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狂戯を喰む(1)

【本編との接続】 本編の十年前の物語。 『第一部「星誕」』後、『第二部「紅葉」』前がおすすめです。 _____________________________ ​ 都へ入ってふた月が過ぎようとしていた。  馴れない宮中の習慣の中で過ごす息詰まる毎日に、犀星はすっかり疲れ果て、屋敷に戻ると、身支度もそこそこに、牀に倒れ込んだ。  歌仙を自由に駆けまわっていた十五歳の少年に、国が求めた格式はあまりに重たい束縛だった。  立ち居振る舞い、言葉遣い、目線の使い方、身分の差による対応、食習慣、そして膨大な竹簡の山。学ぶべき知識は途方もなかった。  故郷で父から教えられた訓戒は、あらゆる場面で犀星の感情を揺さぶった。信じる価値観を否定され、その度に胸が激しく波だった。  初めのうちは、感情的な行動を抑えることができなかった。露骨に態度に出てしまい、周囲をひやひやさせた。だが、たとえどれほど反発しようとも、三百年の慣習を覆す力はない。争えば争うほどに、生きづらさが身に染みた。  何より理不尽を感じたこと、それは、自分が礼を失すると、自分の周囲の者が責められるという事実だ。  しだいと、犀星は表情を強張らせ、表に出さなくなった。  感情が消えることはない。だが、見せなければよい。  ただそれだけのこと。  犀星は心を閉ざし、表面上はおとなしく例にならった。決して容易なことではなかったが、犀星の、現実に立ち向かおうとする意志は固かった。  必ずや、都で権力と地位を手に入れ、何に脅かされることもない自分となる。そして、故郷に置き去りにしてしまった、たったひとりの大切な人を呼び寄せる。  それだけが犀星の願いであり、誓いだった。  その姿を、誰よりも近くで見ていたのは、八歳になったばかりの東雨である。  宝順帝に見込まれ、犀星の侍童として、そのそばで世話を焼いた。  幼いながら、東雨は主人の身のまわりのことを器用にこなした。物覚えが早く、機転も効く。明るく素直でまっすぐな気性は、人嫌いの犀星の心さえ静かになぐさめた。  東雨は年齢に似合わず、物事をよく知る子どもであった。  犀星の頑固で融通が効かない気質をすぐに見抜き、それに合わせて先回りし、事前に周囲の不満を遠ざけた。着るものひとつ、歩く道ひとつ、東雨がさりげなく手を貸し、目配せした。それもあって、周りの犀星を見る目は徐々に変わっていった。  目前に迫った、親王戴冠式の対外的な準備も、東雨の仕事だった。頻繁な打ち合わせには必ず出席し、犀星の隣で行儀良く聞いた。そして、屋敷に戻るとすぐに手筈を整えた。何かを言われる前に自分から動く。その行動力は、無言の優しさのように、犀星を包み込んだ。 ​「おまえが親王になればいい」  犀星が半ば以上本気で言ったほど、見事な働きぶりだった。  犀星の役に立てることが、幼い東雨には心底嬉しい。自然と笑顔が増えていった。  戴冠式を翌日に控えた夕刻。 「若様、おやすみ前のお茶をお持ちしました」  東雨は、すでに寝支度を整えた犀星の部屋を訪ねた。  西陽が長く部屋の奥まで差し込み、室内を柔らかく照らし出していた。  几案の隅には油灯の皿が置かれていたが、油を節約するため、灯されることはまれである。大抵は、日が暮れるのに合わせて寝てしまうのが、この家のやり方だ。  板張りの床に薄い毛氈を敷き、犀星は几案の前に座っていた。色づいた陽の光が、犀星の白い夜着を優しく染め、ゆるく解いた髪が頬に流れるさまに、東雨は見惚れた。  宮中で侍童となるべく育てられた東雨は、華やかな着物も美しい女性も見慣れていたが、犀星の姿は格別に思われた。  俺の、若様だ。  東雨は、にんまりとした。  自分が仕える相手を、自分で選ぶことはできない。  偶然と幸運に感謝する。  