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狂戯を喰む(2)

「何がある? 毒殺か?」 「その方がましかもな」  薄い夜着の襟元から覗く犀星の白い肌に、残光が妖しい色を落とした。宝順までが夢中になる犀星の蒼玉の瞳が、惜しげもなく自分ひとりに向けられる。  涼景は軽く唇を舐めた。 「まどろっこしい言い方はなしだ。言葉を選ばないぞ」 「遠慮などいらない」 「よし」  涼景は黙って、犀星の体を牀に押し沈めた。  まるで、これから手篭めにしようかという距離に体を落とす。  突然のことに、東雨は両手で顔を覆った。身分が上の相手のすることだから、と、止めることはできない。第一、犀星に抵抗する素ぶりがないのだから、自分が出て行くのは逆に失礼にあたる。  巷では、犀星と涼景が情を通じる仲だとの噂が流れている。  根拠のない邪推にすぎなかった。今の今までは、だ。  このふたりって……  東雨は指の間から、そっと牀の上を見つめた。  精悍な涼景と、眉目麗しい犀星の睦みあいが見られるのかと思うと、幼いながら、知識豊富な東雨は、ドキドキと胸が弾んだ。  邪魔をしたら、追い出されてしまうかもしれない。  東雨は二人の視界から逃れ、けれど、しっかりと様子が見える場所まで、そっと下がった。  涼景は更に声を低めた。まるで睦言のようにささやく。 「明日、お前は正式に第四親王として冠を受ける。式典も、その後の宴も、問題はない」 「では?」 「重要なのは、さらに、後だ」  犀星は、間近に迫る涼景の顔を、臆することもなく見つめている。その距離の近さなど、何の問題もない、という様子だった。  むしろ、涼景の方が喉を震わせた。 「皇帝がお前を連れ出すよう、命令を出した」 「何のために?」  涼景は大きく息を吸ってから、 「おまえの衣服をはぎ、体を晒し、男に犯させる」  思わず、東雨が体をこわばらせた。犀星は静かに、 「親王としての品格も権威も失墜させ、自尊心を砕き、逆らう意志を捨てさせるために?」 「察しが良くて助かる」 「俺が謀反を起こすとでも?」 「それもあるだろうが、おまえに限ったことではない。悪しき慣習、下卑た趣向。力量のある者たちは、皆、そうやって牙を折られてきた」 「場合によっては、自害を選ぶか」 「事実、何人も死んでいる」 「戴冠式だか、葬式だか、わからないな」 「冗談を言っている場合じゃない。星、明日の今頃、お前は辱めを受けているんだぞ」 「それで、俺にどうしろと?」  静かに、しかし、どこか凄みのある声で、犀星は涼景を真っ直ぐに見つめた。その眼差しには、生き抜く強さと曲げることのない意志が色濃く現れている。  動じるか、と思った涼景は、冷静な犀星の反応に戸惑った。 「皇帝は、おまえに選ばせるはずだ」 「自分を犯す相手を?」  さらりと言って退けた犀星の口元に、感情はなかった。 「ずいぶんな趣味だな」  涼景は、犀星の鋭い雰囲気に、背中が凍りつく感覚を覚えた。  何度も死線をくぐり抜けてきた涼景ですら、犀星が時折見せる底知れぬ闇に何が潜んでいるのか、読み取ることはできなかった。  涼景は口付けるほどに近く、顔を寄せた。東雨が柱の陰で息を飲む。犀星はいたって真顔だ。 「星、俺を選べ」  涼景の息が、犀星の唇を撫でる。 「お前を?」  涼景は犀星がこばまないことを確かめるように、さらに詰め寄った。 「俺のものになれば、他の連中は今後、お前に手出しはできない」 「暁将軍様のお手つきなら、俺の身は安泰、というわけか」 「言っておくが……」  涼景は、乱れかけた呼吸を継いだ。 「あくまで、おまえの傷を浅く済ませるための苦肉の策だ。それ以上は期待するな」 「生き残るための芝居か」  涼景に反して、犀星の声は穏やかだ。 「星、この話、乗るか?」 「ひとつ、教えてくれ」  犀星は涼景から不意に顔を逸らした。かすかに、涼景の唇が犀星の頬をかすめて震えた。 