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16 命の代償(1)
昼近く、東雨は市場より少し南の道を歩いていた。
日差しに息は白く煙って、真冬の寒さが身に染みる。昨夜も遅くまで雪が降っていた。今朝はすっきりと晴れていたが、冬に青空が見える日はとても寒いということを、東雨はよく知っていた。
寒さで耳が痛くなる。時々手で温めてみるのだが、あまり効果がない。いつしか、もう気にしないようにした。
人通りが少なく、雪のない季節よりも閑散としていたが、穏やかで、どこか懐かしい。雪遊びをしている子供達の一団が、東雨の脇をじゃれあいながら過ぎていった。
あんなふうに遊んだことはなかった。
東雨は、明るい声がきらきら光っているように見えた。
少しずつ気温が緩む時刻である。人々は買い物に出て、道端で世間話をするだろう。きっとまた、花街の事件の話も出る。東雨はあの話を聞くと、右脚が痛くなる気がした。
東雨は、毛氈で包んだ荷物を胸に抱いていた。それは東雨の体温を吸って、じんわりと暖かい。けれど、東雨は知っている。どんなに温めても、取り返せないものがあるということを。
平屋が連なる道を抜けて、突き当たりの角を曲がる。そこにはこじんまりとした庵が一つ、周囲の建物とは違う厳かな雰囲気で建っていた。他の家々よりも軒が深く、雪や雨を避ける工夫があった。門や前の通りまで、きちんと雪かきをした道ができている。誰でもすぐに駆け込めるように、安珠が毎朝、丁寧に雪をよけている。
門をくぐって、軒下に一歩入り、東雨は引き戸の前で声をかけた。
「すみません。五亨庵の東雨です」
そう言ってから、五亨庵、という肩書きは要らなかったかな、と思い直した。宮中でどこかを訪ねる時はそのように挨拶するのだが、安珠には必要ないだろう。
「今、開ける」
中でごそごそと音がして、聞き慣れた声が答えた。
東雨は少し緊張して、包みを大切に抱き、待っていた。引き戸が開き、木綿の綿入れを着込んだ安珠が、優しい顔をのぞかせた。
「東雨、よく来たな。どうした」
安珠は東雨の姿を素早く見た。怪我をしている様子はない。具合が悪そうでもない。とりあえずほっとする。
「歌仙様に何かあったか」
東雨は首を横に振った。安珠は重ねて安心した。
「寒かったろう。温まるものでも出そう」
と、嬉しいことを言ってくれる。
「はい」
行儀よく返事をし、
「ありがとうございます」
と、家に上がる。
安珠の診療所は小さく、暖かかった。部屋は二つしかない。
手前は、安珠が生活している部屋で、すみに土間があり、竈がある。横の小さな勝手口の先には井戸がある。
部屋の真ん中には、火鉢が置かれていた。小さく頼りなくも見えたが、このこじんまりとした診療所を温めるには十分だった。
奥の部屋は、患者が休むために用意されている。東雨も腹が痛くなったときに、何日か泊まったことがある。犀星と離れるのは心細かったが、いつも安珠がそばにいてくれた。東雨に家族はないが、もし祖父がいたらこんな感じなのではないかと思った。あの頃から、安珠は歳をとっていないように見える。
生姜湯の湯呑みを差し出して、安珠は優しく尋ねた。東雨は、そっと湯気の香りをかいだ。一口飲む。冷えた体が内側から、じん、と温まる。
「これ、本当にあったかい」
両手で湯呑みを包むと、かじかんだ指先にまでぬくもりが沁みた。
「よければ、分けてやろう」
気前よく、安珠は箪笥から甘草の包みを取り出し、東雨に渡してくれた。
「すりおろした生姜と一緒に飲めば、風邪予防になる」
「助かります。光理様が風邪を引いたら、国が傾くので」
「……それはどういう?」
と、安珠は、少し考えてから、膝を打った。玲陽の看病で、他が手につかない犀星の姿が思い描けた。
「なるほど!」
「でしょう?」
東雨は、少し寂しそうに笑った。
「それはそうと、今日は何用だ?」
「実は、見ていただきたいものがあって来ました」
そっと、膝の上に乗せていた包みを手に取った。それから、安珠の顔を覗いて、どんな反応するだろうと、注意深く観察しながら、包みを開いた。
中を見た安珠は、ぽかんとした。
「……これを?」
「はい……」
東雨の手の中には、一羽の鳩の死骸があった。
東雨はここに来るまでの今日、一日の出来事を、順番に話して聞かせた……
やはり玲陽の教え方はうまかった。
東雨が秘府から借りてきた詩集を読んで、玲陽は詩をひとつひとつ、竹簡に転写した。さらにその裏に、一行ずつ、読み方と意味を添えてくれた。
東雨はその竹簡を見ながら、声に出してみた。意味を読み、それがどんなことを伝えたいのか、必死に想像を巡らす。
はじめは、意味を読めば内容がわかると思っていたのだが、そう簡単ではなかった。詩には裏がある。書かれている言葉の奥に、別の意味が隠されていることがある。
東雨はひとつの詩を手に取った。たどたどしく、声に出して読み上げる。
