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18 十六夜(1)

 その日はやけに静かだった。  涼景は巡回する近衛隊の位置を把握しながら、自分は巡回の間隙を埋めるように、ゆっくりと歩いた。  天輝殿の夜は、底知れない。  柱の影、通路の奥、灯の届かぬ部屋の隅、あらゆる暗がりで何かが蠢く気配がある。悪寒を感じて振り返る時、常にこの世ならざる者の息遣いが耳元を掠める。  何年勤めていても、落ち着く気持ちにはなれない。  三百年以上続くこの国の歴史の闇が、澱となって住まう場所。それはいつ、どんな形で自分たちに襲いかかってくるか、知れなかった。  明け方の白い光が感じられる時刻、涼景は、その夜が無事に過ぎることに静かに感謝した。  月が西の空に傾き、夜が終わりを告げる。  朝は、確実に地平線の下に息づいている。明けの金星が、太陽を招くように黎明の空に力強く輝いていた。  あの星は犀星のようだ。  眺めて、涼景は目を細めた。  日が昇る時も、沈む時も、常に太陽とともにある。  交代の兵が、門に姿を見せた。引き継ぎを済ませ、禁軍の指揮官と挨拶をかわし、涼景は夜警にあたっていた部下と共に天輝殿を出た。  後は右衛房に戻り、今夜の記録を残し、一寝入りすれば良い。  午前のうちに、暁番屋と演武場を視察したい。  花街の暁隊は蓮章が押さえているだろうが、都のほうは野放しになっているのが気がかりだ。  体調を崩していた左近衛隊長の見舞いにも行きたい。あれから音沙汰がないが、副長の処遇はどうなっているのか。  午後の訓練が済めば、また、天輝殿の夜警に戻る。  合間を見つけて、五亨庵にも顔を出さねばなるまい。最近はすっかり離れてしまっている。  今日は犀星たちは、出仕であったか。それとも公休か。慌ただしく、そんな基本的なことすら抜け落ちてしまっている。  蓮章がそばにいれば、その辺りの穴埋めをしてくれるのだが、今はそれも望めない。  さっさと戻ってこい。  涼景は苦笑した。  自分が歌仙に遠征していたとき、蓮章はきっと、同じような思いを味わったはずだ。  だが、涼景には、仕返しに山積みになるほどの報告書を書く余裕はなかった。あのようなことは、文官肌の蓮章ならではの技量である。  涼景は、犀星が持ち込んだ薪の話を思い出していた。  宮中に、なんらかの事情を知る者、あるいは当事者がいると考えるのは、あくまでもひとつの可能性に過ぎない。左近衛隊が管理していた矢倉は、簡単に部外者の出入りを許す場所ではないが、それとて絶対と言えるほどの確証にはつながらない。  第一、何のために建物の一部に焼印を押したのか、という目的すら判然としないのだ。  それでも、仮説として、犀星に対する個人的な感情が関与している線は捨てきれなかった。  出世欲のために、上官を陥れる策謀は枚挙に|遑《いとま》がない。だが、それが目的ならば、このような回りくどいことはしないはずだ。ならば、官職や金のため、という可能性は低くなる。  そうすると……  涼景は思考に沈みながら、雲ひとつない空に目を向けた。  宮中にあって、犀星を精神的に追い詰めること、それをもって心の支配を目論む者。  玲陽の件も、花街の件も、それが目的だと考えると筋が通る。  しかも、玲陽が傷を受けた時期から見て、十年近く昔に端を発する。  状況から、もっとも疑いが深くなるのが、宝順帝である。  涼景は、宝順の性格を間近で見てきた。  支配することに対する凄まじいまでの執着がある。  それは、特定の人物に対して向きやすい。  たとえば、宝順の弟であり、犀星の兄にあたる、第三親王・夕泉。  彼は非常に穏やかで目立たない人物だが、警護を担当している左近衛隊からの裏の情報によると、宝順帝との関係には、決して表に出せないものがあるらしい。  