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敵か或いは
【本編との接続】
本編の10年前の物語。
第一部『誰がための刃』読後がおすすめです。
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桜の葉が揺れる|八穣園《はちじょうえん》を、帝との初対面を終えた若き親王・犀星はゆっくりと横切っていった。ふわりと着物の裾が風を孕んで優雅に揺れた。秋の初めのその風は、彼の故郷よりも冷たく、異郷にいるという現状を否応なくつきつけてきた。
数日前に十五歳を迎えたばかりの辺境育ちの少年の目は、美しく蒼く澄んで、どこか遠くを見ているようだった。行き交う華やかな装束の男女や、立ち並ぶ庭園の装飾、その奥に見える数々の煌びやかな建築物。旅人ならば誰もが目を奪われるその景色に、彼は一切の興味を示していないようであった。
ただ懐かしそうに、緑揺れる木の枝を見上げるばかりだった。
不意に、犀星は足を止めた。
「蝋梅だな」
独り言のようにつぶやくと、そっと一本の木に歩み寄り、幹の木肌に頬を押し当てた。まるで、大切な人を抱くような、優しい仕草だった。
胸の中には、決して消えることのない、ただ一人の面影。瞼を離れぬその人の笑顔と、自分を拒絶した瞳。
わずか、十五年の記憶の全ては、その人と共にあり、そして、その人と共に、故郷へ残してきた。裂かれた心の傷に、宮中の華やかな景色は塩となって深く沁みた。
孤独を知らなかったからこそ、一層に沁みる孤独。
乾ききった宮中で見つけた、唯一の潤いが蝋梅の樹肌だった。懐かしい、故郷と同じ温もりを求めて、犀星は手を添えた。
犀星の一歩後ろを、風呂敷包みを抱えてついてきていた少年が、不思議そうに見上げた。
「伯華様?」
少年は、今日から自分が仕える主人が何を思っているのか、さっぱりわからなかった。
つい先ほど、おまえが世話をするように、と引き合わされたばかりで、会話らしい会話もしていない。それどころか、犀星からは一言も話しかけてもらえていない。
目を閉じて、じっと幹の奥の音を聞くように、犀星は無表情のまま、動く素振りもなかった。その顔から感情を読み取ることは、何者にも不可能だと思われた。
通り過ぎていく宮廷人は、見慣れない二人の少年を横目に、小声で噂をしていたが、その正体に気づく者はいなかった。
犀星の帰郷は、秘密裏に行われた。来月の親王の戴冠式までは、その素性を明かさぬように、皇帝から厳しく言いつけられた。
身分が定まらぬうちに正体を知られれば、それを利用しようとする者が現れるのが、宮中の悪習である。
犀星には、宮中の南側の一角に、質素な仮住まいが与えられた。目立たぬよう、警備は最小限にとどめられていた。
側付きは、この|齢《よわい》八つの侍童ひとりきりである。予定では三名の侍童があてがわれていたのだが、そんなに数はいらない、と犀星自ら断ってしまった。
一番歳の大きな者が選ばれ、それがこの少年であった。
「あの、伯華様?」
侍童の少年、東雨は声を潜めて呼びかけた。
「その名で、呼ばないで欲しい」
小さいが、耳に刺さる一言に、東雨は思わず膝が震えた。
生涯を尽くすかもしれない主人との出会いは、東雨のように幼いころから宮仕をする者には、忘れられない記憶となる。それがどんなものになるのか、東雨は心秘かに憧れを抱いていた。表向きは侍童として、身の回りのことや学問を助ける役割だが、同時に、犀星の夜伽も東雨の仕事であった。東雨は、仕事としても恋愛としても、犀星に大きな期待をかけていた。
だというのに、最初の言葉がこれか、と、東雨はがっくりと肩を落とした。が、次の言葉に、今度は飛び上がるほど驚かされた。
「呼び名は、|星《せい》、でいい」
犀星は息を吐きながら、ぽつりと言った。
「と、とんでもございません!」
あからさまに、東雨は焦った。たとえ犀星が良くても、周囲がそれを許しはしない。
幼いとはいえ、皇族の世話を任されるべく育てられた東雨である。一通りの礼儀は心得ていた。
「いいんだ。その方が慣れている」
宮中の礼法を知ってか知らずか、犀星は遠慮なく促した。
