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15 結びゆく(3)

 このままでは、本当に……  玲陽は初めて、自分が砦で、生かされていたのだということを思い知った。  あの場所は玲陽にとって悪夢であったはずなのに、同時に、唯一生きることを許された場所でもあった。  もしこのまま都に留まるのならば、選ばねばならない。  葛藤を越えて掴み取る、生か。  穏やかに忍び寄って堕ちていく、死か。  深く体が沈む感覚が続く。苦しくはない。だが、力が戻ることもなかった。  この身はどこまで、呪われているのだろう……  玲陽は震えていた。  ずっと同じ姿勢でいたため、下にした左の腕がしびれている。  玲陽は首をねじって、体を仰向けに倒した。背中に鈍い痛みがある。これはもう、生涯、離れない痛みだと、覚悟している。心臓の裏側あたりの、重度の火傷。こうして仰向けに寝転ぶと、痛みとむず痒さで、じっとしているのも辛い。  玲陽はゆっくりと、右腕を下にして体を横たえた。部屋の入り口に背を向ける。  その時、一際大きな東雨の声が聞こえた。  ガタン、と扉が閉まる音がした。つづいて、小走りに駆け寄ってくる足音、さっと帳の絹が払われる微かな音、そして…… 「陽!」  ああ!  玲陽は短く声が出た気がした。  この声を、待っていた。  玲陽の心が、生きようとする意思が、待ち望んでいた。  一瞬で体から重さが消えて、玲陽は深く息を吸った。  その肩に、ひやりとする手が乗せられた。優しい力で少しだけ上向きにされる。 「どうした、何があった?」  走ってきたのだろうか。犀星の息が少し乱れている。  玲陽はうまく笑えなかった。犀星は首を横に振った。 「いや、いい」  そう言って、玲陽を包んでいた褥の乱れを治し、添い寝するように、牀に座る。  玲陽はされるに任せて身を預けた。力をぬいても、背中の傷が痛まないよう、犀星が自分の胸で支えてくれている。この安心感が、玲陽を救ってくれる。  何度か深呼吸をし、気持ちを整える。 「星……」  玲陽の指が何かを求めるように震えた。犀星はそっと腕を伸ばし、玲陽を抱くようにしてその手を重ねる。 「すまない、冷たいだろう」 「……はい」  玲陽の唇に、やっと、かすかな緩みが見られた。 「でも、いい……」  玲陽は手首を返して指を絡めた。 「星……」 「うん?」 「……お話し、したいことがあります」  玲陽は、できる限り感情を抑えて言った。犀星が頷く気配があった。 「うん。俺も、おまえに話がある」  触れ合った肩から、犀星の声の震えが伝わってきた。玲陽は少し視線をゆらめかせ、 「では、あなたから先に話してください」 「俺から?」 「はい」  目の前でつながる指を見つめ、玲陽は頷いた。 「あなたの方が、少しだけ、兄様なのだから」 「……こんな時に、ずるいな、その言い方は」  犀星の声は、いつもより少し低く、甘い。耳元で囁かれるせいか、やけに心を震わせる。  玲陽はそっと、絡めた指に力を込めた。より深く噛み合って、自分より少し大きな犀星の手に包まれる。 「もしかしたら、陽はもう、気づいているかもしれないが……」  玲陽は黙って微動だにしない。 「花街で続いている、事件のこと」 「……火傷?」 「ああ」  犀星は、繋いだ手を引いて、玲陽を抱き寄せた。 「その火傷の痕と同じ形が、今朝、燃やした薪に残されていた」 「……そう、でしたか」 「……陽の、背中にも」  玲陽の指先は動かなかった。まるで、その言葉を予想していたように、静かに受け止めた。  犀星は、長く沈黙した。それは、玲陽の答えを待つようでもあり、また、次に言うべき言葉を探すようでもあった。  沈黙を破ったのは、玲陽だった。 「話してくれて、嬉しいです」  犀星の腕が、より強く抱く。 「……俺のせいかもしれない」 「……え?」 「陽も、花街の者たちも、俺のせいで傷つけられたのかもしれない」 「……そう、ですか。わかりました」  玲陽は、否定することなく、頷いた。かすかに、犀星が震えた。それを、玲陽は敏感に捉えた。 「私に、違う、と言って欲しかったですか?」 「…………」 「あなたのせいじゃない、って」  犀星の胸に、失望とも恐れともしれない感情が広がる。玲陽はそれを見透かしていた。 「私が否定しても、あなたは救われない」  玲陽の目が、大きく動いて犀星を見た。その琥珀の輝きの中に、狂気にも似た熱が宿っていた。 「どうせ傷つくなら、一緒に傷ついてください。その方が、私は救われるから」  黙ったまま、犀星は玲陽を見つめていた。  どこかで、自分が許されることを期待していたと、気付かされる。それは甘えだ。玲陽が受けた痛みは、そんな軽いものではない。ならば、最後まで添い遂げる。痛みもすべて共に味わえばいい。 「わかった」  犀星のつぶやきは、小さな誓いのようだった。 「おまえも、今以上に傷つくことになる。それでも、いいか?」 「望むところ」  そう言って、玲陽は目を細め、微かに笑う。それはあまりに美しく、強い。  玲陽のしなやかさは、時に犀星の想像を超える。  