そうなれば、同じ親王という立場にあり、夕泉よりも高い才覚と美貌を備えた犀星に、宝順が興味を示さないわけがなかった。  だからこそ、東雨を忍ばせ、その周辺を常に監視させていた。犀星が決して自分には屈しないと踏んで、周囲から崩しにかかる危険性は高い。完全な支配のためならば、手段を選ばない男である。  そして、涼景自身もまた、宝順の毒に染められている。  犀星が自分と同じ目にあうことだけは、何があろうと避けねばならない。  それは、古い友への友情であり、自覚することのない、忠義でもあった。そして、犀星が築く未来へかける、確かな希望だった。  今は、宝順らしき人物の、犀星に対する精神的な攻撃を止めることが優先される。  このまま花街での事件が続けば、単に被害者が出るだけではない。犀星の性格上、明らかに心が疲弊する。また、五亨庵に加わった玲陽に対する、再度の攻撃も懸念される。  蓮章は、何かを掴んだだろうか。  蓮章には、自分や犀星にはない人脈と行動力がある。  あいつ、まさか遊び歩いてはいまいな?  涼景はちら、と疑った。優秀ではあるものの、それを否定しきれないのが、蓮章だ。  右衛房が近くなる。  湖馬が、自分を見つけて姿勢を正すのが見えた。涼景はほっと息をついて、隊列を組んでいた兵たちを先に帰し、自分は馬を降りて湖馬の前に立った。 「一晩、お疲れ様でした」 「おまえもな」  涼景は、馬の首を撫でながら言った。湖馬は眠そうな目で、 「私は、ここに立ってただけですから。最近、少し、立ったままでも寝られるように……」  と、言いかけて、はっと口を閉じた。涼景は悪戯っぽく笑って、 「倒れて怪我をする前に、長榻を置くことにするか?」 「それ、いいですね」  と、湖馬も笑う。  こんな軽口が叩ける相手は、隊でも数少ない。  湖馬は、腰に下げていた荷物袋から一つの包みを取り出した。浅黄色の布で巻かれた細長いものだ。 「これ、東雨から預かりました。隊長に渡してくれって」  涼景の眉が、小さく動いた。 「東雨が?」 「はい。伝言はありません……それ、何ですか?」 「形からして、多分、証拠の薪……」  涼景は言いながら、何気なく布を開いて、中に包まれていたものに、一瞬、気が遠くなった。  一目で、全てを悟る。  震えが走る。戦場でも、これほどに恐れたことはなかった。  何を……まさか、すでに?  血の気が引いた。  自分が東雨に渡した懐刀は、鞘までが、美しく磨かれていた。  黒い下地は光沢を放ち、銀の流紋は浮き立って、虎の目には命が宿るようだった。  鍔の宝玉に曇りはなく、まるで冬の空のように透き通っている。  それは、東雨がどれだけこの刀を大切にしていたかを、如実に物語っていた。  涼景はそっと、柄を握った。指先に力を込めて、かちゃりと引き抜く。  もし、刃に血の影が見えたら、という恐怖が走る。  しかし、引き抜かれた刀身は、まばゆいほどに朝の光を反射して、きらめいていた。  一点の曇りもないとは、このことだ。  その時、ふわりと覚えのある香りが漂った。東雨がいつも身に付けていた、金木犀の香りだった。  涼景は、頭の中が熱くほてった。  自分は、この刃に毒を仕込んで渡した。だというのに、東雨は優しい香りに包んで、返してきたというのか。  涼景は、布ごと懐の中に押し込むと、素早く馬に乗った。 「星のところへ行く! あとは任せた!」  涼景は馬の腹を蹴った。  もう、迷う余地も、考える余地もなかった。 「隊長!」  湖馬が驚いて呼び止めようとするが、すでに間に合わない。 「任せたって……私、何すればいいんですか?」  湖馬はとりあえず、居眠りだけはしないようにしようと思った。  