「涼景。どうしておまえ、そこまでして俺を助けようとする?」  本当に信じていいのか? 「宮中では誰も信じるな。そう俺に言ったのはおまえだ。今とて……」  犀星は、視線だけを涼景に送った。 「もてあそぶだけだと、誤解されても仕方ないぞ」  伏せ目がちな青い瞳は、無自覚に扇動的である。  涼景の目が震え、のしかかった四肢がぎゅっと犀星の身体を締める。 「……まずい」  正直に、つぶやき、涼景は力を絞って体を起こすと、犀星を解放した。  東雨は、がっかりしたようにため息をついていた。年齢よりもませて、好奇心の強い少年である。  涼景は改めて牀に腰掛けた。あえて、少し距離をとる。犀星はゆっくりと体を横に向けた。東雨はつまらなそうに柱にもたれた。 「さすがに、来るな……」  口元に手をやり、涼景はかすかに言った。頬がわずかに赤く、落ち着きがない。真意に気づいているのかわからない顔で、犀星は涼景を見た。  どれほど賢く、聡明であろうと、犀星はまだ、宮中の醜さに翻弄される弱い存在である。それは誰よりも、犀星自身が知っていた。 「なぁ、星」  少しかすれた声で、涼景は目を合わせることなく、 「この際、聞いておくが?」 「うん?」 「おまえ……女を抱いたことはあるか?」  ビクッとしたのは、犀星よりも東雨である。犀星は静かに首を横に振った。 「それじゃ……」  言いづらそうな涼景に代わり、犀星がスラスラと答える。 「女を抱いたことも、抱かれたことも、男を抱いたことも抱かれたこともない」  そうだったのか!  期せずして、涼景と東雨は、犀星を振り返り、凝視した。  年は若くとも、犀星ほどの美貌があれば、遊びであろうと浮いた話の一つ二つあってもおかしくないところである。 「それから」  と、犀星は少し目を細めて、涼景を見上げた。 「口付けたら、殺す」 「……そんな顔してなかったぞ」  ついに、涼景と東雨は頭を抱えた。 「星、おまえ、今までどうやって生きてきた?」 「普通に」 「普通じゃねぇ!」  直前までの緊張がぶっつりと切れて、涼景は肩を落とした。 「……とにかく、明日の事情はわかったな?」 「どうしても誰かを選べと言われたら、おまえを選べばいいんだろ?」 「……俺で、我慢してくれ。おまえの父、犀侶香様には返しきれない恩義がある。まさか、他の奴らに手をかけさせるわけにはいかないんだ」 「仕方ないな」 「心配するな、本気にはならないから」 「…………」  当然、当たり前だ、と返ってくると踏んでいた涼景は、何か言いたげな犀星の沈黙に、硬直した。  犀星の無表情からは、何も読み取ることはできない。  ただ、じっと涼景を正面から見つめるだけだ。  まさか……星、おまえ……?  思わず、自分に都合の良い展開を期待している自分に焦る。 「わかったから、帰れ」  そう言うと、犀星はそれきり黙り、牀に潜り込んだ。  食いつきかけた餌を逃した顔で、涼景はわずかに背中を丸めた。  翌日、涼景は近衛の小隊をともなって、犀星を迎えにきた。  夜通し降り続いた雨が空気を清め、いつもより眩しく思われる太陽が差し込む早朝。犀星は華やかな正装を身にまとい、東雨と共に宮中へ向かった。  涼景から借り受けている市中の邸宅から、大路を通って朱雀門へ。  馬上にある美しい親王は、儀式鎧姿で護衛する涼景ともども、民衆の視線を一身に集めていた。  宮廷人たちには無愛想この上ない犀星だが、都の人々に対しては、少々の笑みを見せる。  これは、彼の養父、犀遠の影響らしかった。  警戒心の強い都の民は、少し遠巻きに犀星を眺め、ささやきあう。  正装の親王を、間近に見ることは珍しい。  宮中の隔離された場所で行われる特別な式典の数々は、民にとっては遠い存在だった。宮中と自分たちとの世界は一線を画している。すぐそばにありながら、別の世界である。  だが、犀星は今までの貴人たちとは明らかに違う。