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17 残り香(3)

 東雨は、小口の刻印をなぞった。『涼』の一文字を指先に感じる。表情を動かすこともなく、ただ、じっと目に焼き付ける。  懐から香袋を取り出した。  前の秋に手作りしたものだ。柔らかく、甘く、そして胸の中が少し痛くなる匂いがする。  優しい手つきで袋を開いて、中から小さなかけらを取り出す。  大丈夫。きっと届く。  再び月を見ると、先ほどより少し光を増したような気がした。  鏡の前に立つと、一枚ずつ、着ているものを解いた。丁寧にたたみ、紐はまとめてゆわえた。  すべて脱ぐと、真っ直ぐに立って、体を鏡に映した。  鏡に映るのは、まるで別人のようだった。いつの間にか背が伸び、手足が長くなっていた。  犀星と並んだときの、視線の近さを思い出す。  いつから、子供ではいられなくなったのだろう。  それが、悲しかった。  襦袢を羽織る。着物を重ねたが、先ほどよりも多くはなかった。  最後に、衣装部屋から持ち出した袍をまとい、帯をきつめに締めた。  これが解かれることは二度とない。  そう思いながら。  髪には、市場に行く前に、犀星にせがんで髪紐を結んでもらった。結び終わった時、犀星の指がそっと東雨の毛先を撫でて、くるっと捻るのがわかった。  嬉しくて笑みがこぼれた。今も、思い出すと自然と顔が緩む。  この顔で、ずっといよう。  鏡の中の自分を見て、東雨はそう思った。  部屋を見回す。きちんと調度品は整えた。牀の敷布も替えた。火の気もない。  東雨は、中庭に面した引き戸を開け放った。部屋が世界とひとつになり、隅々まで光が満ちた。  見上げる月は、残酷なほどに美しかった。  十五……  東雨は数を数えた。  中庭を挟んで、犀星と玲陽の寝室がある。今、戸はしっかりと閉められて、中の様子はわからない。  東雨は姿勢を正し、深く頭を下げた。  そして、できるだけ何も考えないようにして屋敷を出た。何も考えない。そのことだけを考えた。  景色も見ない。足元も確かめない。ただ前だけを見る。顔を上げる。  月光は容赦なく道を照らす。  朱雀門はとっくに閉まって、中に入ることはできない。  数名の門番が、夜通し見張りを続けている。  東雨は慣れた様子で、腰につけていた佩玉を見せた。  門番はちらっとそれを見て、門の脇の通用口の鍵を開けた。  東雨は一瞬、背後の都の街並みを顧みて、意を決したように身をかがめ、くぐった。  夜の朱市は静まっていた。まっすぐ行くと、右手に五亨庵への小道と山桜が見えた。  立ち止まりたい衝動を抑えて、東雨は走り抜けた。振り返らない。絶対に振り返ってはいけない。左目から、涙がこぼれた。白い息が忙しなかった。  いつだったか、やはり、こうやって走ったことがあった。  あの日に戻りたい。たとえわずか数日でも、もう一度、あの日常を過ごしたい。  たまらなくなって、東雨は、一瞬、叫び声を上げた。しかし、それきりぐっと堪えて、中央区を抜け、北区へ入る。  西の果て、目指すのは、右近衛の詰所だ。  最後の仕事が残されている。東雨は詰所の前に人影を見つけて、必死に息を整えた。そこに立っていたのは、湖馬だった。 「東雨? どうしたんだ。こんな時間に」  にっこりと笑って、東雨は汗を拭くふりをして涙をぬぐった。 「歌仙様に何かあったのか」 「いえ。若様なら大丈夫ですよ。今頃、光理様とゆっくりお休み中です」 「え?」  湖馬が目を丸くした。  東雨は、しまった、と誤魔化す。 「やだなぁ、湖馬様。同じ屋敷の中で、って意味ですよ」 「そ……そうだよな! びっくりした……」  湖馬は笑ったが、少しがっかりしたような顔だった。  東雨は、門の奥に見える、詰め所の入り口を見た。 「涼景様、いますか?」  湖馬は、申し訳なさそうに、 「今月は天輝殿の警備だから、あっちへ行ってる。明け方には戻るよ。急用か?」 「いいえ、急ぎではないです。湖馬様は、朝までここにいますか?」 「ああ。伝言があったら伝えるが?」  東雨は、ずっと懐に温めていた包みを出す。 「では、これを、涼景様に渡してもらえませんか?」  差し出すその手は、微かに震えていた。 「渡してもらえば、わかると思うので、俺からって伝えてください」 「わかった。伝言はそれだけか?」  一瞬、東雨は迷った。そして、静かな声で言った。 「はい、それだけです」 「そうか。わかった」  湖馬はあっさりと、包みを腰の袋に入れた。  名残を惜しむように、東雨はそれを、目で追っていた。 