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15 結びゆく(2)

 大きな几案の上には、何枚かの布製の地図が広げられ、脇には今月の警備の作戦書や、人員の名簿が積まれている。壁際には茶器と炭を入れた火鉢があった。 「座れ」  涼景はふたりきりになると、途端にいつもの口調になる。  犀星は交椅のひとつを引き寄せ、几案の前に座った。  涼景は手早く茶を入れ、湯呑みと急須を犀星の前に並べた。 「まずは、一杯飲んでおけ」 「いらない」 「気持ちが落ち着く」 「いらない」  犀星は意地を張って、しまいには口元に手を当てて拒絶する。  涼景はため息をついた。 「悪いが、手短に頼む。今月は天輝殿の警備で暇がない」 「…………」  わざと引き伸ばしているのか、と思われるほど犀星は黙った。こういう時は、焦らせてもだめだと、涼景は長年の付き合いで学んでいた。腰をすえる必要があった。自分も一口、茶を含む。 「それで、どうした? ……ゆっくりでいいぞ」  犀星はすぐに話し出さない。その目はわずかに血走り、息遣いは浅く、早い。沈黙は、犀星が自分の動揺を収めるための時間だ。 「何があったか、順番に」  落ち着いた声で涼景は言った。 「ああ」  と、短く答えて、犀星は一呼吸し、かすかに震えた声で話し始めた。 「今朝、五亨庵で火を焚いた。お前がこの前、持ってきた薪で」 「……ああ、あれか」  涼景は、意味ありげに笑みを浮かべた。犀星の目がピクリと動く。 「あれは、どこを潰したものだ?」 「気になるか?」  涼景がくるりと目を動かして、机上に広げられた地図の一枚を選び出す。 「ここだ」  と、指先で地図を叩く。かつて、指揮官が殺された、いわくつきの矢倉だ。 「西門……だと?」  犀星のこめかみが動く。明らかに怒っているのがよくわかる。 「お前、どういうつもりで……」 「そんな顔をするな」  涼景はなだめるように、 「他より少々痛みが激しくてな。おまえならば気にせずに使ってくれるだろう、と踏んだのだが……」 「…………」 「なんだ、使い物にならなくて、文句を言いにきたのか?」  犀星は真顔のまま、じっと地図を睨みつけていた。 「星?」 「その薪の中に……焼印があった」  涼景の顔色が変わる。 「焼印……花街の?」 「そうだ」  ことの深刻さが、涼景にも伝わった。部屋の空気が瞬時に緊迫する。 「それで、その薪は?」 「燃えた」  投げやりな口調で犀星が言った。うめくような声が涼景の口をついた。 「……それで、他には」 「?」 「だから……焼印が残された薪は、一つだけだったのか?」 「……!」  犀星は目を見開き、今気づいた、という顔をする。涼景は思わず頭を抱えた。 「おまえらしくない。いくら頭に血がのぼっていても、それくらい冷静になれよ」  涼景の嘆きはもっともだった。  犀星は思わず腰を浮かせた。 「今、見てくる!」 「おい!」  どうしてこうも、極端なのだ?  涼景は呆れ返った。 「いいから、座れ」 「だが……」 「座れ」  つとめて、静かに、涼景は繰り返した。しぶしぶ、犀星が腰を下ろす。 「星。このこと、他に誰が知ってる?」 「……陽は気づいている。あいつが見つけたから」  腕を組んで、涼景はうなった。 「それなら、心配ない。玲陽は五亨庵にいるんだろう? あいつのことだ。お前が血相変えて飛び出した原因くらいわかる。もし他に同じものがあったら、燃やさずに取っておくはずだ」  犀星は涼景の説明を聞いて、小さく頷いた。普段の犀星であれば、容易にわかることだった。  涼景は、まいったな、という顔をした。 「どうしたら、そこまで動揺できるんだ?」 「……すまない」 「相変わらず、陽が絡むと……」  と、涼景も愚痴が出る。  犀星も十分に反省している顔だが、それでも落ち着きがまだ戻らない。  涼景は、手をつけていない犀星の湯呑みを見た。 「まぁ、茶でも飲んで……」 「あの矢倉は、落ちてなかったよな」  涼景を遮って、犀星が言った。昔の記憶をたどる。 「ああ、落ちていない。指揮官を失ったが、すぐに立て直した」 「……だとしたら、外部の者に、焼印を仕込む暇はなかったよな?」 「ない」  涼景はきっぱりと言い、さらに続けた。 「矢倉があったのは中央区だ。よそからの出入りはできない」  つまり、と、二人の思考は、同じ道をたどり、一つの答えを導く。犀星が言った。 「犯人は宮中の人間」  涼景も頷いた。 「だとしたら、限られてくるぞ」  涼景は少しずつ状況を整理した。あらゆる可能性を考慮し、必要なものを拾い、余計なものを排除する。犀星も涼景の思考に寄り添う。 「涼景、宮中の者が、陽と花街を狙う理由があるとしたら?」 「安易に決めつけることはできないが……」  と、涼景はゆっくりと、 「その二つの接点は、一つだけだ」  犀星が、嫌な予感がする、と言いたげな顔で、涼景を見る。 「残念だが……」  涼景は言葉を選びながら、 「犯人の狙いはおまえ、だ。それも、直接危害を加えるのではなく、精神的に追い詰めるつもりだろう」 「まんまと、はまってるな……」  犀星は反論のしようがなかった。自分は完全に動揺し、ここまで来てしまった。 