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敵か或いは

【本編との接続】 本編の10年前の物語。 第一部『誰がための刃』読後がおすすめです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  桜が綻び始めた八穣園(はちじょうえん)の中を、帝との初対面を終えた犀星は、ゆっくりと木々を眺めながら歩いていた。秋の初めの風は、彼の故郷よりも冷たく、異郷にいるという現状をいやがおうにもつきつけてくる。  数日前に十五歳を迎えたばかりの、辺境育ちの若き親王・犀伯華は、行き交う華やかな装束の男女や、立ち並ぶ庭園の装飾、その奥に見える数々の煌びやかな建物には、一切の興味を示していないようであった。  ただ、懐かしそうに、緑揺れる木の枝を見上げている。 「蝋梅だな」  独り言のように、彼はつぶやくと、そっとに歩み寄り、その木肌に頬を押し当てた。まるで、大切な人を抱くような、優しく、優雅な振る舞いである。  胸の中には、決して消えることのない、ただ一人の面影。瞼を離れぬその人の笑顔と、自分を拒絶した瞳。  わずか、十五年の記憶の全ては、その人と共にあり、そして、その人と共に、故郷へ残してきた。裂かれた心の傷に、宮中の華やかな景色が癒しを与えてくれることはない。  そんな乾いた世界で見つけた、蝋梅の樹肌。懐かしい、故郷と同じ温もりを求めて、犀星は手を添えた。  犀星の一歩後ろを、風呂敷包みの荷物を抱えてついてきていた少年が、不思議そうに足を止めた。 「伯華様?」  少年は、今日から自分が仕える主人が何を思っているのか、さっぱりわからなかった。  つい先ほど『お前が世話をするように』と紹介されたばかりで、会話らしい会話もしていない。それどころか、一言も話しかけてもらえていない。  目を閉じて、じっと幹の音を聞くように、犀星は無表情のまま、動く素振りがない。その顔から感情を読み取ることは、何者にも不可能に思われた。  通り過ぎていく宮廷人は、見慣れない少年二人を横目に、コソコソと噂をしていたが、その正体に気づく者はいない。  犀星が都に呼ばれたのは、極秘のことであった。来月の親王の戴冠式までは、その素性を明かさぬように、帝から厳しく言われている。  しっかりとしたお墨付きのないうちに正体を知られれば、それを悪用しようとする者が現れるのが、宮中の習いである。  犀星には、宮中の南側の一角に、質素な仮住まいが与えられた。目立たぬよう、警備は最小限にとどめられている。  供は、この齢八つの侍童ひとりである。予定では三名の侍童があてがわれていたのだが、そんなに数はいらない、と犀星が断ってしまった。  一番歳の大きな者が選ばれ、それがこの少年であった。 「あの、伯華様?」  侍童の少年、東雨は声を潜めて呼びかけた。 「その名で呼ばないで欲しい」  小さいが、はっきりと耳を刺す一言に、東雨は思わず胸が震えた。  生涯を尽くすかもしれない主人との出会いは、東雨のように幼いころから宮仕をする者にとって、忘れられない思い出となる。東雨も心秘かに憧れを抱いていた。表向きは侍童として、身の回りのことや学問の手伝いなどを行う役割だが、同時に、犀星の夜伽も東雨の仕事である。  そのような側面もあるため、東雨にとっては、仕事としても恋愛としても、大きな期待を犀星にかけていた。  だというのに、最初の言葉がこれか、という思いで、東雨はがっくりと肩を落とした。が、次の言葉に、逆に飛び上がるほど驚かされる。 「星、でいい」 「と、とんでもございません!」  あからさまに、東雨は焦った。たとえ犀星が良くても、周囲がそれを許しはしない。  幼いとはいえ、皇族の世話を任されるべく育てられた東雨である。一通りの礼儀は心得ていた。  だが、宮中の礼法には全くの無知である犀星は、遠慮なく促した。 「いいんだ。