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16 命の代償(2)

 急に世界が遠のいた。風がそっと東雨の髪を撫でて、冬の香りを届けてくる。金木犀の匂いはしない。東雨は、そっと袖の中の小袋を嗅いだ。少し胸の中が暖かくなる気がした。  それから、もう一度景色を見て、続けた。 「楓の木、枯葉、落ち葉、紅葉……」  ふと目を落とす。  もう、ずいぶん昔に思える。  初めて五亨庵に来た日に、玲陽がそっと並べていた葉が、今はもうすっかり埋もれて見えない。けれど、雪の中で、確かにあの葉は今も、輝いているのだろうと思った。  あの時の玲陽の言葉は、忘れてはいない。 『命の終わりに、葉が輝く』  命の終わりが来た時、自分は最後まで紅葉のように輝いていたい。誰かの心に残れるほどに。  東雨は、空を見上げた。鳥が数羽、横切っていった。 「鳥……」  その時、ざざっという音がして、桂の向こうで何かが動いた。  野生の動物でも迷い込んだのだろうか。  東雨は首を伸ばして、奥を覗いた。  雪の上に、見慣れない、灰色の塊があった。  東雨は一歩ずつ近づいた。踏み出すごとに、膝まで雪に埋もれる。ゆっくりと進む。  鳥……鳩だ。  東雨が近づいても、鳩は動かない。手を伸ばしたとき、突然バタバタと跳ねて、雪の上を滑った。東雨はびっくりして、思わず腰を引いた。深い雪が支えになって転ばなかったが、少し危なかった。  こんなに間近で鳩を見るなんて、初めてだ。  東雨は、息をひそめ、また手を伸ばした。鳩は片方の翼を広げたまま横倒しになっている。  顔が見えた。目は黒く開かれたままだ。 「……生きてるよね」  注意深く両手を差し出す。そして、そっと鳩の胴体を包んだ。それはとても柔らかく綿のようだ。そして軽かった。引き寄せ、持ち上げると、伸ばされた羽根がだらりと垂れる。 「怪我をしてる……」  そういえば……  昔、犀星と狩に出かけた時、雛鳥が巣から落ちていたことがあった。  見上げると、東雨でも登れそうな場所に、小枝を集めた巣があった。東雨は何も考えずに鳥に手を伸ばした。それを犀星が止めた。 「見てみろ」  犀星は脇の茂みを示した。一匹の細い狐が、じっとこちらを見ていた。酷く痩せて、あばらが浮いていた。  どうする? と、犀星は東雨に目を向けた。東雨は差し出していた手を下ろし、首を横に振った…… 「どうしよう……拾っちゃた」  そのまま雪の上に置いておくのはしのびなく、東雨は裏口に向いた。  両手が鳩でふさがっていたので、歩くのにはずいぶん苦労した。詩を作ることは、とっくに頭から消えていた。 「もう、できたんですか?」  中庭から戻ってきた東雨に、緑権が真っ先に声をかけた。  東雨はその声が聞こえていないように、足早に広間を横切ると、薪が燃える炉の前に座った。自分の長榻を脱ぎ、畳んで床に敷く。その上に、そっと、鳩を下ろした。手をかざして、熱すぎはしないか、と距離をはかる。  無視された緑権が、東雨の後ろから近づいてきた。 「あれ、鳩?」 「拾ってしまいました」  東雨は、困ったように言った。  緑権は、興味津々に覗き込んで、 「鶏と同じやり方でいいんですか?」 「え?」 「だって、食べるんでしょ」 「え!」  東雨は悲しい顔で、緑権を振り返った。 「焼きます? 鍋にします? 私は鍋の方がいいです。ネギや生姜と一緒に煮込むと、肺や腎臓によくて……」 「ダメです」  東雨は思わず叫んだ。声に驚いて、玲陽と犀星が顔を見合わせた。  緑権は首をひねって、 「では、いいです。焼き鳥で」 「それもダメです!」  犀星が、席を立って様子を見にきた。  片羽根を伸ばして置かれている鳩を見つけて、眉を寄せる。東雨はさっと、犀星から顔を背けた。 「翼が折れているな」  犀星は、鳩の左の翼を探った。 「……爪痕がある。猫にでもやられたか」 「……ごめんなさい」  東雨は鳩を見つめたまま、 「拾っちゃいけない、って知ってたんですけど、気づいたら拾ってました」  と、幼い言い訳をした。  犀星はそれには答えず、ただじっと東雨を見つめた。 「温めてやれ」  意外な言葉に、東雨は驚いて振り返った。玲陽がすでに、箪笥の引き出しを一つ開けて、東雨に差し出していた。 「これを使え」  慈圓が、橙色の毛氈を、引き出しの中に敷いた。 「あ、それ、私の……」  緑権の抗議は、慈圓の一睨みで封じられた。 「ありがとうございます」  東雨は、皆の顔を順に見た。  東雨のよく動く細い指が、丁寧に鳩をささえ、引き出しの中におさめる。  緑権は、まだ鳩肉に未練があるようだったが、さすがに犀星が出てきた以上、料理の提案は差し控えた。反対に、怪我の様子を尋ねる。玲陽が、少し言葉を選びながら、 「少し、難しいと思います」  と、控えめに言った。 「鳩は小さくて、体のつくりもよくわからないですし……」 「それがわかったら、助けられますか?」  東雨が、玲陽を見つめた。玲陽は素直に首を横に振った。 「ごめんなさい、私には……」 「……いえ、いいんです」  東雨は、もうその場を動くつもりがないようで、鳩の引き出しの前に膝を抱えて座り込んだ。  