これだから、俺はこの人に惹かれてたまらない。  犀星は意を決した。 「ならば、答えてほしい。おまえのこの傷、いつ、誰にやられた?」  玲陽は静かに目を伏せた。そして、まるで答えを用意していたかのように、なめらかに言葉を紡いだ。 「あの砦に入って、半年ほどしたころ。相手は、私より少し年上の男性。本名はわかりませんが『若君』と呼ばれていました」 「顔は?」 「|面纱《めんしゃ》で隠していて、目元しか見ていません。目の色は……」  玲陽はそこで、一度、言葉を切った。 「あなたと、同じ色」  玲陽の告白に、犀星は息を呑んだ。その動揺をなだめるように、玲陽は犀星の手に口付けた。 「大丈夫、私も怖いです」  そう言われて、犀星は自分が恐怖を感じていることに気づいた。たまらなくなり、玲陽の髪に顔をすり寄せる。その甘えを、玲陽は受け入れた。 「おまえは……」  犀星は声が詰まった。どんな思いで、玲陽は今までその秘密を封じてきたのだろう。  犀星の息遣いを聞きながら、玲陽は目を閉じた。  重ねた手が、互いの熱ですっかり溶け合っていた。 「星、次は私が話す番です」  玲陽は、そっと話しかけた。 「……傀儡を喰らいました」  犀星の体が大きく動く。玲陽を覗き込んだ犀星の顔には、悲しみとも労りともつかぬ感情が滲んでいた。玲陽は、目元を緩め、 「心配ありません。ちゃんと、浄化できましたから」 「……俺が、おまえを一人にしたから……」 「そう、これも、あなたのせいです」  玲陽は、軽い口調で、 「おかげで、本当に疲れてしまいました。本当に……死んでしまうんじゃないかってくらいに」  口調は優しくても、決して冗談ではないのだと、その青白い頬が物語っている。 「だからね」  玲陽の目が、揺るぎなく犀星をとらえた。 「あなたの、命を、わけてください」  ふっと、犀星が息を止めるのがわかった。 「乾きを……満たしてください」  言って、玲陽は犀星の首に腕を回した。背中の傷が痛むのもいとわず、その体を自分の上に引き寄せた。二人を隔てる、褥も着物も邪魔だと感じる。  薄い帳の向こうでは、東雨と緑権の動く気配がある。ここから先へ進むのなら、気づかれない覚悟が必要だった。  玲陽は息を殺して犀星の喉に口付け、甘く噛む。まるで、何かをせがみ、うながすように。  その想いは、犀星にしっかりと届いていた。 「どうすればいい?」  囁きが、玲陽の耳に触れる。玲陽は一度目を閉じ、それからゆっくりと開いた。まつげの下で、瞳が震える。 「じっと、していてください」  犀星がしっかりと頷くのを確かめて、玲陽は体を起こした。ゆっくりと、迷いはなく。  犀星を牀の上に座らせ、壁に背をもたれさせる。楽にしていて、と、額に口付けた。それから正面にまわり、犀星の脚の間に座る。玲陽に任せて、犀星は流された。ただ、その手は常に玲陽の体のどこかに触れ、撫でるように動く。  玲陽が何を望んでいるか、犀星は察していた。玲陽が歌仙で生きながらえた力の源を、忘れたことはない。それを与えることができるのは、玲家の血を引く自分だけだ。犀星の目は揺るがない。戸惑いも躊躇いも、玲陽の命のためならば容易に投げ出せた。  ただ、微かに感じるのは、痛み。それは犀星のものではなく、玲陽から流れ込んでくる感情だった。触れる手のひらから、震えるように沁みてくる。  こんな形で、触れたくなかったのに……  その悲しい思いを溶かすように、犀星は玲陽を覗き込み、額を寄せた。  玲陽の指がそっと、犀星の唇に触れた。見つめ合う。  そっと微笑み、犀星はその指先をやさしくついばんだ。玲陽の顔がほころぶ。  玲陽は指先で、犀星の頬を撫で、顎から喉を通って、襟を辿る。襦袢と肌の間にそっと差し入れ、温もりを感じる。犀星は目を細め、静かに玲陽を見つめていた。  枕元の香炉から、白檀の香りが強く漂ってきた。二人はそれを同時に吸い込み、呼吸を合わせた。ここから先、はぐれることがないように。  もう一度、互いの眼差しを味わうように目をかわす。犀星が小さく頷いた。それを合図に、玲陽は顔を伏せる。犀星は褥を引き寄せ、柔らかに玲陽を包み込んだ。背を丸め、頭を抱き寄せて髪に指を通す。  玲陽の熱が、優しく触れた。  それは刹那の出来事。  犀星の指の震えも、息の深さも、玲陽と重なってつながっていく。犀星は、大きく息を吸った。玲陽が身を低め、ふたりの体が静かに溶け合う。一瞬、時が止まる。  犀星は唇を震わせ、一息に吐き出した。心音に合わせて、短く吐息を刻む。玲陽の喉が動いて、肩から力が抜けた。  弛緩が二人を満たし、気づけば互いにもたれて目を閉じていた。  やがて、玲陽がそっと、上目遣いに犀星を見た。その目は潤んで、小さな炎が揺れるように輝いている。  確かに灯る、命の灯だ。  犀星はまだぼんやりとしながら、その目を見返し、指で口付ける。玲陽は黙ってそれを、甘く噛んだ。  互いの目線に引き寄せられて、顔が近づく。額が重なる。触れ合う吐息が暖かかった。  今、二人は一つの命だった。

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