その方が慣れている」 「あ、あの……」  そういう問題じゃないぞ。  東雨は何と言って断ったら良いか、言葉を探した。賢い少年だったが、よもや、このような事態を想定したはずもなく、咄嗟に反応できない。  田舎育ちのあんたは知らないだろうけど、ここじゃそんなの、通用しないんだよ!  嘲笑って言い放つことができたら、どんなに楽だろう。だが、それでは、周囲を警戒しながらついてきている護衛の兵に、無礼の咎で切り殺されてしまう。  犀星がどんな性格なのかもわからない以上、できる限り、穏便に進めねばならない。  東雨は犀星の顔色を伺いながら、 「恐れ入ります。しかし、侍童の身で、ご主人様を名で呼ぶなど、恐れ多くて…… 誰かに聞かれでもしましたら、伯華様に恥をかかせてしまいます」 「俺がいいと言っている」 「しかし……」  東雨の精一杯の拒絶も、犀星には通じなかった。 「侍童でありながら、俺の言うことが聞けないのか?」  言葉自体はきつかったが、犀星は怒ってはいない。むしろ、感情がない。それが余計に恐ろしい。  思わず、東雨はひるんだ。それを感じ取ったのか、犀星はそっと目を開けて、視線だけを東雨に向けた。 「……すまない。脅すつもりはなかった」  東雨は恐る恐る顔をあげた。  すまない? いま、すまない、と言った?  状況が飲み込めずに、東雨は混乱した。  この親王は、どこまで無知なのだ?  即位前とはいえ、犀星はこの国の第二皇位継承権を持つ親王である。それが、今日召し抱えたばかりの八歳の子供に、詫びなど入れる必要は皆無だった。むしろ、そのようなことをする方が狂っている。  東雨の胸中など知るはずもなく、犀星は言った。 「他に例はないのかもしれないが、俺は、本当に、その方が良いのだ。申し訳ないが、配慮願えないか?」  何なんだ、その言いようは。  東雨は余計に混乱した。  彼が知る宮廷人は多かれ少なかれ横暴で、好き勝手をしていた。礼儀を教える、と言う大義名分のもと、どれだけ、自分のような子供が理不尽な扱いを受けてきたことか。  だと言うのに、この年若い親王は、自分を一人前の人間として接している。  東雨は少しだけ、緊張を解いた。 「そ、それでは……」  東雨は必死に考えた。  犀星の素性は隠さねばならない。そのため、親王、と呼ぶことはできない。かと言って、犀星が言うように名を呼ぶなどもってのほかだ。 「で、では……」  東雨があれこれと考えている間、犀星はじっと、幹の中を流れる水音を聴いているようだった。 「わ、若君様、というのは?」 「長いな」 「え?」  せっかくの東雨の発案も、あっさり断られる。 「それなら……若様、ではいかがでしょう」 「……わかった」  言って、犀星はようやく木から離れた。  この人は、一体何を考えているのだ?  東雨には全く想像もつかない。  着物が汚れることも気にせず、蝋梅の木にしがみつくような奇人が主人とは。花のじきならいざしらず、いまはただ葉がしげるだけで、面白みのない景色である。何がしたいのか、東雨には理解できない。いくら見目麗しくとも、このような行動が目立つならば距離を取りたい。  一体、何を考えている? ただの阿呆か? 「奇妙に見えるか?」  まるで、東雨の心を読んだかのように、犀星は言った。思わず東雨は慌てて首を振り、態度で肯定してしまった。  犀星は怒った様子もなく、 「蝋梅は、好きだ」  再び木を撫でて、犀星は呟いた。  これはことだぞ、と東雨は思った。  これまでのやりとりで、すでに犀星に東雨の常識が通じないことは明白、早めに対処しなければ……  こういうときは、情報収集だ。  東雨は明るく、 「わ、若様がお育ちになったあたりには、蝋梅が多いのですか?」  少しでも、会話を広げよう、と社交辞令に必死になる。自分の主人が何を考えているかわからないようでは、これから先が思いやられる。 「故郷の山に、たくさんあった。香り豊かで麗しい花だが、この木の種には毒がある……いいのか、こんなところに植えて」 「!」  