それから間も無く、鳩は息を引き取った。最後に強く不規則に羽ばたき、飛ぼうとするように暴れたが、胸が何度か伸縮し、そして、静かになった。  涙こそ流さなかったが、東雨はその冷たい脚と嘴を自分の手で包み、温めながら、ずっと座っていた。  羽毛に包まれた体は、手で温めればまだ生きているように温みをもつ。 「東雨、大丈夫ですかね」  緑権は、まだ少し、鳩の行く末を気にしていた。横目で緑権を見ていた慈圓が、やれやれという顔で立ち上がった。ちらりと犀星に目を向ける。何かを察したように、犀星は頷いた。そのやりとりを、玲陽がさらに見守っている。 「東雨」  呼ばれて、東雨は顔を上げた。  慈圓は、一呼吸置いてから、 「その鳩を、どうする?」 「どうするって……?」 「たとえば……墓を作って埋めてやる、とか?」 「ああ、そういうことですか」  東雨は、じっと鳩を見た。 「考えていたんです。この鳩が、最後まで輝くには、どうしたらいいか……」  東雨の言葉に、慈圓は口角を上げた。 「ほう。それで、案は浮かんだか?」  東雨は鳩の羽を、震える指先で撫でた。 「一つは……焼いて食べること」  焼くのか……  緑権が少し残念そうに横を向いた。 「次に、野外に置いてほかの獣に食べてもらうこと」  犀星が、ふっと目を逸らした。 「次に、木の根本に埋めて、土に返すこと」  玲陽も俯いた。 「それから、安珠様に見せること」  犀星たちが、一斉に東雨を振り返った。 「安珠……医者に見せる?」  慈圓は不思議そうに、 「もう、命を落とした鳩を見せて、どうする?」  東雨は、泣くまいと目頭に力を込めた。 「体を開いて、中のつくりを調べて、記録してもらうんです。そうすれば、次に怪我をした鳩と出会ったとき、治すことができるかもしれない」  犀星と玲陽は顔を見合わせた。それから、少し寂しげに微笑む。 「驚いたな」  慈圓は、満足そうに息をついた。 「聞いたか、謀児。おまえより東雨の方が、先を見通しておるぞ」 「いいです、私は今だけ見てます」  緑権は居心地悪そうに褥を被った。 「……と、いうわけなんです」  東雨は、話しを終えて、肩の力を抜いた。  安珠は東雨の長話に、辛抱強くつきあってくれた。そして、 「あい、わかった」  と優しい声でうなずいた。 「ではおまえさんが言うように、しっかり記録に残させてもらおう」 「お願いします」  東雨の目が、ホッとして緩む。安珠は鳩を引き寄せながら、 「一緒にやるかい?」  東雨は少し鳩を見つめた。  それから、ごめんなさい、と、首を振った。 「ここで任せてしまうのは、無責任な気がするけれど……俺、多分、泣いてしまうので」 「いや、それでよい」  と、安珠は微笑んだ。 「どれほど理にかなっていようと、それと感情は別のものだ」  安珠の言葉は、東雨の心にそっと寄り添ってくれた。  鳩を包み直し、安珠は膝の脇に置いた。 「完成したら、記録の写しをおまえに届けよう。なに、二、三日で終わる」 「ありがとうございます……」  そう言ったものの、東雨は息を止めた。  安珠にとっては、ほんのわずか先の未来。けれど、その頃、自分はいない。  東雨は頬が強張るのを感じながら、それを必死に抑えた 「あの……俺じゃなくて、若様に届けてもらえませんか?」  安珠が少し首をかしげた。 「構わないが……直接渡せばよいだろう?」  渡せ、ないんです……  東雨は黙り込んでしまった。何と言い訳をしたらいいかもわからない。 「まぁ良い。そうしよう」  と、深くは聞かずに、安珠は引き受けてくれた。 「ありがとうございます」  今度こそ、東雨はしっかりと礼が言えた。  鳩を安珠に預け、東雨は庵を出た。太陽が少し傾いている。時間が過ぎるのがあまりに早い。  あたりは先ほどより、寒さが緩んだ気がした。  平屋の間の道を抜けて、五亨庵へ戻る。  少しだけ、家に寄って行こう。  東雨は朱雀門への道を逸れて、住み慣れた屋敷に向かった。  今朝、犀星が雪をかいて作った道が、東雨を待っていた。  最近気づいたことなのだが、雪かきをすると、その人の性格がよくわかる。  たとえば、慈圓はとても丁寧だ。すぎる、と言ってもよいかもしれない。完璧にしてから、次の一歩分の雪を退ける。だから、なかなか進まない。歩みは遅いが、やり直しの手間がない。  緑権は反対に、雪かきをしない。どうせ春にはとけるから、と、深い足跡を残しながら、そのまま歩く。彼がそれでも困らないのは、他の誰かがきちんと後始末をするからだ。  犀星は、と、東雨は雪の道の中ほどに立って、見回した。  玄関先から門まで、そして、厩舎まで、人一人が通れる幅で、雪が平らに整えられ、避けた雪は脇に積み上げられている。視界が遮られないように、広く均等に雪を放っている。東雨も真似をするが、犀星ほどの力はなく、遠くまで放り投げることはできなかった。  若様、意外と力があるんだよな。

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