「あ、あの……」
そういう問題じゃないぞ。
東雨は何と言って断ったら良いか、言葉を探した。賢い少年だったが、よもや、このような事態を想定していたはずもなく、咄嗟に反応できなかった。
田舎育ちのあんたは知らないだろうけど、ここじゃそんなの、通用しないんだよ。
嘲笑って、そう言い放つことができたら、どんなに楽だろう。だが、そのような態度をとれば、周囲を警戒しながらついてきている護衛の兵に、無礼の咎で切り殺されることは間違いなかった。
犀星の性格もわからない以上、できる限り、穏便に進めねばならない局面だった。
東雨は犀星の顔色を伺いながら、
「恐れ入ります。しかし、侍童の身で、ご主人様を名で呼ぶなど、恐れ多くて……誰かに聞かれでもしましたら、伯華様に恥をかかせてしまいます」
「俺がいいと言っている」
「しかし……」
東雨の精一杯の拒絶も、犀星には通じなかった。
「侍童でありながら、俺の言うことが聞けないのか?」
言葉自体はきつかったが、犀星は怒ってはいなかった。むしろ、感情がない。それが余計に恐ろしかった。
思わず、東雨はひるんだ。それを感じ取ったのか、犀星はそっと目を開けて、視線だけを東雨に向けた。
「……すまない。脅すつもりはなかった」
東雨は恐る恐る顔をあげた。
すまない?
状況が飲み込めずに、東雨は混乱した。
今、すまない、と言ったのか?
即位前とはいえ、犀星はこの国の第二皇位継承権を持つ親王である。それが、今日召し抱えたばかりの八歳の子供に、詫びなど入れる必要は全くなかった。
どうかしている……この親王は。
東雨の困惑など知るよしもなく、犀星は言った。
「宮中に前例はないのかもしれない。だが、俺は、本当に、その方が良いのだ。申し訳ないが、配慮願えないか?」
何だよ、その言い方……
いよいよ、東雨は混乱した。
彼が知る宮廷人は程度の差こそあれ皆横暴で、好き勝手に振る舞った。礼儀を重んじるべきという大義名分のもと、どれだけ理不尽な扱いを受けてきたことか。だというのに、この年若い親王は、自分を対等な人として扱っていた。
東雨は少しだけ、緊張を解いた。
「そ、それでは……」
呼び名を、東雨は必死に考えた。
犀星の素性を隠すため、親王と呼ぶことはできない。かと言って、名を呼ぶなどもってのほかである。
「で、では……」
東雨があれこれと首をひねっている間、自分は無関係であるかのように、犀星は目を閉じたまま幹を流れる水音を聴いていた。
「……わ、若君様、というのは?」
ようやく、東雨は絞りだした。
「長いな」
「え?」
東雨の必死の案は、あっさり却下された。涙目になりながら、東雨は声を震わせ、
「それなら……若様、ではいかがでしょう」
「……わかった」
言って、犀星はようやく木から離れた。
この人は、一体何を考えているのだ?
東雨には全く想像がつかなかった。
花の香る頃ならばいざ知らず、今時分は葉がしげるだけで、東雨には面白みのない景色である。いかに見目麗しくとも、着物が汚れることも厭わず、人の目もわきまえず、蝋梅の木にしがみつくような奇人は願い下げだった。
一体、何を考えている? ただの阿呆か?
「俺が、奇妙に見えるか?」
まるで、東雨の心を読んだかのように、犀星は言った。思わず東雨は慌てて首を振ったものの、その表情が否応なく肯定していた。
それを見ても、犀星には気分を害した様子はなかった。
「蝋梅は、好きだ」
幹を撫でて、犀星は呟いた。
これは厄介だ、と東雨は思った。
わずかなやりとりだけで、犀星に東雨の常識が通じないことは明白だった。
早めに、この人を把握しなければ……
東雨は無理して明るく笑顔を作った。
「わ、若様がお育ちになった|歌仙《かせん》には、蝋梅が多いのですか?」
少しでも、会話を広げようと、東雨は社交辞令に必死になった。自分の主人が何を考えているかわからないようでは、これから先が思いやられる。
犀星はどこか夢見るような口調で、
「故郷の山に、たくさんあった。香り豊かで麗しい花だが、この木の種には毒がある……」
「ど、毒……?」
これには、東雨も反応のしようがなかった。
脅しているのか? それとも、試している……?