これには、東雨も反応のしようがなかった。  毒? 脅しているのか? それとも、試している……って俺を?  東雨は返答に窮し、あれこれと思考の袋小路に追い詰められてしまった。  犀星は、今まで身を寄せていた幹に、今度はその背を預けて、空を仰いだ。耳にかかる柔らかな髪を、秋近い風が優しく揺らしてすぎていく。彼は心地よいのか、そのまま目を閉じた。  犀星は、南陵郡歌仙の人である。先代の帝の落胤であり、生まれはこの都、紅蘭であるが、生まれてすぐに母を亡くし、母の故郷の歌仙へと都落ちしてそこで育てられた。  現在の皇帝、宝順とは、腹違いの兄弟となる第四親王である。しかし、どうやら母親似らしく、先帝や兄の面影は感じられなかった。  じっと雲が流れるのを見ている主人を、途方に暮れて東雨は見つめた。  歌仙親王は特異な姿をしている、と噂に聞いたことがあったが、確かに人目を引くものだった。  この国では、髪の色と言えば黒である。年を経て茶色味を帯びたり、白髪が混じることはあるが、犀星のそれはどれとも違っていた。彼の髪は、深い蒼色をしている。遠目には分かりにくいが、近づくと、その美しい色と光沢に惹きつけられた。また、その瞳も、同じ蒼露のようであった。黒い瞳孔を囲む、碧玉のような虹彩には、他の者とは明らかに違う色合いが混じり、光の加減で玉虫色に輝くようであった。  犀星の母親も、先帝も、そのような容貌は持ち合わせてはいなかった。  先ほど対面を果たした兄の宝順帝さえ、初めてその姿を見たとき、何度も触れて確かめたほどだ。  綺麗だ、と、幼い東雨は素直に思った。  珍しい髪や瞳のせいばかりではない。整った顔立ちと、よく鍛えられた細身の身体が、銀糸で縫い取りをした淡灰の絹の着物によく映えている。  これほどに見目麗しい者は、宮中でも珍しい。  多くの女性は分厚い化粧で素顔を隠し、美しさを装っていたが、犀星の姿は、まさに自然そのままのものである。  そんな犀星の侍童として仕えることができることを、東雨は楽しみにしていた。美しい主人は、従者の自慢である。犀星であれば、まさに、宮中一の自慢の種となること、間違いない。だというのに、性格がこれでは、手放しに喜ぶことはできそうもない。  愚鈍はお断りだ、と東雨は思う。いかに美しくとも、性格が変わり者であることは明らかだ。 「若様」  恐る恐る、東雨は声をかけた。これ以上、奇妙な行動を周りに見られたくなかった。 「そろそろ、お屋敷に戻りませんか? まだ、お忍びですので、あまり人目につくのはよろしくないかと」  犀星は目を開くと、ゆっくりと東雨を見た。視線が合いそうになって、東雨はあわてて下を向いた。  目上の人間の顔を直視することは、失礼にあたる。 「お屋敷にも庭がございます。お外でお過ごしいただくのがお好きでしたら、そちらで」 「そうだな……」  反論されなかった、と東雨がホッとしたのも束の間、 「そなた、名前は何という?」  犀星がぽつり、と問うた。 「え?」  再び東雨が困惑する。  先ほど、帝の前で顔を合わせたとき、確かに自分はしっかりと名乗ったはずだ。  この人、やっぱり馬鹿?  思わず、泣きそうな顔になる東雨を見て、犀星はふっと優しい笑みを見せた。  花もほころぶような美しさであったが、下を向いたままの東雨には見えていない。  黙り込んでしまった東雨に、犀星は済まなそうに首を振った。 「冗談だ。東雨、といったな。桂陽郡智尚(けいようぐんちしょう)の生まれで、まもなく八歳。親を戦乱で亡くし、孤児として宮中で育てられた。武芸も学問も優れていると。字はまだなかったな」 「は、はい……」  自分の名乗りを覚えていたことに、東雨は少し、ほっとした。と、犀星が東雨の想像を超えて、続けた。 「手の痕から見るに、刀と筆は右利き、体の重心はやや左。右の股関節の辺りを怪我したことがあり、それを庇ってついた癖か」 「え?」 「年齢の割に華奢だが、動きは素早い。