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16 命の代償(3)

 その力に、何度、助けられてきただろう。そして、この雪かき痕のような、迷いのない真っ直ぐな生き方に、どれほど惹かれてきただろう。  若様と同じ道、歩きたかったな。  もう、泣くまい、と決めていたが、自然と溢れてきてしまう。  東雨は急いで、人気のない屋敷に入った。  厨房を覗く。朝、家を出た時に仕込んでおいた、夕食用の干し椎茸の香りがした。  板戸を締め切り、冷えた回廊を通って、先へ。  自分の部屋から、東雨は筆と硯、墨を盆に乗せ、持ち出した。そして、玲陽の寝室のとなりにある衣装部屋に入ると、明かり取りの窓を開けた。  机架の下に隠してある木箱を取り出す。犀星の文を納めた箱だ。  中の木簡を、ひとつひとつ確かめる。見極めたように、ひとつを選んで、蓋の上においた。  墨をとき、小筆を浸して、そっと掲げる。  文の裏に、筆先を当てた。  慎重に、東雨は小さな文字で、書きつけた。 『紅葉映余命 殘光盡亦榮 願君懷此悦 寸刻盡心誠』  それは、犀星の筆跡だった。  東雨はその文だけ、懐に入れ、あとは元通りに片付けた。  そして、静かに玲陽の部屋を訪ねた。  玲陽は、眠るときは犀星の寝室を使っているが、新月の夜にだけは、この部屋で過ごすことを知っている。  東雨は、枕の端に、そっと木札を隠した。   きっと、気づいてくれますよね。  そう、祈りながら。  花街の西の女郎屋を出て、蓮章は、中央の堀沿いを北へと向かった。  石畳の通りに、紅ちょうちんや絹ののぼりがかかっている。  犀星が整備した柳の並木が、堀の水に葉の緑を映し、雪景色の中で美しくそよいでいた。  この街は、歌仙親王の街だ。  都の権力者たちが見向きもしなかったこの場所に、当時十六歳の犀星が政治の手を入れた。  街の区画を整備し、建物の補強や解体、新たな建築の段取りをつけた。同時に、治水の整備を重点的に行った。  それまで、このあたりは火事となれば、一帯が全焼という悲惨な経験をしていた。  治水工事は、防火の意味も兼ねた大規模な計画だった。  消火のための貯水槽、延焼を食い止める水路による区画分け、常緑樹による防風と飛び火の予防、井戸や都の外を流れる川からの引水。  水と共に暮らす歌仙で育った犀星らしい、生活に根付いた合理的な改革だった。  犀星は親王という地位ではなく、その政策の成果と、それに取り組む姿勢によってこの街に受け入れられた。気取らず、常に住む者の目線に立てる若い親王は、いつしか花街の誇りとなっていた。  蓮章もまた、若い頃から縁があって、この街とのつながりが深い。  犀星が、街を手懐けていくのを、蓮章も傍で見てきた。自分にはない才能を、うらやんだこともあった。だが、犀星には見えていて、蓮章には見えないものがあるように、逆もまた然りだ。  この街を流れる情には、蓮章の方が詳しかった。  北の堀の脇に、ひときわ目を引く華やかな妓楼がある。様々な事情で花街に流れ着いた者たちが、この店で初めての客を取る。  通りに面した立派な格子戸つきの門には、どこか牢獄を思わせる気配がひそんでいた。それを取り繕うように、金や朱をあしらった装飾彫刻がほどこされている。  門の前には、自警団の男が立っていた。  花街には昔から、自治の気風がある。今回、暁隊が入ることを自警団が許したのは、他でもない、歌仙親王の王旨があればこそだった。  蓮章は、自警団の男に用向きを伝え、中に入った。  土間から一段上がった板敷の広間に帳場がある。そこに座っていた采の一人が、蓮章を身知っていた。 「蓮さん、まだ開店前なもので」  蓮章が首を振った。 「客としてじゃない。加良に会えるようになったと聞いてな」  采の表情が曇る。 「ああ、そっちでしたか」 「無理そうなら、もう少し時を潰してくるが?」 「いえ、旦那から話は聞いてますので、案内はできますがね」  采は少し考え込みながら、 「あまり、期待しないでくださいよ。お役に立てるかどうか……」 「頼む」 「それじゃ」  采は、気乗りがしない顔で、帳場を同僚にまかせ、立ち上がった。  控えの間を横に見ながら、奥へ進む。廊下には御簾や布が垂れており、部屋の中は半ば見えない。たどたどしい琴の音が、客を迎える前の最後の稽古らしく響いていた。  奥には、なじみ客だけが通される小部屋が並んでいる。だが、采はそこを過ぎて、建物の裏側に回った。  蓮章はこの店によく出入りするが、これほど深くまで入ったことはなかった。  表の華やかさとは裏腹に、どこか場末の侘しさがあった。  裏庭の隅に、小さな庵がある。昔は賓客のための離れだったのだろうが、今はすっかり色もはげ落ち、寒々しかった。 「こちらです」  采は庵の板戸に手をかけた。 「驚かないでくださいよ」  そういって、ゆっくりと開く。  中を見るより早く、蓮章は匂いに気づいた。きつい糞尿の匂いがする。 「そういうことです」  蓮章の表情を見て、采は言った。 