52 / 63
16 命の代償(2)
急に世界が遠のいた。風がそっと東雨の髪を撫でて、冬の香りを届けてくる。金木犀の匂いはしない。東雨は、そっと袖の中の小袋を嗅いだ。少し胸の中が暖かくなる気がした。
それから、もう一度景色を見て、続けた。
「楓の木、枯葉、落ち葉、紅葉……」
ふと目を落とす。
もう、ずいぶん昔に思える。
初めて五亨庵に来た日に、玲陽がそっと並べていた葉が、今はもうすっかり埋もれて見えない。けれど、雪の中で、確かにあの葉は今も、輝いているのだろうと思った。
あの時の玲陽の言葉は、忘れてはいない。
『命の終わりに、葉が輝く』
命の終わりが来た時、自分は最後まで紅葉のように輝いていたい。誰かの心に残れるほどに。
東雨は、空を見上げた。鳥が数羽、横切っていった。
「鳥……」
その時、ざざっという音がして、桂の向こうで何かが動いた。
野生の動物でも迷い込んだのだろうか。
東雨は首を伸ばして、奥を覗いた。
雪の上に、見慣れない、灰色の塊があった。
東雨は一歩ずつ近づいた。踏み出すごとに、膝まで雪に埋もれる。ゆっくりと進む。
鳥……鳩だ。
東雨が近づいても、鳩は動かない。手を伸ばしたとき、突然バタバタと跳ねて、雪の上を滑った。東雨はびっくりして、思わず腰を引いた。深い雪が支えになって転ばなかったが、少し危なかった。
こんなに間近で鳩を見るなんて、初めてだ。
東雨は、息をひそめ、また手を伸ばした。鳩は片方の翼を広げたまま横倒しになっている。
顔が見えた。目は黒く開かれたままだ。
「……生きてるよね」
注意深く両手を差し出す。そして、そっと鳩の胴体を包んだ。それはとても柔らかく綿のようだ。そして軽かった。引き寄せ、持ち上げると、伸ばされた羽根がだらりと垂れる。
「怪我をしてる……」
そういえば……
昔、犀星と狩に出かけた時、雛鳥が巣から落ちていたことがあった。
見上げると、東雨でも登れそうな場所に、小枝を集めた巣があった。東雨は何も考えずに鳥に手を伸ばした。それを犀星が止めた。
「見てみろ」
犀星は脇の茂みを示した。一匹の細い狐が、じっとこちらを見ていた。酷く痩せて、あばらが浮いていた。
どうする? と、犀星は東雨に目を向けた。東雨は差し出していた手を下ろし、首を横に振った……
「どうしよう……拾っちゃた」
そのまま雪の上に置いておくのはしのびなく、東雨は裏口に向いた。
両手が鳩でふさがっていたので、歩くのにはずいぶん苦労した。詩を作ることは、とっくに頭から消えていた。
「もう、できたんですか?」
中庭から戻ってきた東雨に、緑権が真っ先に声をかけた。
東雨はその声が聞こえていないように、足早に広間を横切ると、薪が燃える炉の前に座った。自分の長榻を脱ぎ、畳んで床に敷く。その上に、そっと、鳩を下ろした。手をかざして、熱すぎはしないか、と距離をはかる。
無視された緑権が、東雨の後ろから近づいてきた。
「あれ、鳩?」
「拾ってしまいました」
東雨は、困ったように言った。
緑権は、興味津々に覗き込んで、
「鶏と同じやり方でいいんですか?」
「え?」
「だって、食べるんでしょ」
「え!」
東雨は悲しい顔で、緑権を振り返った。
「焼きます? 鍋にします? 私は鍋の方がいいです。ネギや生姜と一緒に煮込むと、肺や腎臓によくて……」
「ダメです」
東雨は思わず叫んだ。声に驚いて、玲陽と犀星が顔を見合わせた。
緑権は首をひねって、
「では、いいです。焼き鳥で」
「それもダメです!」
犀星が、席を立って様子を見にきた。
片羽根を伸ばして置かれている鳩を見つけて、眉を寄せる。東雨はさっと、犀星から顔を背けた。
「翼が折れているな」
犀星は、鳩の左の翼を探った。
「……爪痕がある。猫にでもやられたか」
「……ごめんなさい」
東雨は鳩を見つめたまま、
「拾っちゃいけない、って知ってたんですけど、気づいたら拾ってました」
と、幼い言い訳をした。
犀星はそれには答えず、ただじっと東雨を見つめた。
「温めてやれ」
意外な言葉に、東雨は驚いて振り返った。玲陽がすでに、箪笥の引き出しを一つ開けて、東雨に差し出していた。
「これを使え」
慈圓が、橙色の毛氈を、引き出しの中に敷いた。
「あ、それ、私の……」
緑権の抗議は、慈圓の一睨みで封じられた。
「ありがとうございます」
東雨は、皆の顔を順に見た。
東雨のよく動く細い指が、丁寧に鳩をささえ、引き出しの中におさめる。
緑権は、まだ鳩肉に未練があるようだったが、さすがに犀星が出てきた以上、料理の提案は差し控えた。反対に、怪我の様子を尋ねる。玲陽が、少し言葉を選びながら、
「少し、難しいと思います」
と、控えめに言った。
「鳩は小さくて、体のつくりもよくわからないですし……」
「それがわかったら、助けられますか?」
東雨が、玲陽を見つめた。玲陽は素直に首を横に振った。
「ごめんなさい、私には……」
「……いえ、いいんです」
