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17 残り香(2)

 拾い上げた焼印をしっかりと握る。  女を店の中に戻し、暁隊をかき集めて捜索したが、逃げた男は見つけられなかった。  間違いなく、男は表門を通った。暁隊ともすれ違ったはずなのだ。それでも誰も見ていないという。  見たかもしれないが、忘れたのだ。  と、蓮章は直感した。まともじゃない。おそらくここには闇がある。それも相当深い。  花街の、人の情に溺れるようにして育った蓮章は、どのような戦略よりも、軍略よりも、『情け』の恐ろしさが身に染みている。  今日中に宮中に戻ろう。  これ以上、ここにいても何も起きない。蓮章の直感が告げていた。  風が酒の匂いをはらんで、ふっと吹き過ぎた。  夜が少しずつ薄れ、朝の気配が忍び寄ってくる。  白い息が、長く煙る。太陽が登れば、花街は眠りにつく時刻だ。   道の向こうから見覚えのある采がこちらに歩いてきた。昨日、伽羅の元へ案内した男だ。  嫌な予感がした。蓮章の顔色が変わったのを見て、采はうなずいた。 「今朝、死んだ」  蓮章は、じっと手元の印を見た。既にそれは冷めて、黒々としている。  ……あと一日、時間をくれ……せめて、弔いだけでも。  蓮章は空を見た。月は見えず、朝の弱い日の光が、眠り始めた夜の街に、斜めに差し込んでいた。  毎日が本当に静かで、そして賑やかで、平和で、そして胸踊る時間なのだ。  玲陽は、自分が今、本当に生きているのだと思った。  そばには、誰よりも大切な犀星がいる。自分の体は傷つきながらも、間違いなく強い命を抱き続けている。都の冬は厳しいが、それさえ笑って過ごせるような温かい人の輪が広がっている。  慈圓は、養父の犀遠に似て、厳格で信頼できる良き師だった。  緑権は、頼りないところはあるが、その人柄は五亨庵の雰囲気によくなじみ、いつも話題の中心になってくれた。  相手の顔色を伺って関わりに臆する玲陽にとって、彼らは裏表のない心安らぐ存在であった。  頻繁に訪ねてきては、外の話題を持ち込んでくれる涼景も、玲陽の成長には欠かせない。  そして、何より……  玲陽は、犀星の隣を歩く東雨の後ろ姿を見た。  五亨庵でも、都の屋敷でも、常にそばにいて、明るい笑顔を見せてくれる東雨の存在が大きかった。  東雨は、失われた玲陽の子供時代を思い起こさせてくれる。  こんなふうに大人になっていけたらよかったな、と、玲陽は、東雨を見るたびに思う。たくさんの個性的で優しい人間たちに見守られ、大切に育まれる東雨の姿は眩しかった。  自分もまた、この人のために何かできれば、と願わずにはいられない。  ずっと犀星のために尽くしてくれたという感謝がある。また、自分のために寂しい思いをさせてしまったという申し訳なさ、それでも笑顔を向けてくれる優しさ。時折見せる、強くまっすぐに未来を見つめる意志。  これからの東雨の姿が、楽しみでならない……  東雨は、玲陽の希望だった。  そうであったから、その日、一緒に料理がしたいと言い出した時も、玲陽はとても嬉しかった。  午後の市場を歩きながら、玲陽は終始、笑っていた。  少し前まで、あれほど恐ろしい場所だった市場という空間が、今はとても居心地がいい。 「悌君!」  肉屋の店主が、屋台の向こうから呼びかけた。玲陽は、はい、と少し首を傾げるいつもの仕草で、呼び声に応じた。 「今日はまだ、豚があるよ。柔らかいところを、蒸豚なんかにどうだい?」  玲陽は東雨を見た。東雨は振り返って、いかにも、見ればわかる、という顔で商品を覗き込んだ。 「おじさん、一斤でいくら?」 「四文にまけとく!」  東雨は、にんまりして主人を見た。 「それ、まけたって言わないでしょ?」  店主はわざと考えるふりをして、 「なら、豚足もつけてやろう。いい煮汁がでるぞ」 「そっちの砂肝も、三人分、お願い!」  東雨が片目を瞑って頼み込む。庇護欲が掻き立てられる東雨の笑顔に、店主は弱い。 「……仕方ないなぁ!」 「買った! おじさん、大好き!」  東雨は満足そうに、肉の包みを市籠に入れた。 「お見事です」  玲陽は小さく手を叩いた。 「任せてください! 我が家の家計は俺が守りますから!」  ふぅ、と犀星は短く息を吐いた。 『親王様が、民から食べ物を恵んでもらうなんて、どうかしています!』  昔、人から野菜を分けてもらうと、東雨はよくそう言って怒ったものだ。それが今では、まるで当たり前だという顔をして、値切り勝負に挑んでいる。  逞しくなったものだ、と素直に犀星は嬉しかった。  幼いころから、何も贅沢をさせてやらなかった。  甘えることを覚えずに、大人にしてしまった。  