「自分じゃ始末もできなくてね。本当は店に置いとくのも困っているんですがね」  と、小さく舌打ちした。  薄暗く、光も入らない庵の中で、隅のほうに一人の女が座り込んでいる。汚れた薄い単衣は着崩れ、痩せた手足が伸びていた。  家具らしいものは牀が一つだけだ。簡易的に用を足せるように、陶器の箱と大量の汚れた布が積まれていた。 「まぁ好きにしてくれていいので」  と、采は少し離れた。  蓮章は、黙って中に入ると、天井近くにあった格子窓を開いた。  まぶしい光が差し込んでくる。同時に風も抜ける。  蓮章は、女のそばに膝をついた。 「加良」  女の名を呼ぶ。蓮章の顔は、あまりに優しかった。  女は焦点の定まらない目で、声のした方へ顔を向けた。崩れて解けた髪に、髪脂が固まって埃がそのまま、張り付いている。  蓮章は整った目元を曇らせた。  この女は一連の焼印事件の、最初の被害者だ。  あの日の朝、蓮章はこの店にいた。そして、加良もまた、隣の部屋で客をとっていた。  戻りの遅い加良を覗きに行った店の者が、部屋の中で気を失っている加良を見つけ、事態は発覚した。  すぐそばにいながら、気づくことも、止めることができなかった。  蓮章の顔に、隠しきれない悔しさがにじむ。無力感は蓮章を苛立たせたが、今はただ、この傷ついた娘を助けたかった。 「加良、わかるか」  蓮章は、そっと頬に手を添えた。白かった加良の肌は、より青白く冷たい。頬はこけ、張りのあった笑顔は失われていた。まともな食事も与えられていないのだろう。傷が治るどころの話ではない。このままでは衰弱してしまう。  部屋には火鉢ひとつない。凍え死ぬのを待っているのかもしれない。 「加良、覚えてるか」  蓮章が話しかけても、加良は反応を示さなかった。 「おまえにとって、俺は、初めての客だったよな」  言いながら、乱れた黒髪を撫でる。 「おまえは一晩中泣いて、結局、俺に何もさせてくれなかった。あれ以来、お前を抱く気が失せた」  そう言って、寂しそうに笑う。  加良には、何も聞こえていないのか、ぼんやりとしたままだ。それが蓮章には辛かった。せめて泣き叫んでくれたなら、慰めようもあっただろうに。  感情が抜け落ちた加良は、まる人形のようだ。いや、人形でさえ、わずかに微笑みを浮かべているというのに、それすらない。  蓮章は、加良の手に小さな袋を預けた。 「お前が好きな花飴だ」  そう言って一つ取り出し、加良の目の前に持って行く。花の形をした、薄い紅色の優しい色合いが、冬の日差しでキラキラと光った。 「わかるか」  蓮章はまるで、妹に話しかける兄のようだ。  それでも加良は、眉一つ動かさない。  ただ時折、思い出したように瞬きしたが、その目は何も見てはいなかった。  蓮章はそっと花飴を加良の唇にあてた。反射的に、わずかに口が開く。そのまま含ませ、喉を詰まらせることがないよう、抱き抱えて首を支えた。  舌に触れた飴の甘さに、加良は気づいたようだった。微かに顎を動かし、舐める仕草をする。蓮章は額に唇を寄せ、声をかけ続けた。 「加良、何でもいいんだ。覚えていることを話してくれないか。お前をこんな目に遭わせた奴、放っとくわけにいかない。頼む、力を貸してくれ」  蓮章の呼びかけに、加良は何も言わない。  傷ついた痛みと恐怖は、少女の生きようとする心を壊してしまった。それはもう、死よりも辛い崩壊だった。  花街の女は情が深い。  中でも加良は健気だった。  蓮章が加良を抱かなかったのは、その一途さを恐れたからかもしれない。  蓮章の祈るような眼差しに、加良の視線がふと揺れた。蓮章は息を飲んだ。 「わかるか。俺だ!」  必死なその呼びかけが、加良の心にわずかに波を立たせた。 「蓮……にぃ」  初めて加良の目が蓮章と重なる。  蓮章は嬉しさで、思わず微笑んだ。普段の、どこか冷たい笑みとはまるで違う、子供のように無邪気な笑顔だった。  だが、それとは対照的に、加良は驚きと不安を浮かべ、やがて恐怖へと変貌する。息を飲み、体を震わせ、おののくように身をよじった。 「……いや!」  鋭く叫んで、加良の手が振り上げられた。蓮章の左目を指先がかすめ、痛みが走る。反射的に体を逸らして、蓮章は後ろから抱きすくめた。加良の手足から力が抜け、そのまま気を失う。  扉の外にいた采が、何事かと中を覗いた。 「蓮さん、大丈夫かい?」 「……ああ」  加良の口の端から、小さくなった花飴がこぼれた。蓮章はそっとそれをつまんで、口に含んだ。 「もうすぐ、店開けますんで、そろそろ……」  采が、表を気にしながら言った。  蓮章は加良を抱き抱えて牀へ運ぶと、背中の傷が痛まないよう、横向きに寝かせた。花飴の袋を、加良の懐に入れ、手を重ねる。  ……俺を、抱いていけ。  加良は答えない。蓮章は頬を撫で、顔を寄せ、痩せた指を握った。その指先には、蓮章のまぶたから移った粉化粧が、うっすらと残っていた。

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