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17 残り香(1)

 甘い香の煙が染み付いた、木目の目立つ娼館の二階の窓辺で、蓮章は十四日の月を見上げていた。  窓枠に持たれて、右膝を立て、気だるげにくつろぐ。部屋の暗さと月夜の明るさの境界に座る彼の姿は、不思議な色香に包まれていた。  生死の境にいる。  その面影はどこか達観しているようで、それでいてささやかな命を頼りにする儚さがあった。  最も暗さの濃くなる時刻を過ぎても、花街の灯火は消えない。  この街は、最も薪を使うな。  蓮章の目に、ぼんやりといくつもの炎がゆらめく。  花街は火の街だ。  篝火が燃える大通り、夜道を動く提灯、油灯の下の濡れた肌。  歌仙親王が燃料の調達に熱心だったのは、花街のためなのではないかとさえ思う。  そこがまたいい。  蓮章なりに、犀星の事は気にいっている。  一見冷徹に見えて、実は相当に情の深いやつだ、と踏んでいる。そうでなければ、傷ついた玲陽を、あれほど包み込んで導くことはできなかっただろう。そして、この街の人心を得ることもなかったに違いない。  犀星が花街の昼の顔ならば、自分は夜の顔になれば良いと勝手に思っている。  蓮章は今夜、部屋だけを借りた。  一人で静かな時を過ごしたい気分だった。  蓮章の眠りは浅い。疲れたら眠る。そうでなければ、昼夜を問わず起きている。  酒も薬も効かない体を、強制的に休ませることはできなかった。  自然に任せるさ、と、いつも蓮章は笑っている。  自分が人より仕事ができると思われるのは、おそらく時間があるせいだ。  蓮章は決して謙虚でもなければ、卑屈でもない。むしろ周囲には、増長していると煙たがられる。そう見られても、否定はしなかった。  明かりも灯さず、ただ香りだけが漂う部屋で、ぼんやりと思索に沈む今、涼景は一人で座る間もなく働き詰めだろう。  悪いな。  花街への潜入は、もちろん、仕事の意味が第一だが、噂に振り回される蓮章を、少しでも静かにしておきたいという涼景の配慮もある。  静かにするどころか……  と、蓮章は聞き耳を立てた。  蓮章の勘は鋭い。漏れ聞こえてくる男女の声のさらに遠くに、暁隊や自警団の動く気配を感じる。  あいつら、大丈夫か?  涼景が蓮章をここへやった真の意味は、暁隊のお目付け役だろう、と察していた。  休んでいても、蓮章の腰には、いつでも抜けるよう、刀が下がっている。実のところ、蓮章の剣技はさほどではない。彼の得意は弓と知略と交渉術だ。  いざとなったら、暁に任せるさ、という心構えでいた。  窓から見える景色は、月と星の他に動くものはない。  下を見れば、一階の軒と、さほど広くない中庭が広がる。庭の右手が前庭と繋がって門へと抜けている。時々下の階から、酒宴の賑わう声がたちのぼる。  花街の夜は眠らない。  これこそ自分にはふさわしい。昼も夜もなく、公も私もない。そこにいるのは、いずれも勝手気ままな俺自身だ、と少し気取った気分になった。  きっと、月の光のせいだ。  蓮章はまた、白い空の灯りを見た。明日は満月だ。  蓮章が初めて花街に足を踏み入れたのは、十四の時だった。  たまたま、涼景の仕事について巡察で回っていたのが運の尽きだった。当時、まだ少年だった蓮章は、興味本位の男たちの格好の獲物だった。  それは、場合によっては悲劇であっただろう。だが、蓮章にとっては幸運だった。  彼は幼い頃から、酒と薬に慣らされ、毒され、染められて、感覚がすっかり麻痺していた。そのため、世の中の快楽というものを知らずに育った。  それが、初めて花開いたのがこの街だ。  すべてを忘れ、興じることのできる享楽は、蓮章にとって唯一残された、生きる実感だった。己を磨き、それを武器とした。その果てが今である。  涼景が引き止めなければ、とっくに壊れて首を吊っていたかもしれない。  忠義に厚い、真面目すぎる親友は、蓮章にとっては、ちょうどいい重しになってくれる。だからこそ、こうして切り離されてしまうと、自分がどこかへ飛んでいってしまいそうな不安定な気持ちすらした。縛る鎖は時として必要だ、と蓮章は思っている。  風が、蓮章の髪を無造作に揺らした。中庭の隅の篝火も揺れた。火に照らされて、ぼんやりと庭の景色が浮かぶ。木の塀に囲まれ、その向こうには隣家の屋根しか見えない。  時折、誰かが火に薪をくべに来るが、それ以外は静かで変わりばえがない。  蓮章は、かすかな息遣いを聞いて、庭を見回した。  いつからそこにいたのかわからないが、篝火の近くで、男女が睦み合っていた。女の方は木を背にし、男がその前に立っている。蓮章は、うっすらと笑いを浮かべ、それを眺めた。  