自分を戒めるのと同様に、東雨にまで、厳しい価値観を押し付けていたことが悔やまれる。それなのに、東雨は卑屈になることなく、のびのびと豊かな感性で大人になった。  もうじき、十八か。  年が明ければ、決めねばなるまい。侍童として過ごす日々は、あとわずかだ。  できれば、そばに置きたかった。  しかし、東雨の人事権は、犀星にはない。  何事もなく、過ぎて欲しい。  犀星は、それだけを祈った。  ここ数日、東雨の様子が明らかにおかしい。  いっときの、追い詰められた孤独は影を潜めているが、逆にそれが不安を煽った。全力で笑い、全力で没頭する。まるで、その一瞬一瞬に、燃え尽きようとするかのような一途さがあった。  十年、ともに暮らしているのだ。東雨の違和感が、犀星にはわかる。  今夜は、満月、か。  それが、余計に心を落ち着かなくさせた。 「光理様、蒸豚と、あと、何にしましょう?」  東雨は犀星の心配など知る由もなく、玲陽と共に次々と店棚を巡っていた。  ちょうど、買い物客の一人に些細な相談事を話しかけられた犀星は、買い物をふたりに任せ、少し賑わいを離れた。 「体が温まる汁物がいいです」  言いながら、東雨は、視界の中に常に犀星の姿をとらえている。本来なら、そばを離れることは許されない。しかし、犀星とて一人で動きたい時もある、と、東雨は自然と距離を測っている。 「光理様、決めてください。俺、何を食べたらいいか、わからないので」 「そうですねぇ……」  玲陽は家にある野菜を思い出しながら、 「では、白菜と葱と椎茸はありますから…… あと、里芋だけ買って、|羹《あつもの》、作りませんか?」 「いいですね、それ!」  東雨はにっこりとした。  籠に積まれた里芋を挟んで、東雨は再び店主との交渉を開始する。  玲陽は横目に犀星を探した。  少し先の店先で、何かを買い求めているようだ。  もう一度、東雨に向き直る。  駆け引きを楽しむように賑やかなその横顔が、なぜか、危なげに感じられた。  なぜだろう、胸が騒ぐ。  玲陽は長袍の襟を寄せた。 「光理様、寒いですか?」  東雨は玲陽の仕草に気づいて、心配そうに首をかたむけた。 「え、ええ。少し」  と、玲陽は誤魔化した。 「そうだ、生姜も買って行きましょう。安珠様にいただいた甘草があるので、薬膳茶を作ります。風邪予防になるって教えてもらいました」 「そんな、申し訳ないです」 「いいえ、国のためですから!」 「……国のため?」  玲陽にはよくわからない理由だったが、東雨が幸せそうに笑っていたので、納得することにした。  夕食の後、東雨は約束の茶を用意していた。  かまどの薪がもったい無いので、同時に粥も煮る。明日の朝は温めるだけで朝食になる。粥には、今夜の残りの生姜と白菜を入れた。そこに、椎茸の戻し汁も加えた。  明日の朝、暖かく召し上がってくださいね。  東雨の目は優しかった。  安珠からもらった甘草と一緒に、生姜のすりおろし、常備している陳皮を煎じる。  香りが強く苦味もあるが、だからこそ、こっそりと|遠志《えんし》を仕込むにはもってこいだった。 「ごめんなさい……今夜は、眠っていて欲しいんです」  東雨は、ふたつの湯呑みを見つめて詫びた。  静かに湯気がたちのぼる。  盆に乗せて、犀星たちの寝室にゆく。  暗い回廊は、いつもより短く感じた。  もっと、歩いていたかった。  部屋では、静かにふたりが待っていた。  いつものように茶を渡すと、疑いもせずに口にする。それ以上、見ていることが辛くてたまらず、東雨は笑顔が崩れる前に、部屋を出た。  ここに来るのも最後だ。  東雨は衣装部屋の戸を開けた。  薄暗い中、箪笥に手をかける。  そこには丁寧に畳まれた、濃紺の袍が収められている。  両手で抱き抱えるようにして、大切そうに取り出した。古く使い込まれており、丁寧な修繕の跡が見られた。顔を埋めると、懐かしい犀星の匂いがした。  東雨は、ちらりと文の箱を見た。その目は何かを祈っていた。  東雨は袍を抱いて、自分の部屋に戻った。  火鉢に火は入れない。  もう、その必要はない。  月のあかりの下、東雨は毛氈の上に座って、そっと懐刀を取り出した。  こうして手にしているだけで、心が落ち着く。  刀は暗い罪の記憶だが、同時に、その罪を共に背負ってくれる友のようでもあった。  ずっと昔から懐にあり、体の一部であった気がする。  東雨は刀身を抜き、鞘を膝の上に乗せた。  冴えた刃は美しい。  命を奪うその輝きが、これほどに綺麗なのはなぜだろう。  それはきっと、奪う者もまた、傷つく者だからだ。  その傷を慰めるように、刀は、美しい。

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