利発で頭の回転も早そうだ。感情豊かで感受性も強い。だが、少々素直過ぎるな。考えていることがすぐ表にでる」 「な……」  東雨は思わず、抱えていた風呂敷を強く握りしめた。 「ほら」 「あ!」  完全に犀星の言葉に翻弄されて、東雨は狼狽えた。全て、的を得ていた。 「俺を、物覚えの悪い奴だと思っただろう?」 「え?」  動揺した東雨は思わず顔を上げてしまい、犀星と目が合う。それ、すなわち、肯定である。 「図星か」 「わ、私をからかっているのですか!」  思わず叫んでしまってから、東雨は慌てて口を抑えた。  悪びれた様子もなく、犀星は首を振った。 「からかってなどいない。緊張せずともよいと言っている。堅苦しいのは苦手なんだ」 「そいつは同感だな」  声と同時、しなやかな人影が、犀星と東雨の間に踊り込んだ。気配を察したのか、犀星が後ろ跳びに身を翻す。その喉元紙一枚のところに、刀の切っ先が振り下ろされた。鋭く空気が切り裂かれる。 「な、なんだっ!」  東雨が目の前に飛び出してきた男に驚いて、尻餅をついた。  すらりとした長身の、逞しい男が、抜き身の剣を手に立っていた。 「く、曲者!」  東雨が悲鳴を上げる。だが、周囲の護衛たちは、こちらを見ても首をかしげるばかりだ。 「こ、この人を早く捕まえてっ……!」 「無駄。あいつらは俺より下」  男は東雨を見て、無遠慮に言い放った。じっと男を見ていた犀星が、落ち着いた口調で、 「そなたは確か、帝のそばにいた近衛だな?」 「お目に止まって、光栄です」  男は素直に刀を収めると、今度は態度を一変し、その場に膝をついた。 「他の者より、ずば抜けて隙がなかった。だから覚えている」 「さすが、犀侶香様のご子息、見事な勘と身のこなし。燕涼景と申します。お待ちしておりました、歌仙様」  燕……涼景……近衛右隊長の……!  東雨は状況を理解した。 「燕将軍……そうか、そなたが、燕家の……」  犀星は小さく頷いた。 「そなたのこと、義父から聞いている」  涼景は顔を上げ、真っ直ぐに犀星を見た。涼景の様子に、東雨が慌てる。いかに若き英雄と言われる涼景であろうとも、親王の顔を見るなど、許されるものではない。  だが、やはり、というべきか。犀星はまったく意に介した風もなく、涼しい顔である。  犀星の表情を読み取ると、涼景は小さく笑い、さっさと立ち上がって服の埃をほろう。まるで、形だけ挨拶はしたのだから、もう、いいだろう、という無人ぶりである。  犀星は全く気にした様子もない。東雨だけが、焦りに焦っている。親王が突然怒り出したら、どうしたらいいのだ? 「燕広播(こうはん)が嫡男、燕仙水だ。涼景と呼んでくれて構わない。おまえの方が、位は上だ」 「しょ、将軍! 何という……」  位が上、と言いつつ、おまえ呼ばわりとは……  東雨の視線が、あたふたと、犀星と涼景の間を行き来する。 「暁将軍といわれる天才、か」   犀星は平生を保ちつつ、興味深けに涼景を見ている。涼景の方も、すでに遠慮は無用と割り切っているらしい。 「おまえの号、歌仙の辺境の出だから、歌仙親王、とは、随分馬鹿にされたものじゃないか。文句の一つも言わないとは」 「そなたは、歌仙が嫌いか?」  犀星は、涼景のどのような態度にも落ち着きを崩さない。どうやら、東雨の主人は怒りっぽいたちではないようだ。  東雨の記憶によれば、涼景もまた、南陵郡歌仙の出である。偶然にも、同郷の、しかも国の中枢に位置する二人が、顔を合わせたわけである。 「俺は五歳の頃に、宮中へ入った。故郷の記憶はほとんどない」  ぶっきらぼうに、涼景は答えた。 「そうか。私より、三つ年上だったな。俺は故郷を気に入っている。だから、この号にも、不満はない」 「そうか」 「それより、そなた……」  と、言いかけた犀星を、涼景が手で制した。 「その、仰々しい呼び方、やめてくれないか? おまえ、で十分」 「だが、宮中ではそう呼ぶのだろう?」 「普通はな。