月よりは面白い。  男はしきりに女の体を触って、あれこれと試しているようだ。女のほうも興がのっているらしく、自ら男の首に腕を回している。  時折、着物がめくれ上がって、女の白い足がニュッと伸びる。その曲線は美しいが少し痩せている。  男は片手で女の襟を腰のあたりまで引き下げた。  冬の未明の寒空に……  蓮章は、その所作に眉を寄せた。  男女ともに来るもの拒まずで、決して上品な愛撫を好む蓮章ではないが、こんな夜に相手の肌をさらすような真似はしない。  しかし、目の前の男にそんな配慮は無いようだった。  俺より最低だな、と蓮章は思った。  しばらくそうして戯れる男女を眺めていたが、男に不審な動きがあって、蓮章は思わず体を起こした。窓枠に手をかけ、身を乗り出す。  男の手が、女ではなく、篝火の方に伸びている。女は、それには気づかずに、しがみつくことに夢中な様子だ。  蓮章は目を凝らした。  その眼差しには、わずかな異変も逃さない厳しさがあった。  篝火の、わずかに下あたりで、男の手が動いていた。次の瞬間、男が何かを火の中から抜き取るのが見えた。短い棒の先端が赤く染まって、闇に浮かび上がる。 「見つけた!」  蓮章の体がとっさに動いた。  座っていた木枠を蹴って、一階の軒の上に飛び降りる。激しい音がして、軒の瓦が崩れる。それを蹴って、さらに地面に降りた。 「誰かっ!」  蓮章は腹から叫んだ。自分一人では追うことができないのは明白だった。  表には、暁隊がうろついている。 「藍の長袍、白の襟、玉簪、佩飾、黒の帯!」  男の特徴を大声で叫ぶ。表側で、暁隊がそれを聞きつけた声がした。  男は、一瞬迷ったが、裏に逃げ道はない。木の塀は登るには高すぎる。  やむを得ず表の方へ駆け出す。  その後ろ姿を蓮章は追った。門を駆け出した男を追う、暁隊の数名が見えた。 「逃すな!」  蓮章の声はどこまで届いただろう。  蓮章は急いで庭にとって返すと、女を探した。何が起きたかわからないという顔で、女は裸体をさらしたまま、突っ立っていた。  蓮章は女に近づき、黙って着物引き上げた。それから、足元を調べる。  ……あった!  思わず息を呑んだ。足元には男が投げ出した、焼印が転がっていた。そっと手に取り、印面を見る。反転しているが、それは明らかに蓮章が追い求めていたものだった。  蓮章は興奮した面持ちで、女を振り返った。女は、ぼんやりしたままだ。 「おい……」  一瞬、昼間に見た加良の目がよぎって、蓮章は不安になった。だが、女の体に傷はなかった。 「……あら、蓮さん。お久しぶり」  今しがた我に返った、というふうに女が言った。  蓮章はほっと肩を下げた。 「大丈夫か? 痛みは?」 「ないけれど……」  言って、女は、寒いというように体を抱いた。  蓮章は自分の長袍を差し出した。 「今の男、名前と顔を教えろ」  女は黙って袍を羽織りながら、  「誰って……涼さんじゃないの」  と、言った。  蓮章は、そのままの顔で凍りついた。 「……燕涼景のことを、言ってるのか」 「当たり前じゃない」  女は、怪訝そうに、 「私は一筋なんだから、見間違えるわけないでしょう?」 「……いや、そうじゃなくて……」  一瞬、蓮章の面に素が戻る。 「ここに、涼景がいたって?」 「……ええ」  訳がわからない、と、蓮章は眉をひそめた。 「ちょっと、蓮さん、しっかりして。酔ってる?」  蓮章は、二階から見た男の後ろ姿を思い出した。  涼景の背中なら飽きるほど見てきた。間違いなく、あれが涼景ではないということは、蓮章にとっての確信だった。 「涼じゃない」  はっきり、蓮章は否定した。 「なぜ、涼だと思った?」  問い詰める蓮章に、女は少し怖気づいた。 「どうしてって言われても……だって、目元が……あれ、顔が、はっきりしない……」  と、言葉を濁す。 「おかしいな……なんだろう。なんか、わからなくなってきちゃった……」  女は、本当に記憶が消えていくというような素振りで頭を振る。蓮章は怪しんだ。不可思議な力が、記憶を歪めていると感じる。 「おい、しっかりしてくれ」 「おかしいなぁ。確かに、涼さんだと思ったんだけど……」  と、女は少しずつ恐怖の顔に変わる。 「あれ……誰だったんだろ」  とうとう、女の記憶が全て消えた、と蓮章にはわかった。 「……涼が、こんな真似するわけないだろ?」  と、蓮章は、顎で女の乱れた着物を指した。 「そうよね……」  女も納得しつつ、不安な顔をしていた。 「私、どうしてあの人を、涼さんだと思ったんだろう……」  今まで隠されていたものに触れた。蓮章には、その感触があった。

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