東雨は返答に窮し、あれこれと思考の袋小路に追い詰められてしまった。
犀星は、今まで身を寄せていた幹に、今度はその背を預けて、空を仰いだ。耳にかかる柔らかな髪を、秋近い風が優しく揺らして過ぎていく。心地よいのか、犀星はそのまま目を閉じた。長い睫毛の影が美しかった。
犀伯華は、先代の皇帝の落胤であり、南陵郡歌仙の育ちである。生まれてすぐに母を亡くし、宮中を離れ、母の故郷で育てられた。現在の皇帝、宝順の末弟であり、第四親王の身分を有する。
じっと雲が流れるのを見上げる主人を、途方に暮れて東雨は見つめた。
歌仙の親王は特異な容姿をしている、と噂に聞いたことがあったが、確かにその姿は視線を集めた。
この国では、髪の色と言えば黒である。だが、犀星の髪は、深い蒼色をしていた。遠目には群青に見え、近づくと、更に美しい色と光沢に惹きつけられた。
また、その瞳も稀有であった。黒い瞳を囲む、蒼の虹彩は様々な色合いが混じり、光の加減で玉虫色に輝くようであった。
犀星の母親も、先帝も、そのような容貌は持ち合わせてはいなかった。
先ほど対面を果たした兄の宝順帝さえ、何度も触れて確かめたほどである。
綺麗だ、と、幼い東雨は素直に思った。
珍しさばかりではない。整った顔立ちと、よく鍛えられた細身の身体が、銀糸で縫い取りをした淡灰の絹の着物によく映えていた。
これほどに見目麗しい者は、宮中でも珍しい。犀星の美貌は、女たちの分厚い化粧で装う仮面とは、明らかに質を異にしていた。虚飾では到底及ばない、まさに自然のままの美しさがあった。
眉目秀麗な親王の侍童。東雨は今日という日を楽しみにしていた。美しい主人は、従者の誇りである。犀星であれば、まさに宮中一の自慢の種となることは間違いない。だというのに、性格が破天荒では手放しに喜ぶわけにはいかなかった。
愚鈍はお断りだ、と東雨は思う。いかに見た目が麗しくとも、性格が偏屈であることは明らかだった。
「若様」
東雨は遠慮がちに声をかけた。これ以上、犀星の奇行を周りに見られたくなかった。
「そろそろ、お屋敷に戻りませんか? あまり人目につくのはよろしくないかと」
犀星は目を開くと、ゆっくりと東雨を見た。視線が合いそうになって、東雨はあわてて下を向いた。
目上の人間の顔を直視することは、非礼にあたる。
「お屋敷にも庭がございます。お外でお過ごしなさるのがお好きでしたら、そちらに参りましょう」
「そうだな……」
反論されなかった、と東雨がホッとしたのも束の間、
「そなた、名前は何という?」
犀星がぽつり、と問うた。
「え?」
再び東雨が困惑する。
先ほど、帝の前で顔を合わせたとき、確かに自分はしっかりと名乗ったはずだ。
この人、やっぱりおかしいのか……?