犀星の性格はかなり偏っており、苦労させられることが多いのも事実である。それでも、時折見せる不器用な優しさ、物思いに耽る時の寂しげな横顔は、東雨の胸を甘く締め付けた。  東雨は音を立てずに、犀星の膝の横に茶器の盆を置いた。そっと、その手元を覗く。自分より大きく長い指が美しく小筆をつまみ、整えられた毛先がしなやかに木簡の上を滑る。 「今日も、文ですか? 毎日よく続きますね」  その口調は、感心ではなく、呆れを含んでいた。侍童の主人に対する態度ではない。丁寧ではあるが、すっかり打ち解けて遠慮が消えていた。  この二ヶ月の間にもっとも変わったのは、二人の距離かもしれない。  都の市中にある涼景の屋敷を仮住まいとし、他に使用人を置かない犀星のために、東雨は全てのことをやらなければならなかった。  食事の準備から掃除、洗濯や縫い物、風呂の用意に薪割りまで、犀星は自分でやって見せ、東雨は必要に迫られて、それを覚えた。これらは当然、本来の侍童の仕事ではなかった。  反対に、式服の着付けや髪の結い方、宮中での礼儀作法や不文律については、東雨が犀星を補佐した。  侍童とは、生活力がないんだな。  若様は、俺がいないと何もできないんだから。  お互いにそんな感想をいだきながら、それでも徐々に距離は縮んだ。  出会ってすぐの頃は、東雨が一方的に話しかけるばかりだった。今では、犀星の方から他愛のない話を切り出すこともある。  東雨も、そんな犀星の変化を気に入っていた。  その彼が、唯一、賛同しないのが、犀星の日課である文だ。 「毎日毎日、何をそんなに書くことがあるんですか?」  腰に手をあてて、東雨は大人ぶった。 「お疲れなのだから、早く寝ればいいのに……」 「書くことは山ほどある」  筆を止めることなく、犀星は答えた。 「今日は、都で初めて兎を見た。故郷(くに)では、兎は食糧だが、ここでは愛玩用らしいな」 「高貴な方達は、食べたりしません」 「おまえも?」 「食べたことはありません……」 「今度、獲ってやる。兎なら小刀があればさばける」 「さばくとか、そういう問題じゃないです」 「では、なんだ?」 「高貴なご身分の方が、わざわざ召し上がる習慣はないのです」 「食べるに困らないから言えることだな」  思わず、東雨が言葉に詰まる。困惑した気配を察して、犀星は顔を上げた。 「すまない。お前を責めているわけじゃない。……兎だけでも、これだけ話題になる」 「はぁ……」 「俺が今、どんな場所にいるのか、周りに何があって、何がないのか、何を見て、何を感じたのか、それを書き記している」  遠くを見る犀星の横顔を、夕日が照らしだす。  息が止まるほどに綺麗だ。  東雨は木札を見た。  冷たい印象とは違和感のある、少し丸みを帯びた筆跡。  東雨は、宛名にある『陽』という名を勘ぐった。  一緒に育ったいとこだと聞かされているが、これほど思いを寄せるところを見ると、それだけの相手とは思われなかった。  文は、数日分を綴って、東雨が投函することになっている。 「そんな細かなことまで、逐一報告する必要があるんですか?」 「わずかでも、その積み重ねが絆を強くする」 「絆って……返事、一度も来ないじゃないですか」  一瞬、犀星が目元を乱した。動揺より、落胆に近い。 「若様は、こうして毎日書いているのに、お相手からの返事は、一度もありません。そんなの、不公平です」  犀星は自分の署名をゆっくりと書き付けながら、 「返事が欲しくて書く訳ではない。読んでくれたら、それでいい」  一途な犀星の思いは、なぜか東雨の心に暗い影を投げかけた。 「……読んでいないかもしれませんよ」  びくっと、犀星の筆が震えた。  しまった、と、東雨が怖気づく。 「……ごめんなさい。若様のご家族に、失礼なことを言いました」  犀星はじっと東雨を見た。その眼差しはどこか悲しげだった。 「その文のお相手……」  犀星の顔色が変わったのを、東雨は見逃さない。 「いとこ、ですよね?」 