「では、お願いします」  しっかりと頭を下げ、東雨は背を向けた。振り返ることはなかった。  空を見ると、満月がぎらぎらと、世界を照らしていた。  嫌いだ、と東雨は思った。  |星《ほし》の光をかき消してしまう。  青白く光る雪の道に、東雨の確かな足音が響く。  中央区の中ほど、天輝殿は堂々たる姿でそびえていた。  皇帝が代々住まいとする御所である。他の建物と比べようもない、広大なその敷地と圧倒的な大きさを誇る。そこは、まさにこの国の象徴であった。  その全てが、夜の暗さと、月の明るさの間で、白と黒の影絵となって、のっぺりと見えた。  門に立っているのは、禁軍の兵だ。東雨は、朱雀門で見せた佩玉を出し、そこを通った。  正面ではなく、脇へそれる。横に細い道があって、その先には、また兵がいる。  兵士に促され、東雨は月光の中から、暗い通路にもぐった。腰をかがめなければならないほど、狭く、息苦しい一本道が続いている。  突き当たりの部屋が、炎の灯りにぼんやりと揺れる。油灯がゆらめく、石造りの狭い部屋へ。  部屋の壁のひとつには御簾が下ろされ、さらに奥に、大きな部屋がある。  小部屋では、既に宝順が待っていた。分厚く柔らかい褥の上に、脚を崩して座っている。  だが、その姿を東雨が真っ直ぐに見ることは許されない。  東雨はかがめていた腰を伸ばした。目線は床に落としたままだ。  姿勢を正し、着物を少し直す。布に触れると、懐かしさと安心感で胸が熱い。東雨が自分の最後に選んだのは、かつて、犀星が初めて、東雨と出会った日に着ていた袍であった。  もう、戻れない。  東雨は、まなじりを決した。  宝順がそこにいるだけで、空気が変わる。  さまざまな言葉を考えてきたが、ここに立つと、ただ黙り込むしかなかった。  何を言ったところで、結果は変わらない。ならば、思ったことを言えばいい。だが、声は簡単には出なかった。  皇帝の存在という圧倒的な力が、東雨の喉を塞ぐ。  幼い日から、この身と心に焼き付いている、本能的な恐怖。それが東雨をここまで押し流した。今、初めて東雨はその流れに逆らおうとしている。  震えることもなく、ただただ、すくんだ。沈黙の中でも、宝順の巨大な威圧は、ひしひしと感じられた。  石造りの小部屋に満ちる沈黙と、また少し質の違う静寂。そして、緊張。  東雨の目に、床の隅の溝が見えた。それは、ここで流れた血を排するためのものだ。 「ひと月、経った」  宝順の声が、そう告げた。  それまでの沈黙が、一瞬で消し飛ぶ。 「首尾はどうだ?」  焦れた様子はないが、決して悠長な答えができる気配ではない。  東雨は息を吸った。胸が詰まったが、とにかく口を開いた。最初の言葉だけは決めていた。 「俺には、できません」  思ったよりも大きな声が出た。自ら、命を手放す一言だった。 「よいのだな?」  問われ、東雨は、それが最後の一手なのだということを悟った。  そっと目を閉じ、力を抜く。 「俺にはこれ以上、あの人たちを裏切ることはできません」  それは、自然とこぼれた本心だった。 「よし」  と、宝順は言った。決して東雨を許し、自由にする意思はない。  宝順がじっと、自分を見ているのがわかった。その視線はじりじりと痛く、額のあたりに向けられている。 「やれ」  短い声で宝順の指示が飛んだ。  御簾が動き、禁軍の兵が二人、左右から東雨目掛けて狭い室内に入ってきた。東雨は反射的に飛び退こうとしたが、叶わなかった。両肩が、まるで硬い物でもつかむように無遠慮な力で押さえつけられた。痛みが走るが、悲鳴は上げなかった。  引きずられ、東雨は大部屋へと連れ出された。  そこは、床も壁も、積み上げられた石で囲われていた。  一番奥の壁に大きな木の扉がある。その先は近衛も巡回する日常の空間だ。だが、その扉が東雨のために開かれることはない。  後ろから宝順が近づくのがわかった。 「よく仕えた」  冷えた、宝順の声がした。 「最期は、いい想いをさせてやろう」  兵士の手が、東雨の襟を開いた。白く滑らかな肌が、若い色香を放つ。  東雨は自分がどうすべきなのかわからなかった。叫び、もがいて、助けを乞うべきなのか、それともおとなしく、差し出すべきなのか。  俺は、どんなふうに輝けばいいんだろう?  東雨は、ずっとその一点を考えていた。  そして、あらがうことを、やめた。  髪に、犀星が触れた感触を思い出す。自然と東雨は微笑んでいた。

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