思わず、泣きそうな顔になる東雨を見て、犀星はふっと優しい笑みを見せた。
花もほころぶような美しさであったが、下を向いたままの東雨には見えていない。
黙り込んでしまった東雨に、犀星は済まなそうに首を振った。
「東雨、といったな。|桂陽郡智尚《けいようぐんちしょう》の生まれで、まもなく八歳。親を戦乱で亡くし、孤児として宮中で育てられた。武芸も学問も優れていると。|字《あざな》はまだなかったな」
「は、はい……」
自分の名乗りを覚えていたことに、東雨は少し、ほっとした。と、犀星は、東雨の想像を超えて尚も続けた。
「手の痕から見るに、刀と筆は右利き、体の重心はやや左。右の股関節の辺りを怪我したことがあるようだ。痛みを庇ってついた癖と見える」
「え?」
「年齢の割に華奢だが、動きは素早い。利発で頭の回転も早そうだ。感情豊かで感受性も強い。だが、少々素直過ぎる。考えていることがすぐ表にでる」
「な……」
東雨は思わず、抱えていた風呂敷を強く握りしめた。
「それだ」
「あ!」
完全に犀星の言葉に翻弄されて、東雨は狼狽えた。全て、的を射ていた。
「俺を、物覚えの悪い奴だと思っただろう?」
「え?」
動揺した東雨は、思わず顔を上げた。犀星の整った目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「やはりな」
「わ、私をからかっているのですか!」
思わず叫んでしまってから、東雨は慌てて口を抑えた。
悪びれた様子もなく、犀星は首を振った。
「からかってなどいない。緊張せずともよい。堅苦しいのは苦手なんだ」
「そいつは同感だ」
声とともに、しなやかな人影が犀星と東雨の間に踊り込んだ。反射的に犀星が身を翻した。ひらりと髪が舞い、刀の切っ先が振り下ろされた。
「うわっ……!」
鋭く空気が切り裂かれる音に、東雨は驚いて頭を抱え、尻餅をついた。恐る恐る目を上げると、長身の逞しい男が抜き身の剣を手に立っていた。
「だ、誰か!」
東雨は甲高い悲鳴を上げた。
「こ、この人を早く捕まえてっ……!」
東雨の声はよく通ったが、周囲の護衛たちはこちらを見てため息をつくだけだった。男は東雨を見て、無遠慮に言い放った。
「無駄。あいつらは俺の部下だ」
じっと男を見ていた犀星が、落ち着いた口調で、
「そなたは確か、帝のそばにいた近衛だな?」
「お心に留まりましたこと、身に余る光栄にございます」
男は素直に刀を収めると、よく鍛えられた美しい動きで、その場に膝をついた。犀星は無表情のまま、
「そなたは他の者より、ずば抜けて隙がなかった。だから覚えている」
「さすがは、犀将軍の教えを受けられたお方、ご慧眼と身のこなし。感服仕りましてございます。臣、燕涼景と申します。ご帰京を、お待ち申し上げておりました」
それを聞いて、東雨は目を丸くした。
燕……涼景……近衛右隊長の……!
犀星は小さく頷いた。
「燕将軍……そうか、そなたが。養父上より、噂は聞き及んでいる」
涼景は顔を上げ、真っ直ぐに犀星を見た。まなざしはしっかりと犀星の目に向けられ、そこには強い光が宿っていた。
涼景の様子に、東雨は慌てた。いかに若き英雄と言われる涼景であろうとも、親王の顔を見るなど、許されるものではない。
力量を測るように斬りかかってきたことといい、無礼が過ぎている。即位前であろうとも、犀星はまごうことなき皇家の末裔であり、世の巡りによっては皇帝の座に就く貴人である。
親王が突然怒り出したら、どうするつもりだ? 何が起きても知らないぞ。
東雨は口を曲げて眉間にしわを寄せながら、犀星の様子を視界の隅で伺った。
だが、やはり、東雨の主人は変わり者だった。犀星は、涼景の横暴をまったく意に介した風もなく、涼しい顔をしていた。
犀星の表情を読み取ると、涼景は満足そうに笑い、さっさと立ち上がって服の土を払い落とした。まるで、形だけ挨拶はしたのだから、もう、いいだろう、という開き直りが垣間見えた。
犀星は全く気にした様子もない。東雨だけが、焦りに焦っていた。
「聞いているなら話が早い。燕|広播《こうはん》が嫡男、燕仙水だ。涼景と呼んでくれて構わない。俺のことは好きに使えばいい。おまえの近衛だ」
「何という……」
東雨は息を呑んだ。親王を、おまえ呼ばわりとは……
東雨の視線が、落ち着きなく、犀星と涼景の間を行き来した。一触即発と思われたが、犀星は平生のまま、興味深げに、
「|暁将軍《あかつきしょうぐん》といわれる天才、燕一族をそなた一人で背負っていると」
「そんな大層なものじゃない。本当の天才ってやつは、もっと謙虚なもんさ」
涼景は、すでに遠慮は無用と割り切っているらしい。口調にも軽さが感じられた。
