血が溢れ、涼景の衣を染めていく。
これ以上、一人にはしない。
「東雨の私物と痕跡を、全て集めろ。五亨庵へ持って行け、至急だ!」
涼景の指示に、衛士は慌てふためきながらうなずいた。
涼景は東雨をしっかりと抱きかかえ、石の間を抜けると、医房へと急いだ。
犀星が、東雨の体を自分に預けてくれた。その期待に応えねばならない。
涼景を見送って、犀星はすぐに玲陽を遣いに出した。
五亨庵に残った犀星は、机の上に何枚もの木簡を並べ、小筆を手に何事かを案じている。
犀星の表情は引き締まっていた。だが、恐れてはいない。それは戦いに挑む決意に近かった。
これは好機だ。
犀星は疑わなかった。
いかなる手を使おうとも、この無理を押し通す。東雨が命懸けで選んだ未来は、必ず、自分の手で繋いで見せる。
それは、犀星にしかできないことだった。
犀星は木簡の表を見つめた。浮かび上がる木目は、彼に何かを語りかけてくるようだ。掴み取りたい未来は、この中にある。
犀星は慎重に筆先を置いた。そして、軽やかに筆を走らせた。
言葉は自然と文字になった。
順に、札を仕上げていく。書くべきことを整然と、いつもの、氷の表情のままに。
一通り書き終えると、重要な箇所に、王印を押す。
朱泥の色が、力強く目に映えた。
それを終えると、何枚かの木簡を麻紐で閉じ、脇に置く。さらに残った木簡に紐を通し、こちらは閉じずに机上に置いたままにした。
そうしている間に、扉を叩く音がした。
犀星は自ら扉を開いた。そこには、真っ青な顔に、頬だけ赤く染め、汚れた袍を抱えた近衛が息を切らして立っていた。
犀星は頷いて、荷物を受け取ると、私室に持ち込む。几案にそれを広げるまでもなく、すでに鼻を刺す臭いがする。
見覚えのある袍は、自分が東雨と初めて会った日に身につけていたものだ。
おまえは、最期に、俺を……
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