「ああ……」  犀星は茶器を手にすると、中身を一気に飲み干し、むせ返った。  あれ? 「もしかして、嘘ですか?」  八歳を迎えたばかりの東雨から見れば、犀星は十分に大人である。その事情に触れたことが、嬉しく切ない思いになる。 「嘘じゃない」  頬を赤らめて否定する犀星が面白く、東雨は懲りずに冷やかした。 「本当に? どんなに疲れていても、書いている時だけは、若様は優しい顔になりますよ」 「…………」 「気づいてなかったんですか?」 「そんなこと……」 「鏡をお持ちしましょうか?」  冷静さを欠いて言い訳をする主人を、にやにやしながら東雨が眺めていると、 「随分楽しそうだな」  突然、背後から声がした。  二人が振り返れば、中庭を突っ切って、涼景がこちらに歩いてきた。  犀星は露骨に顔をしかめた。 「おまえ、畑を、踏みつけたな?」 「畑?」  涼景は回廊に腰掛け、くつろいで片足を乗せる。 「今日の午後、種を蒔いたばかりだった」  犀星は悔しげに顔をそらした。涼景が首を傾げた。 「東雨、お前の主人は何を言っているんだ?」  東雨は苦笑した。 「中庭に、畑を作ったんですよ」 「はぁ?」  今きた方を振り返ると、確かに中庭の一部に黒々と土が盛り上げられ、畝のように見えた。  もともと、荒れたままにしておいた別宅である。気にすることもなく、自分はその上を歩いたらしい。  簡単には動じない暁将軍が、情けない顔を見せた。  東雨は声を立てて笑った。 「俺も驚いたんですけど……少しでも自給自足できるように、と、蕪と青菜の種を。成長が早いので、冬前に収穫できるそうで……」  涼景の眉が、ピクピクと動く。 「……事情はわかったが、質問がある」 「はい」  機嫌を損ねている犀星に代わり、東雨が答える。 「どうして、親王が自給自足する必要がある?」 「俺も、それは訊いたんですけど……『親王といえども人間だ』と」 「はぁ?」  涼景の困惑は深まるばかりだった。  犀星が贅沢を好まず、質素な生活を旨とすることを知ってはいたが、時折、いきすぎているように思われてならない。  犀星は横目で涼景を睨んだ。 「人の畑を踏み荒らして……しかも、こんな遅い時間に……」 「もともと、ここは俺の屋敷だ。勝手に庭を掘り返すな。しかも、まだ、宵の口だろ」  犀星と涼景がどんなに言い合っても、喧嘩になることはない。東雨は心配はしなかった。問題なのは、機嫌を損ねた犀星への対処である。状況が悪化する前に、涼景にはお帰りを願いたかった。  東雨はにっこりとして、 「すみません、涼景様。若様はお疲れなので、早めにお休みになりますから……」 「ああ、そうか、子どもは早く寝なくてはな」  自分より口の達者な涼景を相手に、元々話すことが得意ではない犀星は、不貞腐れて牀に寝転んだ。  涼景はやれやれ、と首を振った。 「大事な話があったんだが……」  東雨の希望とは裏腹に、涼景は無遠慮に部屋に上がってきた。犀星の牀の端に腰掛ける。首を傾けて、犀星は涼景を仰いだ。その仕草には年齢に不相応の色気がある。  こいつ、末恐ろしいな。  涼景は男女問わず無自覚に魅了する犀星の将来を、本気で心配していた。 「……さっさと話せ」 「ん? 話、聞いてくれるのか?」 「お前は理屈の通らないことはしない」 「褒めてもらえて嬉しいぞ」  軽い調子を装いはしたが、涼景は内心、犀星の落ち着きに安堵する。  普段は口数が少なく、考えの読めない犀星だが、かなりのことを見通していると、涼景は見抜いている。 「明日の戴冠式のことで、気持ちがわずらわしい。手短に」 「その戴冠式についての話」  涼景の声色が変わった。犀星は肘をついて半身を起こした。  あたりは夕暮れ遅く、すでに視界は暗く沈みつつあった。薄暮の弱い光のもと、犀星の髪がはらり、と揺れた。

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