「おまえ、皇帝が下した号に腹は立たないのか? 歌仙とは、決しておまえの心情をはかって選定されたわけじゃない。皮肉のつもりだろう」
犀星は、涼景のどのような態度にも落ち着きを崩さなかった。
犀星と涼景のやり取りを見ながら、東雨は少しずつ気持ちが落ち着いてきた。どうやら、東雨の主人は世間一般より短気ではないようだった。
「そなたは、歌仙が嫌いなのか?」
犀星はわずかに首を傾げた。
東雨の記憶によれば、涼景もまた、犀星と同じ南陵郡歌仙の出である。偶然にも、同郷の、しかも国の中枢に位置する二人が、顔を合わせたわけである。
ぶっきらぼうに、涼景は答えた。
「俺は五歳の頃に、都へ来た。だから、故郷の記憶はほとんどない。年に一度、帰る程度だ」
「そうか」
犀星は顔色も変えずに、答えた。落ち着いていたが、目だけは食い入るように涼景を観察していた。
「俺はあの水の大地が気に入っている。だから、この号にも、不満はない」
「おまえが平気なら、それでいいんだが」
「そなた……」
と、言いかけた犀星を、涼景が手で制した。
「その、仰々しい呼び方、やめてくれないか?」
「だが、宮中ではそう呼ぶものなのだろう?」
「通常は、な。だが、おまえと俺の間に、そんなものはいらない」
東雨は当然の疑問を浮かべた。犀星が変わり者なのは疑う余地がなかったが、負けず劣らず、この暁将軍もまた、常識の通じぬ相手と見えた。
涼景は犀星を値踏みするように見つめ、傷を歪ませて笑みを浮かべた。
「俺のことは、涼景でいい、と言っただろう? よろしくな、|星《せい》」
唐突に名を呼ばれて、犀星が瞬きした。
都に上がって以来、誰もが腫れ物に触るように接してきた。故郷では、一日に何度も呼ばれてきた名を、全く聞かなくなっていた。そんな中で、涼景の声は懐かしく、犀星の面にかすかな安堵が浮かんだ。
満足そうに、涼景は頷いた。
「俺はおまえの近衛だ。遠慮はいらない」
涼景は、ついてこい、というように、顎をしゃくると、先んじて歩き始めた。犀星は疑いもなく、黙って後に続いた。
東雨は立ち上がると、護衛の兵たちに助けを求めるように顔を向けた。だが、彼らも涼景の気性を心得ていると見えて、平静を保って止めようともしない。自分たちより位の高い涼景には、どうあっても逆らえない。これが東雨のよく知る宮中の通常であった。
東雨は諦めて、犀星を追った。
涼景の右頬には、深い十文字の傷跡が残されていたが、それを差し引いてもなお、精悍な顔立ちは群を抜いていた。
犀星の中性的な美しさに対し、涼景には力強い男性の魅力が溢れていた。
暁将軍・燕涼景。字を仙水という。三年前の歌仙事変の際に大きな功績を上げ、わずか十五歳で将軍の座についた異例の経歴の持ち主だった。その裏側には、噂好きな連中を楽しませる醜聞も潜んでいたが、今の当人を見る限り、そのような中傷に怯えている様子は見受けられなかった。
逞しく鍛えられた涼景の体躯は、若さゆえの未熟さはあっても、今後の成長を期待させるものである。
涼景の知名度は、宮中でも都でも高かった。
すれ違う貴人たちは、吸い寄せられるように歩調を緩め、優雅な紅の衣を纏った美青年を振り返った。
軍事に携わる者の羨望と嫉妬、文官からの警戒と軽蔑、輿の帳の隙間から覗く女の熱のある視線、荷運びをする使用人や商人の気さくな笑顔。
宮中の奥で隔離された教育を受けてきた東雨は、これだけの様々な感情を目の当たりにして目眩すら感じた。
視線に慣れている涼景は気にもせず、朱雀門を通り、宮中を出た。その歩調は力強く迷いもなかった。最初からこういう手はずであったか、と、東雨は焦りを感じた。
涼景の案内が、都の大通りを脇に避けて薄暗い路地に達した時、ようやく、東雨は疑念を確信に変えた。
東雨はひやひやしながら周囲を見回した。
「燕将軍! いけません! 勝手に宮中を出るなんて……」
「そんなに嫌なら、おまえだけ戻ればいい」
涼景は東雨を振り返りもせずに、言い放った。
「そんなこと、できません! 私は……わ、若様の侍童ですから」
東雨も、就任初日からこのような失態となっては大ごとである。凄みのある涼景に身をすくめながらも、東雨は精一杯食い下がった。だが、そんなことで足を止める涼景ではない。東雨を一瞥して、
「だったら大人しくついてこい」
「ついてこいって、どこへ行くんですか?」
東雨は、無言のままの犀星より一歩下がって歩きながら、
「こんな都の中をうろうろしていては、どんな目にあうか……」
「このあたりは暁隊が警備している。心配ない」
「暁隊……」
東雨は記憶を辿った。
暁隊は、宮中警備の右近衛と並んで、涼景が束ねる都の警護番である。活気はあるが、気性の荒い者たちも多いと聞いている。