だが、おまえと俺の仲だ」  今、出会ったばかりで、どういう仲だろう? と、東雨は当然の疑問を浮かべた。  涼景が犀星を値踏みするように見つめ、ニヤリと笑った。 「よろしくな、星」  いきなり、名を呼ばれて、思わず犀星が瞬きする。  都に上がって以来、腫物に触るように接せられてきて、名を呼ばれたことなど一度もなかった。どこか懐かしく、涼景との距離が近く感じられる。思わず、犀星の面に、緊張が解けたかすかな笑みが浮かんだ。 「俺に遠慮はいらん」  涼景は、ついてこい、というように、顎をしゃくると、先んじて歩き始める。  犀星はまったく疑った様子もなく、黙ってついていく。  東雨は立ち上がると、護衛の兵たちに助けを求めるように顔を向けた。だが、彼らも涼景の気性を心得ていると見えて、やれやれと首を振っただけで、止めようとはしない。自分たちより位の高い涼景には、どうあっても逆らえないのである。  東雨は諦めて、犀星を追った。  まだ身分を明かされていない犀星と違って、涼景の知名度は高い。  すれ違う者たちも、見とれたように歩調を緩め、優雅な紅の衣を纏った美青年を鑑賞しては、ため息をついている。  涼景の右頬には、戦のためについたのか、十文字の傷跡が残されていたが、それを差し引いてもなお、精悍な顔立ちは群を抜いていた。  犀星が中性的な美しさを持つのに対し、涼景には力強い男性の魅力が溢れている。  暁将軍・燕涼景。字を仙水という。三年前の歌仙事変の際に大きな功績を上げ、わずか十五歳で将軍の座についた、異例の経歴の持ち主だ。その裏には、噂好きな愚民を楽しませる猥談も潜んでいるようだが、今の当人を見る限り、そのような雰囲気を感じさせるものはない。  逞しく鍛えられた体躯は、若さゆえの未熟さはあっても、今後の成長を確約するものである。  視線を集めることに慣れているのか、涼景は気にもせず、堂々とした態度で通行門を通り、宮中を出る。そしてそのまま、都の大通りを脇に避けた。 「燕将軍! ダメです! 勝手に宮中を出たりしたら……」  東雨はひやひやしながら周囲を見回した。 「うるさい。そんなに嫌なら、おまえだけ戻れ」  涼景は東雨を振り返りもせずに、ぴしゃりと跳ね除けた。 「そんなこと、できません! 私は……わ、若様の侍童ですから」  東雨も、就任初日からとんだ失態となっては大ごとである。涼景を怖がりながらも、精一杯食い下がった。だが、そんなことで足を止める涼景ではない。 「だったら大人しくついてこい」  と、どんどん先へゆく。 「どこへ?」  犀星が涼景より一歩下がって歩きながら問いかける。涼景は少し声をひそめた。 「おまえの屋敷を用意した」 「それならば、帝がご用意下さっているが……」  涼景はすぐには答えず、少し路地を進んでから、 「死にたいのか?」 「え?」 「まぁ、仕方がない。俺もそうだった」 「どういう意味だ?」  まるで、長年の友のように、犀星は涼景の横顔を見上げた。 「都で人は信じるな。特に、宮中の人間は、全員が敵だと思え」 「お前もその一人だろ」 「ふ……その調子だ」  何が嬉しいのか、涼景はニヤリと犀星を見た。 「そうだ。俺も敵かもしれない。ただ、今すぐ、おまえを殺せとは言われていないだけだ」  東雨は二人の後ろをついていきながら、不安そうにその背中を見比べていた。  同郷のよしみで、仲良くするつもりがあるのかと思えば、そうでもないらしい。 「燕涼景といえば、皇帝直属の臣下だったな」  犀星は、都口調を改めて、友と話すように親しげな調子になっている。涼景も、そうすることを望んでいたようで、不思議と初対面のようには思われない。 「そうだ。だが、目に見えるものが全て真実ではない。また、偽りだとも言い切れない。それが宮中だ」 「お前の言葉も、半分に聞いておこう」 「賢いな」  涼景はどこか満足そうだ。  二人のやり取りを聞く東雨は、自分がいつしか、彼らから目を離せなくなっていることに気づいた。