自分たちと同じ道を歩き、同じ風の中に暮らしている。その距離の近さは、親しみと好奇心、かすかな期待を与えた。  民は敏感だ。  為政者が何を見ているか、自分たちをどうするつもりか、当人たちが思うよりも核心を感じ取る。  それは政治を執る者にとって、決してあなどってはならない目だ。  彼らの心は、得がたく、そして離れやすい。  犀星はそれを、養父から学んでいた。 「あれ、本当に親王だったのか?」 「暁様の情夫じゃなかったのか?」  人の中から、押し殺した声が聞こえてくる。東雨は耳を澄ませた。 「昨日、うちで油を買って行ったぞ」 「俺に、葱の育て方を尋ねていた……」 「いつも、麻の着物を着ているじゃないか」 「鍬をかついでいるところを見た……」  市中に溶け込み、みなと変わらぬ暮らしをしていた犀星の噂。  東雨は、どんな顔をして良いのかわからなかった。  親王の、それも唯一の従者として、もっと堂々と誇らしくありたかったが、気恥ずかしさが少年をうつむかせた。 「でも、綺麗な人ね」  女性の声が聞こえた。 「あの髪……目も、見たことがない色だわ」 「顔立ちも凛々しくて……」 「まだ十五だそうよ」  東雨の顔が、少しずつ上向いた。  清々しい秋の日に、新しい親王への静かな興奮が、人から人へ満ちていった。  市中の北にそびえる朱雀門。その先には、広大な宮中の敷地が広がる。  宮中は、南、中央、北の三区からなり、戴冠式が行われる瑞祺堂(ずいきどう)は中央区の東に位置する。  昨夜の雨で舞い散った十月桜の花びらが石畳を染め、散らされることを知りつつ歩む犀星の面影と重なった。  涼景の忠告がなければ、心は軽かったかもしれない。  犀星は、変わらない表情のまま、深く考えに沈んでいた。  涼景の全てを信じることはできない。  彼もまた、身分も立場もある人間であり、皇帝が贔屓する将軍に変わりはない。いかなる理由があろうとも、今はまだ、全幅の信頼とはいかなかった。  申し出には一理あるが、それは同時に、自分の命運を涼景個人に委ねることにもなる。  犀星が求めるのは自立であり、誰かの庇護に入ることではない。  どうすることが最善か……  犀星は眠たげな目で、なおも考え続けていた。  馬を並べる涼景が、ちらちらとこちらを見ている。  叶うならば、涼景が真に友として信じるに足る人間であればよいのだが……  犀星は、一度信頼すれば疑うことはない。だが、そこに至るまでの過程は慎重を極める。  南区をぬけて、中央区に入る。その境には、近衛隊が列を作って待ち構えている。犀星の姿を見つけるや、静かに腰を落としてひざまづいた。  近衛隊には、左と右の二つの部隊がある。犀星の警護を担当するのは右近衛であり、涼景はその隊をまとめる立場にある。  隊士たちはみな、帯に白色の厚手の小さな布を垂らしている。白は右近衛を象徴する色だ。対する左近衛は黒、そして、皇帝直々の宮中の禁軍は、黄金色を象徴としている。  都の者ならば、身につけた佩布の色で、その派閥を理解する。右と左は役割上分かれるだけではなく、革新派の右、因習派の左、という流れを汲む。  犀星が最近必死に覚えた、宮中の勢力情報だった。  犀星は懐から木札を取り出した。  今日の出来事を記すための札には、宛名の他にはまだ、何も書かれてはいない。大切な名にそっと唇で触れる。  その仕草を、近衛たちが目配せしながら伺っている。 「……守って」  隣の東雨にも聞こえない声で、小さく願う。  馬の足並みはゆるやかに、瑞祺堂への道をたどる。  厳重な近衛の隊列が、犀星を取り巻いて共に進む。  貴族階級の男女が、好奇心をたたえ、次々と建物から姿を現した。  誰もが、興味津々で犀星の姿を追った。目を奪われ、感嘆がそこかしこから聞こえてきた。  瑞祺堂の門の前で、一行は馬を止めた。

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