「……まさか、私たちを誘拐するつもり……?」
青ざめる東雨をちらりと見て、涼景は少し声をひそめた。
「星はともかく、おまえを捕らえて何の役に立つ?」
「そ、それじゃ……」
「俺個人として、星に屋敷を用意しただけだ」
東雨は声を震わせ、
「お屋敷ならば、陛下がご用意下さっているので、必要ないです……」
涼景はすぐには答えず、少し路地を進んでから犀星と東雨を振り返った。
「死にたいのか?」
「え?」
東雨は息を呑んだ。
「どういう意味だ?」
沈黙し続けていた犀星が、ようやく口を開いた。涼景はわずかに眼を細めて行く先を見た。
「都で人は信じるな。特に、宮中の人間は、全員が敵だと思え」
「おまえもその一人だろう?」
きっぱりと、犀星は言った。涼景はにやりと犀星を見た。
一瞬、風が砂を巻き上げ、二人をつないで吹きすぎた。涼景は背筋を正した。
「そうだ。俺も敵かもしれない。ただ、今すぐ、おまえを殺せとは言われていないだけだ」
東雨は後ろをついていきながら、不安そうに二人を見比べていた。
同郷のよしみで、気を許すのかと思えば、そうでもないらしい。
「燕涼景といえば、皇帝直属の臣下だったな」
犀星はおもむろに、
「長年の側近で、戦時下では大軍の指揮も任される信頼ぶりだと」
「そうだ。だが、目に見えるものが全て真実ではない。また、偽りだとも言い切れない。それが宮中だ」
「おまえの言葉も、半分に聞いておこう」
「賢いな」
涼景はどこか満足そうだった。
二人のやり取りを聞く東雨は、自分がいつしか、彼らから目が離せなくなっていることに気づいた。それは、侍童という立場ではなく、人として、惹かれ始めた証だった。
美しいが、何を考えているかわからない歌仙親王。
輝かしい功績と期待を集めながら、あくまでも自由に振る舞う暁将軍。
なにかが、起こる。
東雨は二人の背中に、そんな期待を抱いた。
だが、今は遠い未来よりも、目下の問題を解決する方が先決だった。
涼景があまりにややこしく道を変えたせいか、いつしか、護衛とも距離が開いた。追いついてくるのを願って振り返ったが、その気配はなかった。
「あの……」
東雨は勇気を振り絞って声を出した。
「近衛の人たちとはぐれたようです。戻った方が……」
「いい」
涼景は小さく忍び笑いをした。
「あいつらは近衛じゃない。禁軍だ。俺の管轄ではない」
「禁軍……? それは、余計に悪いのではないですか? 陛下が直接、若様の警護につけて下さったのに」
「東雨、だったな? おまえは星を守るためにいるのではないのか? それとも、皇帝の回し者か?」
「なっ……」
東雨は泣きそうに顔を歪めた。
「言っただろう? 不満があるなら宮中に戻って良いと。俺と来るか、一人で帰るか、おまえにはそのどちらかしかない」
東雨は風呂敷の中の自分の着物がしわくちゃになることも忘れて、強く抱きしめた。
「こ、こんなことしたら……」
言いかけたとき、遠くから、大声で怒鳴りあう喧騒が聞こえた。東雨の頭に、稲妻のように考えがひらめいた。
「まさか、あなた、わざと? 暁隊を?」
「ほう、意外と聡いな」
涼景は余裕のある微笑を浮かべながら、
「まぁ、そういうことだ」
「そういうことって……」
身勝手すぎる。
東雨は唇を噛んだ。
唯一、涼景を止められる立場にある犀星は、黙ったままでまるで役に立たなかった。
どうして、自分がこんな目に遭わなければならないんだ? 俺が何をした? いや、何かする暇もなく、この状況に追い込まれた。
犀星の態度と涼景の行動は、東雨を不安にさせ、その不安に指先が冷えた。
貴人連中は、いつだって自分勝手なんだ。
東雨は涙を堪えて、心ひそかに愚痴をこぼした。
路地をいくつも曲がって、涼景はついに、一軒の大きな石造りの屋敷へ、二人を案内した。重そうな扉と木の塀が高くそびえ、路地の景色に溶け込んでいた。
「ここは、俺の隠れ家だ」
涼景は力強く扉を引き開けた。
「新しくはないが、こういう方が星は好みだろう? ふたりで暮らすには十分に事足りる。朱雀門からも遠くない」
「そんなこと言われても……」
きょろきょろとあたりを見回し、東雨は口を曲げて、
「道に迷って、宮中に戻れませんよ……」
「案ずるな」
涼景は、平然としている犀星を見ながら言った。
「おまえの主人は、道を覚えた」
「え!」
「おまえが余計なことを考えているうちに、星はすべきことをしていたんだ。まったく、抜け目がない親王様だな」
呆然とする東雨に、犀星は頷いた。
「後で、地図を書いてやる」
「わ、若様、今、初めて通った道なのに……」
「ここはわかりやすい。歌仙の山中は、ここより目印が少なかったから」
いみじくも、天下の都である紅蘭を、歌仙の山と比べるとは!