それは、親王を世話するためではない。立場ではなく、人として、彼らに惹かれ始めているのを感じる。  美しいが、何を考えているかわからない歌仙親王。輝かしい功績と期待を集めながら、あくまでも自由に振る舞う暁将軍。  なにかが、起きるのかもしれない。  東雨は二人の背中に、そんな期待を抱いた。  だが、今はそんな将来への期待よりも、目下の問題を解決する方が先決だ。  涼景があまりにややこしく道を変えるものだから、せっかく追ってきた護衛まで、巻いてしまった。後ろを伺うが、誰一人、ついてくるものはいない。  これ、まずいんじゃ……  東雨は風呂敷の中の自分の着替えがしわくちゃになることより、勝手な行動を止められなかった自分に下される罰を心配した。  一体、どうして、自分がこんな目に遭わなければならないんだ? 俺が何をした? いや、何かする暇もなく、この状況だ。  二人の行動は、東雨を不安にさせ、その不安は次第と怒りにまで火をつける。  貴人連中は、いつだって自分勝手なんだ。  東雨は胸深く愚痴をこぼした。  路地をいくつも曲がって、涼景はついに、一軒の大きな石造りの屋敷へ、二人を案内した。 「ここは、俺の隠れ家だ」 「こんな都の裏路地に?」  きょろきょろとあたりを見回し、東雨は口を尖らせて、 「道に迷って、宮中に戻れませんよ……」 「案ずるな」  涼景は、注意深そうに後ろを振り向いていた犀星を見ながら、東雨に声をかけた。 「お前の主人は、道を覚えた」 「え!」  呆然とする東雨を安心させるように、犀星は頷いた。 「後で、地図を書いてやる」 「わ、若様、今、初めて通ったのに……」 「こういうのは得意なんだ。歌仙の山中は、ここより目印が少なかったから」  いみじくも、天下の都である紅蘭を、歌仙の山と一緒にするとは!  東雨は犀星の田舎臭さに、苛立ちを募らせる。東雨に反して、涼景は楽しげに笑った。 「頼もしいことだ。じゃあな、星。安心して安め」  立ち去ろうとした暁将軍を、犀星が呼び止める。 「涼景、おまえ、面白いやつだな」  涼景が振り向く。 「お互い様だ」  数秒、二人はじっと真顔で相手を見つめた。  東雨は、なぜかその視線の交わりが、彼の知る何よりも強く、確かな絆を結んだように思われてならなかった。 ​ やがて、涼景の姿が見えなくなると、犀星は東雨に問いかけた。 「東雨、あいつは、どんな男だ?」 「え?」  東雨は首を傾げながら、 「燕将軍ですか? とにかく、すごく強い人です」 「性格の話だ」 「性格……宮中では、出世が早くて妬まれているようですが、本人は、全く気にしていないようです。いつもは、あんな非礼な方ではありません。礼儀正しく、軽率なことはなさいません。ですから、俺も驚いていて……若様には親しみを感じられたのかもしれません」 「戦場で、鎧甲冑をつけない、と聞いたことがある」 「ああ、それは本当です。いつも、鮮やかな紅色の装束を着て、大太刀一振りを手に、大軍の先頭を走る。都で知らない者はない、武勇伝です」 「武勇伝? ただの命知らずだろう?」 「でも、それで指揮が高まるのは確かですし……」 「おまえは、あいつが実際に戦う所を見たことがあるのか?」 「……い、いえ、実際にはありません。人づてに聞いただけです」  道の奥を見ていた犀星は、ふと、東雨に目を向けた。 「東雨」 「はい」  思わず振り返って、東雨は慌てて顔を伏せる。犀星が、一歩、自分に寄ったのを感じて、東雨はわずかにたじろいだ。 「俺の目を見ろ」 「!」  東雨は、どうしたものか、と考えあぐねて、なかなかはっきりとしない。 「人と話すときは、相手の目を見ろ」  だから、それは礼儀に反するんだってば!  東雨は困らせるばかりの犀星に、腹が立ってならなかった。  親王だろうが、美人だろうが、自分に面倒ごとを招いてばかりの主人など、厄介でしかない。  少し前に初対面で出会ってから好き勝手をされ続けて、さすがの東雨も怒りがふつふつと湧いてくる。 