「水月、孤心を映し、花霞、言を尋ぬるに難し。燈焔、黙して燃ゆ。静目、久しく君を望む。……なんだか、よくわかりません」
玲陽は首をかしげて、
「この水月……水に映った月は、自分の心に宿っている、大切な人のこと、です」
「水に映った月、が?」
東雨は首を傾げた。
「どうして?」
「解釈にもよりますが、水に映った月は、どんなに美しくても、触れることはできないでしょう?」
「たしかに……」
「その人のことが偲ばれて偲ばれてたまらないけれど、手を伸ばしても触れられない面影…… 水面に映っているので、風が吹けば、その月は揺れるかもしれない。そんな儚さまでが感じられます」
玲陽は今、自分の心に月が映っている、という顔で、目を閉じて言葉を噛み締めている。
東雨は難しい顔をして腕を組んだ。
「例える……水月は、好きな人のことか」
玲陽はぴくっと目元を動かした。
「では、この続きの花霞……花霞のように美しい?」
「そう、美し過ぎて、言葉で表そうとしても追いつかないほど……」
玲陽はそっと、自分の肩を抱いた。
東雨は頷きながら、竹簡の文字を辿った。
「火は静かに燃えていて……」
「ずっとあなたを思い続けている」
玲陽は、ぽっと頬を染めた。
「俺も、作ってみたいです!」
東雨は目を輝かせた。それがあまりに素直に見えて、玲陽は小さく嬉しそうな声を上げた。
「素敵です。ぜひ」
「どうすればいいですか?」
期待を込めた大きな目に、玲陽は少し緊張した。これは、責任重大である。
「そうですね……」
玲陽は戸惑った。読み解くことは得意だが、作った経験はほぼなかった。昔、犀星と競い合って言葉遊びをした程度である。
その様子をじっと見ていた犀星が、突然、口を開いた。
「目に見えるものを、呼んでみるのはどうだ?」
「え?」
五亨庵中の視線が、犀星に集まった。面食らったように、犀星は視線を泳がせた。そして、何も言わなかった、という顔で書類に戻った。
「それ、いいかもしれません」
東雨が言った。
「やっぱり、直接自分の目で見て、聞いて、感じたことじゃないと!」
「すごいです。やってみてください」
玲陽が賛成する。
「はい!」
東雨は張り切った。
周りを見て、
「それじゃ……几案!」
と指を指す。
「几案……ここから、どんな詩が?」
玲陽は、楽しそうに東雨を見つめた。
「え?」
東雨は、何も考えていない。
「ああ、やっぱり、これはやめます」
と、別のものを探し始める。広間をうろうろしながら、指差してあれこれと呼んでみる。
「まるで、言葉を覚え始めた子供ですね」
緑権が、茶をすすりながらぼそっと言った。
「謀児様、邪魔しないでください」
東雨は真剣だ。
「湯呑み」
「え?」
緑権は自分の手の中を見た。
「小筆」
几案の上に散らばっている。
「毛氈」
寒がりな緑権の必需品だ。
「巾!」
緑権はとっさに、頭を抑えた。東雨はにやりとした。
「謀児様、今、頭を抑えたのはどのような心境ですか!」
「巾を取られるかと思ったので……」
「どうして取られると思ったんですか?」
「だって、そんな力一杯指差して呼ばれたら、びっくりするじゃないですか」
木簡を巻き取りながら、慈圓が、
「東雨、もう少し、価値のあるものを呼べ」
「ちょっと、それ、酷くないですか?」
緑権が泣きそうだ。
「そうですね」
「東雨まで!」
もう、泣いていた。
「それでは……」
東雨は注意深く、五亨庵の中を見まわした。
「価値のあるもの……あ」
ぴたっと、東雨の目線が止まった。皆が、その視線の先を追う。
犀星がいた。こちらには気づかず、黙々と書類を書いている。その姿は凛と澄んで、また、美しかった。
「水月……」
東雨は思わず呟き、頬を染めた。
玲陽が照れたように、袖で口元を覆った。
「やっぱりここじゃだめです」
慌てて、東雨は首を振った。
「雑念が多過ぎます」
「東雨の口からそんな言葉が出てくるとは……」
と、慈圓が苦笑した。馬鹿にされてるような気がして、東雨は膨れた。
「今、すごい傑作を作ってきますから、待っていてください」
そう言うと肩掛けを羽織り、一度、炉で手を温めてから中庭に出た。玲陽が小さく、頑張ってください、と、つぶやくのが聞こえた。
中庭は一面真っ白く、平らだった。
最近は薪割りをしていないため、どこにも踏み荒らされた跡がない。
東雨は、入り口に立ったまま見まわした。雪は表面が硬く凍っている。踏めばざくりと音がする。
「雪」
東雨はつぶやいた。それから、次々に目についたものを呼んでみる。
「木戸、薪、石、枯れ草、足跡、空、雲……ああ、寒い! ……桂、金木犀……」
そこまで言って東雨の表情が、冬の景色のように色褪せた。
来年の秋、ここに咲く金木犀で、光理様に香袋を作る。
その約束を思い出した。
「来年の秋……」
東雨は声に出した。
「この桂の木に、金木犀が咲く頃、俺はもう、この場所にいない……」
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