東雨は犀星の言葉に、苛立ちを募らせた。東雨に反して、涼景は楽しげに笑った。
「頼もしいことだ。じゃあな、星。安心して休め」
立ち去ろうとした涼景を、犀星が呼び止めた。
「涼景、おまえ、面白いやつだな」
涼景は振り返った。
「お互い様だ」
数秒、二人はじっと真顔で見つめ合った。
東雨は、なぜかその視線の交わりが、彼の知る何よりも強く、確かな絆を結んだように思われてならなかった。
やがて、涼景の姿が見えなくなると、犀星は東雨に問いかけた。
「東雨、あいつは、どういう奴だ?」
「え?」
東雨は首を傾げながら、
「燕将軍ですか? とにかく、すごく腕が立つ人です」
「それはわかる。性格の話だ」
「性格……」
東雨は丁寧に、
「宮中では、出世が早くて妬まれているようですが、本人は、全く気にしていないようです。いつもは、あんな非礼な方ではありません。礼儀正しく、軽率なことはなさいません。ですから、私も驚いていて……若様には親しみを感じられたのかもしれません」
「戦場では、鎧甲冑をつけない、と噂されていた」
「ああ、それは有名です。いつも、鮮やかな紅色の装束を着て、大太刀一振りを手に、大軍の先頭を走る。都で知らない者はない、武勇伝です」
「武勇伝? ただの命知らずだろう?」
「でも、それで士気が高まるから良いのでは……」
「おまえは、あいつが実際に戦う所を見たことがあるのか?」
「……い、いえ、実際にはありません。人づてに聞いただけです」
「そうか」
「……そんな話、今はいいです」
東雨は、足元を睨みつけて、低く言った。
「それより、宮中に戻らないと。勝手にこんなことしたら、お叱りを受けます」
叱られるだけで済むとは思われず、東雨は背中が寒くなった。
震える東雨をちらりと見て、犀星は屋敷の門へ目を向けた。
「どこで寝泊まりしようと、別にいいだろう。逃げ出すつもりも、逆らうつもりもない」
「そういう訳にはいきません。ここに来てしまったことがすでに、陛下のお怒りに触れるということがわからないのですか?」
「この程度のことで立腹するほど、|狭量《きょうりょう》ではないだろう?」
「度量の問題ではなく……」
東雨は文句を飲み込んだ。
何を考えているのか、本当に理解できない。
親王だろうが、美人だろうが、面倒ごとばかり招き寄せる主人など、厄介でしかない。
つい先刻出会ってから、好き勝手をされっぱなしである。理不尽な状況に、東雨の怒りがふつふつと湧き上がってきた。
門の奥を見ていた犀星は、ふと、東雨に目を向けた。
「東雨」
「はい」
思わず振り返って、東雨は慌てて顔を伏せた。犀星が、一歩、自分に寄ったのを感じて、東雨はわずかにたじろいだ。
「俺の目を見ろ」
「!」
東雨は、どうしたものか、と考えあぐねて、なかなかはっきりとしない。
「人と話すときは、相手の目を見ろ」
「ですから、宮中では、それは、礼儀に反するんです。破ったら、私が叱られるんです」
東雨は困らせるばかりの犀星に、次第に腹が立ってきた。
「若様は、まだ都にいらして日も浅く、宮中の仔細をご存じありません。ここには、若様の知らない約束事があります。守っていただかなければ、私も、周りの者も、役割を果たせません」
「周りの者?」
「はい、たとえば、あの護衛の人たち……」
東雨は、はぐれた兵を思い出した。
「あの人たちは、今頃、必死に若様を探しているはずです。若様が勝手なことをなさるから、彼らはいらぬ苦労をしなければなりません。若様に悪気はないのかもしれませんけれど、そのせいで罰を受けるのは彼らです」
「わざと、引き離した」