東雨は、もうその場を動くつもりがないようで、鳩の引き出しの前に膝を抱えて座り込んだ。
それから間も無く、鳩は息を引き取った。最後に強く不規則に羽ばたき、飛ぼうとするように暴れたが、胸が何度か伸縮し、そして、静かになった。
涙こそ流さなかったが、東雨はその冷たい脚と嘴を自分の手で包み、温めながら、ずっと座っていた。
羽毛に包まれた体は、手で温めればまだ生きているように温みをもつ。
「東雨、大丈夫ですかね」
緑権は、まだ少し、鳩の行く末を気にしていた。横目で緑権を見ていた慈圓が、やれやれという顔で立ち上がった。ちらりと犀星に目を向ける。何かを察したように、犀星は頷いた。そのやりとりを、玲陽がさらに見守っている。
「東雨」
呼ばれて、東雨は顔を上げた。
慈圓は、一呼吸置いてから、
「その鳩を、どうする?」
「どうするって……?」
「たとえば……墓を作って埋めてやる、とか?」
「ああ、そういうことですか」
東雨は、じっと鳩を見た。
「考えていたんです。この鳩が、最後まで輝くには、どうしたらいいか……」
東雨の言葉に、慈圓は口角を上げた。
「ほう。それで、案は浮かんだか?」
東雨は鳩の羽を、震える指先で撫でた。
「一つは……焼いて食べること」
焼くのか……
緑権が少し残念そうに横を向いた。
「次に、野外に置いてほかの獣に食べてもらうこと」
犀星が、ふっと目を逸らした。
「次に、木の根本に埋めて、土に返すこと」
玲陽も俯いた。
「それから、安珠様に見せること」
犀星たちが、一斉に東雨を振り返った。
「安珠……医者に見せる?」
慈圓は不思議そうに、
「もう、命を落とした鳩を見せて、どうする?」
東雨は、泣くまいと目頭に力を込めた。
「体を開いて、中のつくりを調べて、記録してもらうんです。そうすれば、次に怪我をした鳩と出会ったとき、治すことができるかもしれない」
犀星と玲陽は顔を見合わせた。それから、少し寂しげに微笑む。
「驚いたな」
慈圓は、満足そうに息をついた。
「聞いたか、謀児。おまえより東雨の方が、先を見通しておるぞ」
「いいです、私は今だけ見てます」
緑権は居心地悪そうに褥を被った。
「……と、いうわけなんです」
東雨は、話しを終えて、肩の力を抜いた。
安珠は東雨の長話に、辛抱強くつきあってくれた。そして、
「あい、わかった」
と優しい声でうなずいた。
「ではおまえさんが言うように、しっかり記録に残させてもらおう」
「お願いします」
東雨の目が、ホッとして緩む。安珠は鳩を引き寄せながら、
「一緒にやるかい?」
東雨は少し鳩を見つめた。
それから、ごめんなさい、と、首を振った。
「ここで任せてしまうのは、無責任な気がするけれど……俺、多分、泣いてしまうので」
「いや、それでよい」
と、安珠は微笑んだ。
「どれほど理にかなっていようと、それと感情は別のものだ」
安珠の言葉は、東雨の心にそっと寄り添ってくれた。
鳩を包み直し、安珠は膝の脇に置いた。
「完成したら、記録の写しをおまえに届けよう。なに、二、三日で終わる」
「ありがとうございます……」
そう言ったものの、東雨は息を止めた。
安珠にとっては、ほんのわずか先の未来。けれど、その頃、自分はいない。
東雨は頬が強張るのを感じながら、それを必死に抑えた
「あの……俺じゃなくて、若様に届けてもらえませんか?」
安珠が少し首をかしげた。
「構わないが……直接渡せばよいだろう?」
渡せ、ないんです……
東雨は黙り込んでしまった。何と言い訳をしたらいいかもわからない。
「まぁ良い。そうしよう」
と、深くは聞かずに、安珠は引き受けてくれた。
「ありがとうございます」
今度こそ、東雨はしっかりと礼が言えた。
鳩を安珠に預け、東雨は庵を出た。太陽が少し傾いている。時間が過ぎるのがあまりに早い。
あたりは先ほどより、寒さが緩んだ気がした。
平屋の間の道を抜けて、五亨庵へ戻る。
少しだけ、家に寄って行こう。
東雨は朱雀門への道を逸れて、住み慣れた屋敷に向かった。
今朝、犀星が雪をかいて作った道が、東雨を待っていた。
最近気づいたことなのだが、雪かきをすると、その人の性格がよくわかる。
たとえば、慈圓はとても丁寧だ。すぎる、と言ってもよいかもしれない。完璧にしてから、次の一歩分の雪を退ける。だから、なかなか進まない。歩みは遅いが、やり直しの手間がない。
緑権は反対に、雪かきをしない。どうせ春にはとけるから、と、深い足跡を残しながら、そのまま歩く。彼がそれでも困らないのは、他の誰かがきちんと後始末をするからだ。
犀星は、と、東雨は雪の道の中ほどに立って、見回した。
玄関先から門まで、そして、厩舎まで、人一人が通れる幅で、雪が平らに整えられ、避けた雪は脇に積み上げられている。視界が遮られないように、広く均等に雪を放っている。東雨も真似をするが、犀星ほどの力はなく、遠くまで放り投げることはできなかった。
若様、意外と力があるんだよな。
ともだちにシェアしよう!