「若様、お言葉ですが……」  東雨はイライラを抑えて、努めて冷静に、 「若様は、まだ都にいらして日も浅く、宮中の仔細をご存じありません。ここには、若様の知らない約束事があります。守っていただかなければ、私も、周りの者も、役割を果たせません」 「周りの者?」 「はい、たとえば、あの護衛の人たち……」  東雨は、犀星たちが巻いてしまった兵を思い出した。 「あの人たちは、今頃、必死に若様を探しているはずです。若様が勝手なことをなさるから、彼らはいらぬ苦労をしなければなりません。若様を見つけられなければ、罰を受けるのは彼らです。若様に悪気はないのかもしれませんけれど、それで……」 「わざと、引き離した」  犀星がつぶやいた言葉に、ぷつん、東雨の中で何かが切れた。 「わざと?」 「うん」  パッと頬を染めて、東雨は犀星を睨みつけた。 「何だかよくわかんないですけど、そんな好き勝手やって、周囲に迷惑をかけて、楽しむなんて悪趣味です! 宮中の連中はみんなそうだ。罰を受けて苦しむのはこっちなのに、お高くとまって偉そうで生意気で頭悪くて、本当に腹が立つ! 何が親王様だ。やってることは、ただの世間知らずの田舎者の子供じゃないですか……っ!」  犀星が、じっと自分を見つめていることに気づいて、東雨は息を呑み、唇を結んだ。  やってしまった。  もう、何もかも終わった。 「東雨」  犀星が自分を呼ぶ。  斬られる!  東雨は覚悟した。 「き、斬りたければ斬ればいいです! 俺はもともと貴人ってのが大嫌いだし、あんたみたいな人に振り回されるくらいなら、死んだ方がマシです!」  ヤケになって叫ぶ東雨を、犀星は表情ひとつ変えずに見下ろしていた。夕闇の迫る中、暗さを増した犀星の目を、東雨はじっと見つめていた。もう、全てが終わったというのに、最後に、その目を美しいと思った。こんなに綺麗な人なのに、俺、どうして、うまくできないんだろう。 「東雨、おまえ、ちゃんとしゃべれるんだな」 「……え?」  犀星が、ほころぶ笑顔を見せる。東雨の張り詰めていた胸から、ふわりと力が抜けて、息が楽になる。 「わ……か……さ……ま?」 「今のおまえの言葉は、確かに俺に届いている。それは、東雨自身が見て、聞いて、感じたことだからだ。自分で確かめた、東雨の真実だから、ちゃんと届くんだ」 「え? ……あ、あの」 「うん?」 「……怒って、いない?」 「おまえは事実を言っただけ。それで俺が怒るなら、俺は本当の馬鹿者ということになる」 「え?」  東雨としては、思い切り、犀星を侮辱したつもりだった。当然、逆上した犀星に斬られても文句は言えない。事実、これが東雨を指導していた育成官だったら、あっという間に拷問部屋行きである。  だが、犀星はただ、静かに微笑んでいる。それは決して、東雨を欺くためでも、意地の悪さを隠すためでもなかった。やわらかく、どこか寂しげな笑み。  ずっと見ていたい。  東雨はそんな思いで、目が離せずにいた。犀星も、東雨の目をしっかりと見返してくれる。 「東雨。俺のそばにいるつもりなら、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分が感じたことだけを信じろ。いいな」  今日一番に、厳しく、そして重たいその言葉を、東雨はしっかりと胸に刻み、頷いた​。  翌日、犀星が逗留する予定だった宮中の屋敷が焼き討ちにあったとの知らせが、涼景からもたらされた。また、犀星たちを警護していた兵の一部が、反朝廷に与する者であり、歌仙親王の命を狙っていたことも、後日、明らかとなる。  もしかしたら、と東雨は心秘かに思った。  この人は、本当はとんでもない方​なのではないだろうか。この都を、国を、変えてしまうほどに。 ​ 彼のこの時の予感は、数年後、現実のものとなる。

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