「わざと?」
「暁隊、と言ったか? 騒ぎが聞こえた。涼景がそう手引きしたのだろう」
「知っていて、放置していたんですか?」
「あの男が何を考えているのか、興味があったから」
犀星が呟いた言葉に、ぷつん、と、東雨の中で何かが切れた。
頬を朱に染めて、東雨は犀星を睨みつけた。
「そんな好き勝手やって、周囲に迷惑をかけて、楽しむなんて悪趣味です!」
「…………」
「……宮中の連中はみんなそうだ。罰を受けて苦しむのはこっちなのに、お高くとまって偉そうで生意気で頭悪くて、本当に腹が立つ! 何が親王様だ。やってることは、ただの世間知らずの身勝手な子供じゃないですか……っ!」
犀星が、じっと自分を見つめていることに気づいて、東雨は息を抑え、唇を結んだ。
やってしまった。
もう、何もかも終わった。
「東雨」
犀星が自分を呼ぶ声は、今までより、わずかに高ぶっていた。
「き、斬りたければ斬ればいいです!」
東雨は覚悟した。
「……俺はもともと貴人ってのが大嫌いだし、あんたみたいな人に振り回されるくらいなら、死んだ方がましです!」
自暴自棄になって叫ぶ東雨を、犀星は表情ひとつ変えずに見下ろしていた。夕闇の迫る中、暗さを増した犀星の目を、東雨はじっと見つめていた。
もう、全てが終わったというのに、最後に、その目を美しいと思った。
こんなに綺麗な人なのに、俺はどうして、うまくできないんだろう。
「東雨、おまえ、ちゃんと話せるのだな」
「……え?」
犀星が、ほころぶ笑顔を見せた。それは、他者を陥れる時に見せる残虐な笑みではなかった。もっと原始的な、透明な笑顔だった。いうなれば、真実。
東雨の張り詰めていた胸から、ふわりと力が抜けて、息が楽になった。
「若……さ……ま?」
「今のおまえの言葉は、確かに俺に届いている。それは、東雨自身が見て、聞いて、感じたことだからだ。自分で確かめた、東雨の真実だから、ちゃんと届くんだ」
「え? ……あ、あの」
「うん?」
「……怒って、いない……ですか?」
「おまえは事実を言っただけだ。それで俺が怒るなら、俺は本当の愚か者ということになる」
「え?」
東雨としては、思い切り、犀星を侮辱したつもりだった。それは死罪に値する暴挙だった。相手が東雨を指導した育成官ならば、今夜のうちに自分は拷問部屋で息絶えたことだろう。
だが、犀星はただ、静かに微笑んでいた。それは決して、東雨を欺くためでも、意地の悪さを隠すためでもなかった。儚く、どこか寂しげな笑み。
ずっと見ていたい。
東雨は真っ直ぐに見つめた。犀星も、東雨の目をしっかりと見返していた。やがて、犀星は柔らかな声で、東雨を呼んだ。
「もし、これからも俺のそばにいるつもりなら、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分が感じたことだけを信じろ。いいな」
今日一番に、厳しく、そして重たいその言葉を、東雨はしっかりと胸に刻み、知らず知らずのうちに、頷いていた。
翌日、犀星が逗留する予定だった宮中の屋敷が焼き討ちにあったとの知らせが、涼景からもたらされた。また、警護していた禁軍兵の一部が、歌仙親王の命を狙っていたことも、後日、明らかとなった。
もしかしたら、と東雨は心秘かに思った。
この人は、本当はとんでもない方なのではないだろうか。この都を、国を、変えてしまうほどに。
東雨のこの時の予感は、わずか半年後、現実のものとなる。
「敵か或いは」完
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