「だが、そうだとしたら、時間軸が気になる」  涼景は指先で、コツコツと机の上を叩く。 「お前が治水工事で縁を深め、花街を大事にしていることは、皆が知っている。花街が狙われてもおかしくはない」  犀星が悔しそうに口を歪めた。 「こんな形で利用されるとは……」 「それが、人間の闇ってもんだ……だが、それより、もう一方が問題だ」  涼景は、一層慎重になって、 「陽の傷は古い。おそらく、砦に入れられて間もない頃だろう……その頃に、おまえと陽の関係について知っていた者は?」 「そう言われても……調べればわかることだ」 「だが、単に調べただけでは、一緒に育った従兄弟、という情報しか出てこないはずだ」  涼景は首を振った。 「おまえがそこまで執着する、という確証がない相手に、わざわざ手の込んだことをするとは考えにくい……おまえ、陽に文を書いてたな?」  犀星はぞっとした。涼景が言わんとしていることがよくわかった。だが、聞きたくはない。聞きたくはないが、今は受け入れるしかない。 「お前が陽のことをどれだけ思っていたか、あの文はいわば証拠。そして、それを知っていた人間……あるいは、その人間から情報を知り得るのは……」  犀星は、長い沈黙の末に、口を開いた。 「天輝殿……」 「そして……」 「あいつは悪くない!」  とっさに犀星は叫んだ。涼景が、ぐっと眉間にしわを寄せる。 「落ち着け。今は、誰が悪いかって話じゃない。この状況をどう解釈するか、だ」  涼景はいたって冷静に続けた。 「とにかく、一つの可能性だ。まだ決め手はない」  犀星は両膝を握りしめた。感情のやり場がなく、また、呼吸が荒くなる。その様子に、涼景までが苦しくなる。 「これ以上、被害が出ないよう、俺たちは花街を見張る。お前は、万が一に備えて、しばらく、五亨庵を離れるな」  犀星はうなずいた。 「ところで、星」  涼景が改まって言った。 「陽の火傷……あれをつけた相手について、聞いたか?」  犀星は首を横に振った。 「体の傷のことは、あいつが話さない限り、俺から聞くつもりはない」 「……そろそろ限界だと思うぞ」  涼景は一瞬、顔を歪めて、 「花街の事件は、もう市場でも噂になっているだろ。背中に火傷、という自分との共通点、そしておまえがこれほど取り乱した、薪についた印影。玲陽ならば……」 「今日、話す」  犀星は、きっぱりと言った。そして、目の前に置かれたままだった茶を飲み干した。  わずかに潤んだような目で、じっと涼景を見る。 「涼景、頼みがある」  涼景は目を開いた。どこか、嬉しげな色が滲んでいる。なんでも言え、というように、涼景は口を緩めた。  犀星は少し声を低めて、目をそらし、 「あと一杯、欲しい。いや、二杯……」  涼景は黙って、冷めた茶を注いでやった。  いつからか、玲陽は記憶がなかった。  東雨と緑権と三人で、話をしていたことは覚えている。その後しだいに体が重くなり、眠気が増して、そのまま今に至る。  見覚えのある小さな部屋に、一人で眠っていた。部屋の入り口には、白色の絹の帳が揺れている。視界の隅には火鉢があり、優しい熱が部屋の中をゆっくりと巡っているのが感じられた。  五亨庵の、犀星の寝室だ。  全身がだるく、指も動かない。腹に重たい石が詰められ、少しずつ牀に沈み込んでいくようだ。呼吸はできるが、声は出ない。息を吐くと、長く細くかすかに音が漏れた。  空気は明度を落としている。もしかすると日暮れが近いのかもしれない。時間の感覚がなかった。  帳の向こう、遠い世界のような広間の声に、玲陽は目を閉じて耳をすませた。  無意識に探していたのは、犀星の声。けれど、いつまで待っても、その響きがない。  涼景のところへ行くと、犀星は言っていた。  会いたい……  犀星を思った時、玲陽の中で何かが震えた。  喉が渇く。  それは、水を求めたのではない。  自分が欲しているのは、命だ。  久しぶりに傀儡喰らいをした。緑権の無事な様子にほっとしたが、体の疲労は相当だった。心もすり減っている。  疲れた、と玲陽は思った。そしてまた、喉が渇いた、と感じた。  犀星が欲しい。  そんな想像をして、玲陽は全身の熱が一点に集まるように、体をぎゅっと縮めた。  そうか……そういうことか……っ!  目を閉じたまま、玲陽は顔を歪めた。  かつて砦にいた頃、傀儡喰らいの後には、必ず滝の水を飲んだ。あの滝は霊水だった。体を清めるだけではなく、自分の力を補うためでもあった。  けれど、ここにはその水がない。自分の渇きを癒してくれる、あの滝の水が。  代わりのものが必要だった。生きていくために。  代わり……それは綺麗事では済まされない、ありのままの命……  それが何であるのか、玲陽は知っている。  だが、求めるにはあまりにも心の葛藤が大きすぎる。  ずっと、乾いていたのかもしれない。砦を離れてから、ずっとだ。  傀儡喰らいで大きな力を失い、その渇きが一気に顕在化した。  通常の疲労であれば、食事と睡眠で癒やされるかもしれない。だが、玲陽のそれは肉体の疲れではない。どれほど休息を取ろうとも、満たされることはない。

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