激しい馬蹄の響きが、閑散たる通りに轟いた。  早朝の薄い日の光の中を、黒と白の馬が、雪を蹴り立てて並走する。  民家の間を駆け抜ける馬の背には、犀星と玲陽の姿があった。  身を低め、馬の首に胸を寄せて風に耐える。  朱雀門が開く時刻。ちょうど門番が、縄を引いているところだ。  重たい地を擦る音がして、朱塗りの大扉の中央が開かれ、その隙間から、早朝の雪に煙った宮中の景色が、屏風絵のように覗かれる。  兵たちが慌てて、横に飛び退いた。  犀星と玲陽は、速度を落とすことなく、朱市に駆け込んだ。  一面真っ白に開けた朱市のその奥から、一騎の鹿毛がこちらに向かって駆けてくる。 「涼景っ!」  犀星が手綱を引いた。  馬は興奮してすぐには止まらず、辺りを駆けて足を緩めた。  涼景も乱暴に馬を止めた。 「ふたりか!」 「はい!」  玲陽が泣くように返した。玲陽の動揺が、馬にも伝わるのだろうか。いつまでも足が落ち着かない。 「東雨を見ていないか!」  犀星が悲鳴じみた声をあげた。その目はすっかり冷静さを欠いている。  涼景は一瞬で判断した。 「一度、五亨庵へ行こう」  今は時が必要だ。一刻を争うが、むやみに動いても、無駄に過ごすだけだ。  犀星と玲陽の焦りは、逆に涼景を慎重にさせた。  五亨庵の扉を開き、三人はとりあえず、中央の長榻に向かい合った。  火を焚くこともない。  早朝の五亨庵は冷え切って、何に触れても冷たい。だが、むしろ熱い体にはちょうどよかった。 「東雨が、屋敷にいない?」  押し殺した声で涼景が聞いた。 「はい」  黙り込んでしまった犀星に代わって、玲陽が答える。 「今朝、起きて、厨房に行ったら姿がなくて。でも昨日の夜に粥が用意されていて……」 「粥?」 「はい。それも白米だったんです」  玲陽は涙を流してはいなかったが、その目は赤く腫れていた。 「年が明けたら、お祝いに炊こうと、約束していたものです。だから、今、使うなんておかしい……」  白い息をせわしなく吐きながら、玲陽は首を振った。髪を整える間も惜しんだのか、乱れた毛束が頬に流れている。 「気になって、部屋を調べたら……荷物がきれいに片付いていて、板戸は開けたままで。まるで、そこには誰も住んでなかったみたいに……」  涼景は鋭く息を吐いた。  苛立ちか、驚愕か、激しい波が涼景の感情を逆撫でた。玲陽は、襟の間から、木簡を取り出した。 「屋敷中探しました。そして、私の部屋で、これを見つけたんです」  言って、差し出した玲陽の手は、小刻みに震えていた。  涼景は木簡を受け取り、目を向けた。  それは、昔、犀星が玲陽にあてて書いていた文のひとつだった。  文面には東雨という少年のことが記されてあった。 『黒い髪に黒い瞳。利発で明朗で素直で、強い心を持っている。まるで陽のようだ。強がる仕草も、お前とよく似ている。いつか二人を会わせたい』  涼景は戸惑いながら、文面を目で追った。 「これは?」 「裏を見てください」  玲陽に促されて、涼景は木札を裏返した。  そこには犀星の筆跡で、一遍の詩が綴られていた。  犀星は顔を上げずに言った。 「俺の筆跡だが、書いたのは東雨だ」  声に悔しさがにじんでいた。 「東雨どの……詩を書きたいって言ってたので、きっと……」  玲陽の喉が詰まった。涼景は詩を辿った。明らかな戸惑いが目に浮かぶ。 「臨終詩ってやつか……」 「やめろ!」  小さく呟いた涼景の言葉に、思わず犀星が声を上げた。が、すぐに矛をおさめる。 「……すまない」  悔しそうに歯噛みして、犀星は短く息を吐いた。気持ちがぐらついて、どうにもならない。玲陽が犀星の肩を抱き寄せた。犀星はわずかに目を閉じ、胸を抑えた。

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